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美術に関するレビュー/プレビュー

プレビュー:VvK Programm 17「フクシマ美術」

会期:2016/12/13~2016/12/25

KUNST ARZT[京都府]

VvK(アーティストキュレーション)の17回目は、岡本光博がキュレーションする「フクシマ美術」。岡本がこれまで企画した「美術ペニス」(2013)、「モノグラム美術」(2014)、「ディズニー美術」(2015)に続く、挑発性とユーモアを合わせ持つグループ展だ。Chim↑Pomをはじめ、出品作家の顔ぶれも興味深い。地中に眠っていた種が津波によって開花した水葵(万葉集では求愛の歌として詠まれた)を象徴的に用いる吉田重信、「呼吸する」大地の上にある私たちの生活を地質学者らの協力を得て突きつける井上明彦、主婦/コレクターという視点から「雑巾」に怒りや願いを込める田中恒子、東日本大震災と原発事故を題材にしたエルフリーデ・イェリネクの戯曲『光のない。』を暗誦しながら彷徨うやなせあんり、放射性廃棄物を詰めた黒い袋(フレコンバッグ)をポップなキャラクターに変容させて「無害化」することで、逆説的に得体の知れない不気味さを増幅させる岡本光博。メディアによる情報の画一化によって単一化された「フクシマ」像という忘却以前の「忘却」に抗して、アートはどのように問題提起できるかが係争点として問われている。加えて、自主規制や検閲とアートの関係も焦点になるだろう。


Chim↑Pom《気合い100連発》2011 ビデオ
copyright by Chim↑Pom
Courtesy of the artist and MUJIN-TO Production

2016/10/31(高嶋慈)

THE PLAY since 1967 まだ見ぬ流れの彼方へ

会期:2016/10/22~2017/01/15

国立国際美術館[大阪府]

国立国際で同時開催の「The play since 1967」展がめっぽう面白い。僕の生年に始まった関西を拠点とする前衛芸術集団ザ・プレイは、残るモノをつくるのではなく、体験の場や状況を生み出す。いわばイベント参加型の地域アートでもあるが、行政の芸術祭という縛りがなく、自主的に遂行しているので、結構やんちゃだ。イベント型アートの資料を考える国立国際のシンポジウムがちょうど開催されており、THE PLAY展の企画にかかわった橋本梓による趣旨説明と平井章一による具体やグループ「位」に関する報告までを聴講した。位の「芸術」を疑う非人称芸術も興味深い試みだ。なお、現物がない彼らの回顧展示の難しさは、建築展にも通じる問題だ。

2016/10/29(土)(五十嵐太郎)

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アカデミア美術館所蔵 ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち

会期:2016/10/22~2017/01/15

国立国際美術館[大阪府]

新国立美術館での展示を思い出しながら、2度目の鑑賞である。イタリアのルネサンス絵画は特に色彩が美しい。目玉のティツィアーノの絵画《受胎告知》の両側に、古典主義風の柱を展示デザインとして入れているが、わりと細部までよくできているもののなんかヘンだ。教会での展示写真と比較すると、やはりイオニア式オーダーの渦巻きを省略していた。古典主義建築の文法にとっては、一番肝心な部分なのだが。

2016/10/29(土)(五十嵐太郎)

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中尾美園 個展「Coming Ages」

会期:2016/10/08~2016/10/29

Ns ART PROJECT[大阪府]

中尾美園(みえん)は、京都市立芸術大学大学院保存修復専攻を修了し、歴史的絵画の保存修復に携わりながら、日本画材を用いた自作の発表も行なう作家である。中尾はこれまで、祖母の嫁入り箪笥に残された着物・帯・かんざし、京都市内の水路で拾い集めた落ち葉や植物、漂流物などを、ほぼ実寸大の「模写」「写生」によって精緻に描いてきた。
本個展では、奈良県明日香村のアートプログラムで制作した《和子切》(かずこぎれ)がまず目を引く。「切(きれ)」とは、「布」「裂」とも書き、織物の切れ端や織物そのものを指す。中尾は、村に住む「和子」という名の老婦人の嫁入り箪笥を取材し、着物や末広(扇)、三味線のバチ、へその緒など、大切にしまわれていたモノにまつわる記憶を聞き取った後、模写を行ない、絵巻として桐箱に収めた。確かな技術に支えられた描写力の高さ、「模写」に徹した客観性、図鑑的な整然とした並べ方だが、「お気に入り」「誰々からもらった思い出の品」といった記憶が丁寧な手書き文字で添えられ、繊細な手触りや柔らかさが同居している。
また、《6つの眞智子切(想定模写)》は、同じく明日香村に住む「眞智子」という名の老婦人の桐箪笥に保管されていた2つの品を描いている。天皇家とゆかりの深い橿原神宮で結婚式をあげた際に、神社から譲られた日の丸と、式で使用した末広(扇)である。ただし、国旗(の一部)と扇という同一モチーフは、6つの異なる「未来」を想定して描かれている。正常な保存、水濡れ、破れと素人によるテープ補修、火災による焼け跡、子どもの落書き、そして紛失。最後の「紛失」は、「かつてあった」姿の証左として、小さな「モノクロ写真」で代替されている。「6」という数字は、仏教で説く六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人道、天道)の世界を絵画化した仏画にちなんでいる。
《6つの眞智子切(想定模写)》が興味深いのは、保存修復という営為の根幹への問いを内在化させている点だ。過去から伝えられたモノが被った破損や劣化の修復作業は、後世に伝え残すという側面を合わせ持っている。だが、未来の時間に私たちは介入できない。複数の「未来」に想定される、不可避的なアクシデント。その時、修復家は、モノが被った傷跡を全て抹消して「現状復帰」し、その痕跡を消し去って見えなくしてしまうのか? あるいは、傷や痛みを修復可能な/除去すべきエラーと見なすのではなく、 物理的身体に刻まれた過去の痕跡を物語る証としてどこまで残すべきなのか? そもそも、紙や布を扱う修復技術や道具は廃れずに伝承されているのか? 中尾の作品は、スキャンによるデジタルデータ化や3Dデータ保存といった時代の流れに対し、一見逆行するかのような「手描きの模写」だが、記憶とモノ、保存修復という自身の仕事、ひいては過去の想起という営みそのものへの倫理的かつ本質的な問いを重層的にはらんでいる。
また、中尾が主に扱う対象が、歴史的価値を公に認められた「文化財」ではなく、大文字の歴史でない私的な記憶であり、とりわけ女性の人生と密接に関連した着物や装飾品であることにも注目したい。そこには、精密な描写の美しさに加えて、同性として彼女たちの人生や記憶に手触りを持って寄り添おうとする、柔らかで繊細な眼差しが感じられる。


左:中尾美園《和子切》 紙本着色 2016 右:中尾美園《6つの眞智子切(想定模写)》 紙本着色 2016
© Ns ART PROJECT 2016

2016/10/29(高嶋慈)

KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN 小泉明郎 CONFESSIONS

会期:2016/10/28~2016/11/27

京都芸術センター[京都府]

本展は「KYOTO EXPERIMENT 2016 京都国際舞台芸術祭 AUTUMN」の展示プログラムのひとつとして開催された。なぜ舞台芸術祭で小泉明郎なのかと思ったが、彼の映像作品が持つ演劇性に着目したらしい。展覧会のテーマは「告白」で、作品は《忘却の地にて》と《最後の詩》の2点が選出された。筆者が注目したのは前者である。同作では、第2次大戦中に非人道的な任務に就いた元日本兵のトラウマが、独白(音声)と風景の映像で綴られる。時々言葉に詰まり、必死に思い出そうともがく男。その緊迫感に、見ているこちらも心が締めつけられる。ところが背面に回って驚かされた。じつは、交通事故で脳に損傷を受け記憶障害を抱えた男性が、元日本兵の証言を暗記して語っていたのだ。裏切られた! 落胆、憤り、虚脱感が一挙に押し寄せる。なんだこれは。ブラックユーモアにもほどがあるだろう。しかし冷静に考えてみると、こちらが勝手に思い込んでいただけだ。元日本兵の言葉も、それ自体に偽りはない。本作は、人間の記憶や心象がどのように形作られ、どのような危うさを持っているかを伝えている。このヒリヒリした感覚、人間の痛いところをわざと突いてくる感じは彼独特のものだ。作品を見るといつも嫌な気持ちにさせられる。でもけっして嫌いにはなれない。小憎らしいアーティストだ、小泉明郎は。

関連フォーカス

舞台芸術を支えるローカルな土壌と世界的同時代状況への批評性──KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2016 AUTUMN|高嶋慈:artscapeフォーカス

2016/10/28(金)(小吹隆文)

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