artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
ヒデとサッコのアトリエショウ
会期:2016/07/07~2016/09/03
FUKUGAN GALLERY[大阪府]
*キャンプ合宿は、島ヶ原温泉・やぶっちゃの湯[三重県]
画家の田中秀和と栗田咲子が、ギャラリー内にアトリエを移設して公開制作を実施(その前にプレイベントも)。途中でキャンプ合宿(一般の方も有料で参加できる)を行ない、8月に展覧会で成果を発表する。それが本展の概要だ。筆者が取材したのは前期の公開制作のみ。しかも田中は仕事と掛け持ちのため不在という、中途半端な状態だった。それでもこの企画を取り上げたのは、制作現場を見たいというシンプルな欲求もさることながら、会場に漂うリラックスした雰囲気が気に入ったからだ。そこには、アーティスト(つくる側)と観客(見る側)の区別が曖昧で、美術業界のシステムから解き放たれた空間があった。既存のシステムを否定することなく、オルタナティブな価値観を提示すること。そこに本企画の意義がある。
2016/07/07〜07/09(前期 公開制作)
2016/07/16〜07/17(キャンプ合宿「野営芸術」)
2016/07/21〜07/31(中期 公開制作)
2016/08/20〜09/03(後期 成果発表展示)
2016/07/08(金)(小吹隆文)
デトロイト美術館展 太西洋を渡ったヨーロッパの名画たち
会期:2016/07/09~2016/09/25
大阪市立美術館[大阪府]
メトロポリタン美術館やボストン美術館と並ぶ、アメリカ屈指の美術館のひとつ、デトロイト美術館。同館が誇るコレクションから、近代ヨーロッパ絵画の名品52点を紹介しているのが本展だ。その内容は、「印象派」、「ポスト印象派」、「20世紀のドイツ絵画」、「20世紀のフランス絵画」の4章から成り、19世紀後半から20世紀前半のヨーロッパ美術の流れがコンパクトにまとめられている。ドガ、ルノワール、ゴッホ、セザンヌなど複数の作品が見られる作家も多く、特にピカソの7点は見応えがあった。……などと褒め言葉を書き連ねてみたが、筆者が興味をそそられたのはそこではない。デトロイト市が財政破綻し、コレクション売却の危機に見舞われた美術館が、そのコレクションで企画展をパッケージして海外に売り込み、延命を図った経緯のほうである。少子高齢化が進む日本でも、近い将来、財政破綻する自治体が次々に現われるだろう。そのとき、日本の美術館はどのように生き残りを図るのか。今から具体策を考えておいたほうがいと思う。
2016/07/08(金)(小吹隆文)
浅田政志写真展「ほぼ家族。」
会期:2016/06/18~2016/08/04
入江泰吉記念奈良市写真美術館[奈良県]
昨年、写真家の百々俊二が館長になってから、奈良市写真美術館のラインナップが大幅に変わってきた。もともと入江泰吉の作品を中心に展示してきたのだが、大胆な内容の写真展を次々に開催するようになった。今回の浅田政志「ほぼ家族。」展(入江泰吉「まほろばの夏」展と併催)も、意表をついたいい企画だった。
浅田は2009年に自分自身を含む家族のパフォーマンスの記録、『浅田家』(赤々舎、2008)で木村伊兵衛写真賞を受賞してデビューする。その時点で、たしかに面白い写真には違いないが、写真家としてこの先どんな風にキャリアを伸ばしていくのかが心配ではあった。いわゆる「一発屋」ではないかと危惧していたのだ。ところが、彼はその後も次々に新しいプロジェクトを実行し、精力的に自分の作品世界を拡大しつつある。今回の展覧会では、2000年にスタートして、現在も撮り続けているという「浅田家」をはじめとして、「NEW LIFE」、「八戸レビュウ」、「アルバムのチカラ」、「卒業写真の宿題」、そして近作の「みんなで南三陸」といったシリーズが、盛りだくさんに並んでいた。
浅田の写真の特徴は、徹底して「記念写真」にこだわり続けていることだろう。「記念写真」は19世紀以来、写真撮影のもっとも基本的なあり方として機能してきたのだが、当事者(撮り手とモデル)にとっては重要な意味を持っていても、第三者にとっては、関係のない写真と見なされてきた。浅田の写真がユニークなのは、「記念写真」を風通しよく万人に開いていることである。綿密な打ち合わせによって「どう撮るのか」を決め、細やかな気配りで写真家とモデルとの共同作業を進めていくことで、彼の写真には観客を巻き込んでいくパワーが宿ってくる。特に東日本大震災を乗り越えていこうとする人たちを対象にした「アルバムの力」や「みんなで南三陸」を見ると、彼らを親密な「擬似家族」として撮影していく「記念写真」のスタイルが、とても有効に働いていることがわかる。
2016/07/07(木)(飯沢耕太郎)
メアリー・カサット展
会期:2016/06/25~2016/09/11
横浜美術館[神奈川県]
印象派を代表するアメリカ人女性画家、メアリー・カサットの回顧展。日本では1981年に伊勢丹美術館と奈良県立美術館を巡回した展覧会から35年ぶりにカサットの絵画を鑑賞できる貴重な機会である。油彩画をはじめ、パステル画や版画、カサットと親交のあったエドガー・ドガやベルト・モリゾ、カミーユ・ピサロらの作品、そしてカサットに大きな影響を与えた葛飾北斎や喜多川歌麿の浮世絵など、併せて112点が展示された(なお同館の後、京都国立近代美術館に巡回する[9月27日~12月4日])。
「あふれる愛とエレガンス。」──本展のチラシに記載されたキャッチ・コピーが示しているように、メアリー・カサットは愛と優美の画家として語られることが多い。事実、カサットの代名詞とも言える母子像──例えば《眠たい子どもを沐浴させる母親》(1880)や《母の愛撫》(1896頃)など──を見ると、母子に限りなく接近したスナップショット的な構図に基づいているせいだろうか、子どもに注がれた温かい視線と慈しみの感情を存分に味わうことができる。
しかしメアリー・カサットの真骨頂は、必ずしも母性愛を美しく描いた点にあるわけではない。それは、むしろ「母性愛」から女性を解放するジェンダー・フリーの視点を巧みに描き出した点にある。
本展最大の見どころは、本邦初公開となる《桟敷席にて》(1878)である。中心に描かれているのは、劇場の桟敷席からオペラグラスをとおして舞台を見つめる女性。きらびやかなドレスを着飾る周囲の女性たちとは対照的に、彼女はシックな黒いドレスに身を包んでいる。社交の場である劇場には似つかわしくないが、逆に言えば、社交を望んでいないことの現われでもある。事実、彼女の横顔から伺えるのは、脇目もふらず舞台を一心に見つめる力強い眼差しだ。左手で持つ硬く閉じられた扇子も、周囲の喧騒をよそに舞台に集中する彼女の頑なな意志を体現しているように見えなくもない。
この絵画が面白いのは、彼女の背後に男性の視線を描いているからだ。桟敷席の奥にいるのは、同じくオペラグラスで彼女を露骨に見つめる男性。身を乗り出すほどだから、おそらく好色の視線で彼女を凝視しているのだろう。けれども、彼女が男性の視線に応えることはない。あるいは、オペラグラスを持つ右手で不快な視線を遮断しているのかもしれない。いずれにせよ、この絵画には決して交わることのない2つの視線が描き出されているのである。
視線の非応答性。カサットの《桟敷席にて》に見出すことができる特徴をそのように言い表わすとすれば、それは、例えばオーギュスト・ルノワールの《桟敷席》(1874)と比較してみれば、よりいっそう際立つにちがいない。カサットが描いた控えめな彼女とは対照的に、ルノワールの描いた彼女は艶やかなドレスを着飾り、胸元のバラが華やかな印象をよりいっそう強めている。しかも、ルノワールの彼女の視線は絵画を鑑賞する私たち自身にしっかりと向けられているが、その先には対面の桟敷席から彼女をオペラグラスで見つめる男性がいることは想像に難くない。なぜなら、彼女の背後には同伴しているのだろうか、オペラグラスで劇場内の女性を物色している男性が描かれているからだ。つまり、彼女は自らに注がれた男性からの視線に応答しているわけだ。口元には、かすかな微笑みが浮かんでいるから、これから何かが始まるのかもしれない。
見る主体としての男性と見られる客体としての女性。ジェンダーアートにとっての基本的な図式を踏まえるならば、ルノワールは見られる客体としての女性を順接的に描いたのであり、その反面、カサットは見る主体としての女性を逆接的に描いたと言えよう。あるいは、カサットはルノワールが描いた旧来の女性像を転覆したと言ってもいい。男性からの視線に一切応答せず、あくまでも自らが見たい対象を一心不乱に見る。そのような自立した女性像は、印象派のみならず、当時の社会状況のなかでも画期的だったと考えられるからだ。グリゼルダ・ポロックが的確に指摘したように、「そうして積極的に見ているところを描くことによって、彼女が対象化されるのを防ぎ、彼女を視線の主体にしているのである」(『視線と差異』p.126)。
ただ、あえて深読みするならば、メアリー・カサットは見る主体としての女性を描写することで、見る主体としての男性と見られる客体としての女性という支配関係を象徴的に反転させただけではない。カサットは、そこからもう一歩踏み込んで、男性に依存しない、より自由な女性の生き方を絵画のなかで夢想していたのではなかったか。
前述したように、メアリー・カサットは母子像を繰り返し描いていたが、よく見ると、そこには父親としての男性が一切含まれていないことに気づく。むろん家庭という私的領域に囲い込まれた母と子の深い紐帯を強調して描写した結果として、公的領域と私的領域のあいだを自由気ままに往来する男性が画面から除外されてしまったと考えることもできなくはない。しかし母と子の多幸感あふれる世界を見ていると、カサットは男性=父親を意図的かつ入念に画面から排除したように思えてならない。ちょうど《桟敷席》の彼女が男性からの吟味の視線をはねつけながら、あくまでも観劇する主体として振舞っていたように、カサットは母と子だけで完結した幸福な想像世界を画面上に確信的に描写したのだ。
そこに、カサット自身が生涯未婚であり、子どもを産むこともなかったという事実を重ねて見ることは容易い。けれども重要なのは、カサットの想像力を事実によって裏づけることより、むしろその想像力に私たち自身の想像力を重ねることだろう。カサットの母子像における男性ないしは父親の不在が暗示しているのは、家父長制に束縛された母性愛とは対照的に、女性同士の連帯を示すシスターフッドによって成立する母性愛ではなかったか。その先にレズビアンにとっての家族のイメージを見出すことすらできるだろう。
2016/07/05(火)(福住廉)
メアリー・カサット展
会期:2016/06/25~2016/09/11
横浜美術館[神奈川県]
日本で初の展覧会ではないのだが、個人的に彼女の名前を知ったのは、20年ほど前、シカゴ万博や女性建築家論を書くために調べものをしていたときだったので感慨深い。カサットはアメリカ人の裕福な家に生まれたが、絵の勉強のために渡航して以降はほぼパリで暮らしていた。こうして作品をまとめて見ると、印象派の作風は、母子像を含む日常生活を切りとる題材とも相性がよい。また展示では、浮世絵のデザイン的な構成が彼女に与えた影響も紹介していた。
2016/07/03(日)(五十嵐太郎)