artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
宇山聡範「Ver.」
会期:2016/07/05~2016/07/16
写真家の宇山聡範はこれまで、ビジネスホテルの室内を細密に写し取った「after a stay」、ビジネスホテルの窓から見える風景を四角い画中画のように切り取った「through a window」といったシリーズにおいて、普段とりたてて凝視されることのない光景を、限定された視点から写真的視覚として置換する試みを行なってきた。「after a stay」では、カーテンの襞やシーツの皺、壁紙の模様や凸凹といった表面の微細な起伏が注視されるとともに、室内空間が幾何学的な構図で切り取られ、写真によって平面性へと還元される。また、「through a window」では、室内の窓から外の風景を切り取るというシンプルな行為のうちに、「写真」への自己言及が何重にも胚胎する。暗い室内に開いた明るい窓によって切り取られた光景は、写真の起源のひとつとしての「カメラ・オブスキュラ」やフレームという視覚的制度への言及であるとともに、手前の桟やガラスに貼られたシールが黒い影として写されることで、レイヤー構造や空間的奥行きの圧縮としての写真が示される。
今回の個展「Ver.」では、火山の噴火などの地殻変動が生み出した地形が撮影されている。室内の光景から、窓越しの風景へと向かった眼差しが、「窓」の外へ出て風景と直接対峙するという導線を描くこともできるだろう。写されているのは、硫黄の噴出の跡が残る荒々しい岩肌や火山湖などだ。だが写真家の視線は、全景を視野に収めて視覚的充足を満たすのでもなく、岩肌のディティールに寄るのでもない。風景に対峙してはいるが、パノラマとして把握できる一望的な風景と、「モノ」として見ようとする視線のあいだで不安定に揺れ動いている(「空」が一切写されていないことも、全体像の把握を妨げる)。
宇山によれば、これらの撮影場所は、「地獄谷」といった架空のイメージや物語を貼り付けて眼差しを向けられてきた。だがそうした物語性は、風景への「解釈(version)」に過ぎず、キャプションの補足がなければ写真に写ることはない。ピントの操作による遠近感の撹乱、距離感の圧縮、平面性への還元・抽象化。物語性の剥奪は、写真的視覚への変換(convert)であり、それは同一性ではなく、つねに異なる場所を占めるもの(variation)として回帰する。
2016/07/16(土)(高嶋慈)
新正卓「OROgraphy─ARAMASA Taku HORIZON」
会期:2016/07/06~2016/07/19
銀座ニコンサロン[東京都]
新正卓は、南米の日系移民を撮影した『遥かなる祖国』(朝日新聞社、1985、第5回土門拳賞受賞)や、日系人収容キャンプの記憶を辿った『約束の大地/アメリカ』(みすず書房、2000)など、ドキュメンタリーの秀作で知られる。だが、2007年に武蔵野美術大学教授を退官し、奈良に住み始めた頃から、外に向いていた眼差しを反転させ、内なる精神世界を探求し始めている。今回、銀座ニコンサロンで展示された「HORIZON」(20点)のシリーズは、2006年の退官記念展(武蔵野美術大学)で発表された「黙示」の延長上にある作品だが、その構想は「当初のプランを大きくはみ出し」て、より広がりと深みを増してきた。
写されているのは、植物(花)とその背後に広がる水平線だが、撮影場所は日本各地の海に面した崖である。つまり、その視線の先にあるのは見えない国境線ということになる。その茫漠とした眺めを強調するかのように、今回のシリーズは「OROgraphy」という特殊な技法で制作されている。19世紀から20世紀初頭に、滅びゆくネイティブ・アメリカンを撮影したエドワード・カーティスの「金泥を用いたガラス・プレート陽画」に倣って、画像の組成に金を加えてデジタル加工しているのだという。それだけではなく、一部の作品はピンホールカメラで撮影されている。つまり現実の風景を、さまざまな手法で魔術的に変換することがもくろまれているのだが、その狙いは成功と失敗が相半ばしているのではないだろうか。植物の猛々しい生命力はよく写り込んでいるのだが、それぞれの場所の固有の表情が、どれも均一なものに見えてくるのが、どうしても気になるのだ。
このシリーズは、まだこの先も変容し続けていきそうだ。その行方を見続けていきたい。
2016/07/15(金)(飯沢耕太郎)
石内都展 Frida is
会期:2016/06/28~2016/08/21
資生堂ギャラリー[東京都]
石内都の写真は、原爆の被災者の遺品を撮影した「ひろしま」(2008)を契機にして大きく脱皮を遂げる。被写体が人間からモノに移行し、鮮やかなカラー写真で撮影されるようになる。白バックで、衣服(布)がふわふわと宙に漂うような撮り方も特徴的で、人々の記憶が纏わりつく遺品を撮影しているにもかかわらず、軽やかで遊戯的な雰囲気が生じてくる。そのような作品のあり方は、今回の「Frida is」にもそのまま踏襲されている。
このシリーズは、2012年にフリーダ・カーロ美術館の依頼を受けてメキシコ・シティで撮影され、写真集『Frida by Ishiuchi』(RM、2013)が刊行された。その制作過程をドキュメントした『フリーダ・カーロの遺品─石内都、織るように』(監督=小谷忠典)も2015年に公開されている。あらかじめ、どんな作品なのか充分に承知しているつもりで出かけたのだが、会場で実際に展示を見て、とても新鮮な印象を受けることに逆に驚いた。石内の展示のインスタレーションのうまさには定評があるが、今回も大小の作品の配置の仕方が絶妙で、観客を写真の世界に引き込んでいく。写真の色味に合わせるように、壁を黄色、青、赤、藤色に塗り分けたのも素晴らしいアイディアだ。個々の作品がより膨らみを持って見えてくるように感じた。フリーダ・カーロのトレードマークというべき派手な色合いの民族衣装よりも、むしろ薬壜、洗面器、眼鏡、体温計といった小物をいとおしむように撮影した作品のパートに見所が多いのではないだろうか。
展覧会にあわせて写真集『フリーダ 愛と痛み』(岩波書店)とエッセイ集『写真関係』(筑摩書房)が刊行されている。また、同時期に開催されている「BEAUTY CROSSING GINZA」の企画の一環として、資生堂パーラー、資生堂銀座オフィス、SHISEIDO THE GINZAなどでも、石内の「NAKED ROSE」や「1・9・4・7」のシリーズが展示されていた。
2016/07/15(金)(飯沢耕太郎)
12 Rooms 12 Artists 12の部屋、12のアーティスト UBSアート・コレクションより
会期:2016/07/02~2016/09/04
東京ステーションギャラリー[東京都]
世界最大のアートフェア「アート・バーゼル」などに支援する金融グループ、UBSの企業コレクション3万点以上のなかから、12作家の約80点を選んで展示。「12の部屋」といっても作家ごとに12室に分けているわけではなく、ただ作家別に展示してあるだけ。エド・ルーシェとルシアン・フロイドが中心で、ふたりで50点以上を占めている。チラシにはフロイドの油彩画が使われているが、フロイドの油彩はこれ1点だけで、25点はエッチング、1点は水彩だ。エド・ルーシェは28点のうち油彩は3点だけで、あとは版画とドローイングばかり。ミンモ・パラディーノは油彩1点、サンドロ・キアは油彩2点、デイヴィッド・ホックニーはドローイング2点にフォトコラージュ1点の出品。なんか期待はずれの展覧会だが、唯一、片脚が台座からはみ出したアンソニー・カロのブロンズ彫刻《オダリスク》は、見て得した気分になれた。
2016/07/15(金)(村田真)
From Life─写真に生命を吹き込んだ女性 ジュリア・マーガレット・キャメロン
会期:2016/07/02~2016/09/19
三菱一号館美術館[東京都]
昨年、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)で、生誕200年を記念する回顧展が開かれたジュリア・マーガレット・キャメロンの巡回展。キャメロンは48歳のとき娘夫妻からカメラを贈られて撮り始めたという遅咲きで、その後の活動期間も亡くなるまでの15年足らずにすぎないが、写真を撮り始めてわずか1年半後にはV&Aの館長に作品を売り込み、首尾よく収蔵され(寄贈を含めて114点も!)、展示されている。それが1865年のことなので、初展示から150年の記念展でもある。それにしても日本だったら、カメラを手にしてまもないアマチュアがピンぼけ写真を美術館に売り込むなんて、勘違いの中年おばさんと非難されるはず。館長もよく購入の決断を下したものだ。実際キャメロンの写真はブレやピンぼけ、プリントの傷も多く、技術的にはどうかと思うが、結果的にそれが19世紀ヴィクトリア朝の空気を写し出しているのも事実。というよりむしろ、キャメロンの写真が19世紀イギリス社会のイメージを決定づけた面もあるかもしれない。それほど彼女の写真は人口に膾炙しており、キャメロンの名前を知らなくても作品はどこかで見たことがあるはずなのだ。特に知られているのが、アンニュイな表情をした一群の少女写真であり、詩人のテニスン、生物学者のダーウィン、天文学者のハーシェルらの肖像写真だ。思い出したけど、映画「ハリー・ポッター」のハーマイオニーやダンブルドア校長などは、キャメロンの写真から出てきたんじゃないかと思えるほど似ている。ああいうイメージなのだ。
2016/07/15(金)(村田真)