artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
トーク 川俣正のアートプロジェクト
会期:2016/07/24~2016/07/25
仙台市営地下鉄東西線国際センター駅2階市民交流施設 青葉の風テラス[宮城県]
川俣正のトークで聞き手をつとめるために、仙台の国際センター駅へ。いつも通過していた駅だが、この場所は京阪なにわ橋駅アートエリアB1のように使えたらいいと思う。前半のレクチャーでは、初期の過激な造形から社会的プロジェクト、道、橋、塔、ツリーハウスのタイプへの展開を話し、近作はいわゆる「地域アート」と違う参加と見せ方を試みるという。せんだいメディアテークが新しくアート・ノードの事業を立ち上げるのに、皮切りとして川俣正のトークが行なわれたが、彼も仙台でプロジェクトを始めるべく、サイトのリサーチに着手するという。これも含めて、今後、全国で濫立する芸術祭とは異なる方法論が仙台で模索される。
2016/07/27(水)(五十嵐太郎)
美術評論家連盟主催 2016年度シンポジウム「美術と表現の自由」
会期:2016/07/24
東京都美術館講堂[東京都]
最初に美術評論家連盟主催のシンポジウムを聞いたのは、たしか1980年代初めのこと。テーマも場所もパネリストも忘れたけれど、司会の岡田隆彦に促され、会場にいた斎藤義重が戦前の日本の構成主義について語ったことは覚えている。つーか、それしか覚えてない。とにかくなんでいま構成主義の話なんかするんだろう、美術評論家たちは時代を超越しているなあと感心したものだ。あ、もうひとつ思い出した。客席がガラガラだったこと。……あれから約35年、シンポジウムは毎年のように開かれているようだが、聞きに行くのは今回が2度目。おそらく毎回空席が目立ったのだろう、案内には「申込不要・当日先着順」と記されていたが、結果的に230席のところに約300人が押しかけるという大盛況だった。これだけ関心が高いということは、それだけ表現の自由に危機感を覚えている人が多いということでもある。ひょっとしたら美術評論家連盟始まって以来、初の時宜を得た企画かもしれない。と無駄話を書いてるうちに字数が少なくなってきた。
まず事例報告として、自分の性器の3Dデータを配布したろくでなし子がわいせつ物陳列罪などに問われた事件、東京都現代美術館の「ここはだれの場所?」展で問題化した会田家の作品撤去騒ぎ、愛知県美術館の「これからの写真」展でクレームがついた鷹野隆大の写真に対する対応、そして、昭和天皇の肖像を使った大浦信行の作品を巡る富山県立近代美術館の迷走などが挙げられた。パネリストは美術評論家の林道郎と土屋誠一、愛知県美の中村史子、栃木県立美術館の小勝禮子、川村記念美術館(元富山近美)の光田由里の面々。30年前に起きた富山を除けばここ1、2年の問題なので、みんな切実感がある。以下、議論を簡潔にまとめる能力がないので、耳に残った言葉を列挙しておく。林「『美術かワイセツか』ではなく『美術だからワイセツではない』でもなく、表現の問題として考えるべき」、土屋「現政権より現天皇のほうがリベラル」、中村「学芸員が作家に対して規制することもあるが、それは学芸員の務めであり、検閲との境は曖昧」「表現は絶対的善ではなく、暴力性がつきまとう」、小勝「図書館は『知る自由』を掲げているが、美術館も見習うべき」、(会場から)ろくでなし子「アメリカやカナダでは英雄扱いされたが、そうなると表現することがなくなる。抑圧されたほうが表現ができる」。表現の自由は、無制限にではないけれど、最大限守られなければならない。そこに美術評論家連盟の果たすべき社会的役割も見出せるだろう。
2016/07/24(日)(村田真)
KUO Chih-Hung(郭志宏) 個展
会期:2016/07/16~2016/08/14
MORI YU GALLERY[京都府]
郭志宏は1981年台湾生まれの画家である。私は彼のことをまったく知らなかったが、資料によると台北で学んだあと、ドイツに渡って活動しているようだ。本展では山を描いた6点の新作を出品していた。それらに共通するのは、風景を複数の視点と方向から描いていることと、筆致が部分ごとにバラバラで、あえて非統合に画面を構成しているように見えることだ。これらにより、作品は具象画と抽象画を折衷した雰囲気を持つ。また、どの作品も抜けが良いというか、余白や薄塗りの活かし方が絶妙だ。このあたりは伝統的な東洋画の影響があるのかもしれない。今回の6点しか知らないので断言はできないが、気になる作家だった。画廊が今後も取り上げてくれると良いのだけど。
2016/07/23(土)(小吹隆文)
馬場磨貴「We are here」
会期:2016/07/23~2016/08/07
OGU MAG[東京都]
1996年に「ふたり」で第33回太陽賞の準太陽賞を受賞し、朝日新聞社写真部勤務やフランス・アルル留学の経験もある馬場磨貴(うまばまき)は、現在フリーランスの「マタニティーフォトグラファー」として活動している。妊婦をヌードで撮影し始めたのは2010年からだが、東京・東尾久のギャラリーOGU MAGUで開催された個展「We are here」を見ると、撮り方、見せ方が大きく変化してきたことがわかる。
当初は撮影した妊婦の画像を、街の日常的な光景にはめ込んでいた。駐車場や横断歩道や歩道橋にヌードを配する写真群もかなり面白い。だが、それらはまだ、画面に異質な要素を対置する異化効果のレベルに留まっていた。ところが、東日本大震災をひとつの契機として、作品の発想がまったく変わってくる。妊婦は怪獣並みに巨大化し、風景に覆いかぶさるようにコラージュされるようになる。しかも、彼女たちの背景になっているのは、ビル街や東京ドームだけではなく、福島原発事故現場近くの立ち入り禁止地域のゲート周辺、福井県の高浜原子力発電所、広島の原爆ドームなどである。
馬場の意図は明らかだろう。妊婦という生命力の根源のような存在を「社会的風景」に組み込むことで、単純なヴィジュアル・ショックを超えた政治性、批評性の強いメッセージを発するということだ。その狙いはとてもうまくいっていると思う。堂々とした妊婦たちの存在感が、風景に潜む危機的な状況を見事にあぶり出している。残念なことに、会場が狭いのと作品数がやや少ないので、このシリーズの面白さを充分に堪能するまでには至らなかった。どこか、もう一回り大きな会場(野外でもいいかもしれない)での展示を、ぜひ考えていただきたい。なお、赤々舎から同名のハードカバー写真集(表紙のデザインは3種類)が刊行されている。
2016/07/23(土)(飯沢耕太郎)
ミロスラフ・クベシュ「人間よ 汝は誰ぞ」
会期:2016/06/22~2016/07/30
gallery bauhaus[東京都]
1927年にチェコ南部のボシレツに生まれたミロスラフ・クベシュは、プラハ経済大学で哲学を教えていたが、68年のソ連軍のプラハ侵攻後に職を追われる。以後、年金生活に入るまで、煉瓦職人や工事現場の監督をして過ごした。1960年代以降、アマチュア写真家としても活動したが、2008年に亡くなるまで、あまり積極的に自分の作品を発表することはなかったという。その後、ネガとプリントを委託したプラハ在住の写真家、ダニエル・シュペルルの手で写真が公表され、2010年には写真集(KANT)も刊行された。今回のgallery bauhausでの個展は、むろん日本では最初の展示であり、代表作57点が出品されている。
生前はほとんど作品を発表することなく、死後に再評価された写真家としては、アメリカ・シカゴでベビーシッターをしながら大量の写真を撮影したヴィヴィアン・マイヤーが思い浮かぶ。クベシュもマイヤーも、6×6判の二眼レフカメラを常用していたことも共通している(クベシュが使用したのはチェコ製のフレクサレット)。だがその作風の違いは明らかで、クベシュの写真には、マイヤーのような、獲物に飛びかかるような凄みやあくの強さはない。広場や公園や水辺で、所在なげに佇む人物に注がれる視線は、どちらかといえば穏やかであり、屈託がない。クベシュは生前に発表した写真評論で「自分の中に稀有なものをもち得ない人間はいない。その何かのために僕たちは彼を好きにならずにはいられない」と書いているが、その誠実で肯定的な人間観は、彼の写真に一貫している。とはいえ、チェコにとっては苦難の時代であった1960~70年代の暗い影は、明らかに彼の写真にも浸透していて、人々の表情や仕草に複雑な陰影を与えている。チェコ人だけでなく、この時代を知る誰もが、彼の写真を見て、懐かしさと同時に微かな痛みを感じるのではないだろうか。チェコには彼のほかにも「埋もれている」写真家がいそうだ。ぜひ、別の写真家たちの作品を見る機会もつくっていただきたい。
2016/07/23(土)(飯沢耕太郎)