artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

竹岡雄二 台座から空間へ

会期:2016/07/09~2016/09/04

遠山記念館[埼玉県]

本命の竹岡雄二作品は、広大な、というより廊下で細長くつながった屋敷内5カ所と庭に1点、置かれている。土間にガラスの容器で覆われた金属板、正方形の和室に白い立方体、縁側にブロンズ板の両端を内側に湾曲させた台座、庭に高さ130センチほどの石柱、などだ。20世紀に彫刻から台座が失われた理由は、作品自体が抽象化して台座との差異化がつかなくなったことのほかに、彫刻作品が美術館で鑑賞されるようになったからでもある。もともと台座は現実空間と彫刻とのあいだのクッションの役割を果たしていたが、美術館のとりわけホワイトキューブの展示室は、それ自体が現実空間とは隔絶した台座の役割を果たすからだ。だから美術館で見た竹岡の「台座」は、一種のミニマル彫刻として立ち現われたのだ。では、もう人が住んでいないとはいえ、この現実空間の屋敷内に置かれた「台座彫刻」はどのように見えただろう。意外なことに(いや当然のように、というべきか)美術館以上に作品としての存在感を主張するように感じられたのだ。それはおそらく空間的に開けた和風建築だからかもしれない。これが隙間のない密閉された洋風建築だったらまた違う印象を与えたはずだ。いやあ苦労して見にきてよかった。

2016/07/18(月)(村田真)

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ガラスと土の造形

会期:2016/07/02~2016/09/25

遠山記念館[埼玉県]

「竹岡雄二展」を見るため川越からバスに乗り、牛ヶ谷戸というネーミングからして田舎なバス停で降り、周囲は田園なので日差しをさえぎるものもない炎天下、田んぼのなかをとぼとぼ途中2度ほど道を間違えながら、また同好の士と合流しつつ30分ほど歩いて遠山記念館に到着。そういえば前に来たときはタクシーだったな。同館は美術館とお屋敷に分かれていて、まず美術館を見てから遠山邸内の竹岡作品を鑑賞という順路になっているのだが、これは結果的に好都合だった。汗びっしょりだったので、クーラーの効いた美術館内は天国じゃ。さすがに1930年代に建てられた純和風の屋敷のほうにはクーラーは期待できないからな。美術館では「ガラスと土の造形」を開催中で、中東からヨーロッパ、南米、中国、日本までの陶器、ガラス器、モザイク画などを展示していたが、思考停止のまましばらく身体を冷却してから出た。

2016/07/18(月)(村田真)

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サイ・トゥオンブリーの写真 ─変奏のリリシズム─

会期:2016/04/23~2016/08/28

川村記念美術館[千葉県]

スクールの生徒たちと美術館見学。目的はステラの絵画とロスコ・ルームだが、サイ・トゥオンブリーの写真展もやってるので、あまり気が進まないけどせっかくだから見てみる。これが期待はずれに(?)よかった。当初気が進まなかったのは、トゥオンブリーはリヒターみたいに写真に連動した絵を描くわけではないので、写真には興味が持てなかったからだ。でも見てみたら、これが実になんというか、ストライクゾーンが狭いというか、ツボに見事にハマる写真だった。被写体はモランディのような数本の瓶だったり、古代遺跡だったり、部屋の片隅だったり、絵や彫刻の一部だったり、花のクローズアップだったり、とりとめのないものばかりで、生身の人間はまったく登場しない。ポラロイドで撮影されてるためか(展示作品は拡大したドライプリント)、ブレたり焦点が合わなかったりするものが多く、一見なんでこんなものを、こんなふうに撮っているのか理解しにくいが、同時に「好き」か「嫌い」かでいえば明らかに「好き」な写真であることに間違いない。ではなんで好きなのかというと、好きなモチーフとか奇抜な構図とかを狙っているからではなく(いや好きなモチーフもあるが)、四角い画面になにかが写るという意味で「写真」を撮っているからだ。説明を必要としない写真というか、弁解のない写真というか。もうそのまま「写真」。こういう写真は撮ろうと思って撮れるものではない。その困難さを絵にたとえれば、まさにトゥオンブリーの絵画になる。描こうと思って描ける絵ではないからだ。ああ見てよかった。写真100点のほか、絵画と彫刻約30点も加えた展示。

2016/07/17(日)(村田真)

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東松照明 ─長崎─展

会期:2016/05/28~2016/07/18

広島市現代美術館[広島県]

「長崎」の時間の重層的な皮膚をどう写し取ることができるのか。1961年に始まった長崎の撮影は、東松照明のライフワークとして約50年にわたり継続されることで、「マンダラ」としての濃密な織物を形成してきた。そこでは時間は単線的に流れるのではなく、せき止められ、幾重にも折り重なり、分岐と再接続を繰り返しながら、イメージが連鎖的に共鳴し合う水平方向と、複数の過去の記憶へ遡行する垂直方向へ伸び広がっていく。約350点の写真が展示された本展は、「長崎」の時間を編み直す場でもある。
冒頭に提示された、被爆遺物の時計が象徴的に示すように、「11時02分」で静止した時間。固定・凍結された瞬間としての原爆と写真の同質性。そこからどう逸脱・逃走するかが、以降の写真で果断に試みられていく。60年代前半にモノクロームで撮影された、被爆16年後を生きる被爆者たち。後光のように頭上から光が差し込む聖人的崇高さは、破壊された天使やキリストの石像とリンクし、キリシタン迫害の歴史の想起の呼び水となる。また、カラーへの移行を経て、被爆者たちのその後を追った90年代の写真が隣接されることで、二世代、三世代にわたる生の連続性が日常の中に示され、家族史の記録ともなっている。ケロイドの痕を捉えた60年代のモノクロポートレイト2枚を画中画として配置した「山口仙二さん」の肖像には、背後に堆積した千羽鶴とともに、撮影する東松自身の影が写し込まれ、ひとつの画面内に複数の時間が重層的に折り畳まれている。
長崎の町歩きで撮影された膨大な写真群は、遊歩者としての東松の視線を追体験させるとともに、カメラを構えた「影」を写し込むことで、「長崎」に自身を差し入れる身振りが交差する。坂の多い町、海原のように眼下に広がる瓦屋根。無人売店とうろつく犬。漁業と造船業の町。キッチュな祭のドラゴンが練り歩く町。石畳を鮮やかに照らし出す、ステンドグラスの透過光。中国やポルトガル、オランダなど多文化の流入と接触の中で変容してきた町。塗装が剥げ落ち、フジツボの付着した船体やトタン板の接写は、鮮やかな色彩のドリップが抽象絵画を擬態するが、ただれた皮膚のイメージの暗喩として、突如、意識の中に回帰する。
2000年代に再撮影された被爆遺物を経て、展示の終盤に現われる諫早湾の干潟の穏やかな光景は、すぐれて象徴的である。川に運ばれた土が堆積し、波に浸食され、淡水と海水、水と土、異質なものどうしが混じり合う境界領域。波の跡が繊細な起伏の皺として刻まれた柔らかい泥の皮膚は、外界との界面=インターフェイスとしての皮膚であり、乾燥と湿潤、記憶と忘却を繰り返すその表面の複雑な襞の下には、見えない時間の層が堆積しているのだ。

2016/07/17(日)(高嶋慈)

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宮古市崎山貝塚縄文の森ミュージアム

[岩手県]

宮古の付近で、ちょうど崎山貝塚縄文の森ミュージアムのオープンの日に通りかかる。大きな屋根や蛇籠が目立ち、アトリエノルドの設計のようだ。埋蔵文化財センターのエリアが多いせいか、外観ほど展示スペースは大きくない。巻貝型土器など、展示物は面白い。屋外の公園には復元竪穴式住居などがある。

2016/07/16(土)(五十嵐太郎)