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美術に関するレビュー/プレビュー

近代洋画・もうひとつの正統 原田直次郎展

会期:2016/04/08~2016/05/15

神奈川県立近代美術館 葉山[神奈川県]

最近、日本近代美術の原点を回顧する企画展が相次いでいる。東京国立博物館の「黒田清輝」展をはじめ、千葉市美術館では「吉田博」展、そしてこの「原田直次郎」展。吉田博はやや世代が若いとはいえ──原田直次郎(1863-1899)、黒田清輝(1866-1924)、吉田博(1876-1950)──、いずれも明治から大正にかけて日本社会のなかに近代美術を定位させることに精力を注いだ画家である。
原田直次郎は夭逝の画家である。わずか36歳で亡くなったため、現存する作品も決して多くない。本展は、高橋由一の画塾「天絵学舎」への入門から、ドイツ・ミュンヘンへの留学を経て、帰国後に結成した明治美術会、そして直次郎の代表作《騎龍観音》(1890)まで、短いが濃厚な画業の全容を、直次郎以外の周辺作家による作品も含めた、およそ200点の作品や資料によって紹介したもの。ドイツ留学時代から親交を深めてきた森鴎外が、直次郎没後に東京美術学校で1日限りで催した回顧展以来(1909年11月28日)、じつに107年ぶりの回顧展だという。
明治の近代美術を理解するうえで重要な参照軸となるのが、美術家や美術団体をめぐる敵対関係である。よく知られているように、黒田清輝はパリのラファエル・コランのもとで学び、帰国後の1896年に白馬会を結成、同年、東京美術学校に新設された西洋画科の教授に着任した。黒田に代表される「新派」が日本近代美術の正統として制度化されたのに対し、原田直次郎が創立にかかわった明治美術会は「旧派」とされた。本展のサブタイトルである「もうひとつの正統」には、そのような緊張関係が暗示されている。
しかし原田直次郎にとっての敵対性は、黒田清輝より、むしろ岡倉天心やアーネスト・フェノロサに向けられていたようだ。なぜなら、1887年、直次郎が帰国した当時の日本は、急速に押し進められた欧化主義の反動から国粋主義の気運が広がり、西洋絵画は冷遇されていたからだ。事実、その1887年、天心やフェノロサは東京美術学校の開校にあたって西洋画科を設置しなかった。ドイツで学んだ西洋絵画を日本で展開しようとしたとき、直次郎はこのような逆境に直面したのである。
とはいえ、その逆境とは天心やフェノロサとの制度的な正統性をめぐる権力闘争に由来しているだけではない。それは、近代をめぐる日本と西洋との本質的かつ構造的な問題に根ざしていた。
「一八八七(明治二十)年十一月十九日、上野の華族会館で開かれた龍池会例会において、原田は講話を行った。その内容を文字に起こした『絵画改良論』によれば、原田はフェノロサや岡倉天心が唱えるような、西洋絵画の長所を日本の伝統絵画へ取り入れて折衷するという考えを、真っ向から批判している。西洋絵画を本格的に学んだ原田にとって、フェノロサと天心の主張は浅はかに感じられただろう」(吉岡知子「原田直次郎 その三十六年をたどる」『原田直次郎 西洋画は益々奨励すべし』青幻舎、p.14)。
西洋美術の長所だけを日本美術に取り入れる折衷主義。これが、岡倉天心がプロデュースした「日本画」を指していることは間違いない。こうして直次郎は天心=フェノロサ的な折衷主義を切り捨て、返す刀で西洋絵画の真髄を突くのである。ドイツ留学時代に描かれた《靴屋の親爺》(1886)は、深い陰影表現による劇的な効果を誇っている点で、その真髄を視覚化してみせた傑作と言えるだろう。
ところが、どれほど西洋美術の技術や規範を内面化したとしても、それを日本の社会のなかに定着させるには、まったく別の問題が生じる。近代化の渦中にある土着的な「日本」で、いかにして近代的な「美術」を普及するのか。それにふさわしい絵画とはどんなものか。どのような絵画であれば、日本人としてのアイデンティティを担保しうるのか。原田直次郎が直面した逆境とは、まさしくこの根深いがゆえに本質的な問題だった。例えば黒田清輝は、この問題に対するひとつの回答として、西洋絵画で言われる「コンポジション」の形式を踏襲しながら、日本人モデルの肉体を理想的に描いた裸体画《智・感・情》(1897)を世に問うた。一方、原田直次郎が彼なりの回答としたのが《騎龍観音》(1890)である。
龍の上で屹立する観音像。それを西洋絵画の技術によって描いたこの大作は、1890年、第三回内国勧業博覧会に出品された。それが直次郎にとっての「回答」であると考えられるのは、博覧会に先立つ1888年、直次郎はドイツ留学中に私淑していたガブリエル・フォン・マックスに宛てた手紙で、「真に日本の様式の絵画」を描くことを切望する心情を吐露しているからだ。《靴屋の親爺》が画題の面でも技法の面でも西洋美術の規範に沿っていたのとは対照的に、《騎龍観音》は西洋絵画の技法を活かしながら日本の土着的な画題を採用したのである。言い換えれば、そのような「折衷」に近代社会にふさわしい「真に日本の様式の絵画」を見出したわけだ。あれほど天心=フェノロサ的な折衷主義を批判していたことを思えば、《騎龍観音》に見られる西洋と東洋の接合は皮肉としか言いようがない。
だが、よくよく考えて見れば、近代を自発的に産んだわけでもない日本で、近代の産物である西洋美術を志すという矛盾を抱えた近代洋画の画家たちは、いかなる画風が正統であれ、おのずとそのような異種混合的な接合を余儀なくされていたのではなかったか。前近代に立ち返るという退路を絶たれ、いやがおうにも近代を受け入れざるをえなくなったとき、折衷や接合が隘路であることを知りつつも、目前の道を歩んでいくほかない。《騎龍観音》の、あの一見すると大味で、ある種のキッチュな佇まいは、近代美術ないしは近代洋画が内側に抱える、そのような哀しさの現われなのだろう。

2016/04/17(日)(福住廉)

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still moving on the terrace

会期:2016/04/16~2016/05/29

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]

数年後、JR京都駅の東側エリアへの移転が予定されている京都市立芸術大学。本展は「将来の移転のための予行演習」として、作品/作品以外のさまざまな物品の「梱包」と「移動」を行なうとともに、制度的な空間の「反転」「誤読」を仕掛ける試みである。
京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAは、市街中心から離れた桂地区にある大学と異なり、京都市内中心部にあるサテライト的な展示施設である。本展では、通常のギャラリー入り口が封鎖された代わりに、事務スペースから入場して、バックヤードを通り抜け、倉庫の扉から通常の展示室へと至る導線が仕掛けられている。そこには、大学から運び込まれた無価値な石や備品が、丁寧に「梱包」された状態で置かれている。価値の反転は、展示室とバックヤードの空間的反転へと拡張し、ギャラリー空間には備品や展示台、カタログのストックなどが置かれ、「作品」は本棚や脚立などとともに薄暗いバックヤードに配置される。「学長室」の札が貼られたエレベーター内は、巨大な「工具箱」としてドリルや定規が壁に掛かる。ギャラリー内には仮設性を強調する小部屋がつくられ、大学所蔵の古美術品や民俗学資料が、入れ子状の空間に展示される。
このように本展では、「移動」という営為が、単なる物理的な移動に加えて、固定化された既存の秩序や価値観の撹乱・転倒を引き起こすという事態そのものを、建物全体を使って出現させている。では、移転の「本番」では、芸術大学という制度や機能に対して、どのように積極的な転換や読み替えが図られることになるのだろうか。現在の実践が、未来を動かす可能性となりうること。それは創造的な批評性のひとつの徴である。本展が、一過性のイベント的な試みに終わらず、未来の更新へとつながることを願う。

2016/04/17(日)(高嶋慈)

オーダーメイド:それぞれの展覧会

会期:2016/04/02~2016/05/22

京都国立近代美術館[京都府]

英語の展覧会タイトル「ORDER & REORDER CURATE YOUR OWN EXHIBITION」が端的でわかりやすい。所蔵品を用いた本展では、展覧会の入り口が2カ所用意され、観客は好きな方を選択できる。エントランスの吹き抜けから階段で展示室に上がる「ORDER(秩序)」を選ぶと、右回りの一筆書きの導線に沿って、11個のキーワードに仕切られた展示空間を順番に回れるようになっている。一方、エレベーターを使って展示会場に入る「REORDER(再配列)」を選ぶと、左、右、中央、どちらへも進める導線のない空間が現われ、仮設壁が立ち並ぶ迷路のような空間を進むことになる。
本展のもうひとつの特徴は、作者別、年代順、素材やジャンル毎といったオーソドックスな分類方法を採らず、11個のキーワードを設けて展示構成を行なう点であり、コレクションの再配列であるとも言える。11個のキーワードは、「Color/Monochrome」「Frame」「Object」「Money」「Readymade」「Beyond Order」「ID」「Play」「Body」「Still/Moving」「Reorder」。日本画と写真、写真と油彩画が並列化され、映像インスタレーションと静物画が対面する。一方、笠原恵実子や森村泰昌、デュシャンなど複数出品された作家の作品は、会場のあちこちに点在して置かれている。そこでは、隣接した/離れた作品どうしの関係性を読み解く知的な楽しみとともに、新たな「タグ付け」を増やすことで、さらなる再配列を呼び起こす流動性が潜在している。例えば、「REORDER」に配された都築響一の《着倒れ方丈記》の写真シリーズは、エルメスやマルタン・マルジェラ、アンダーカバー、ナイキといったファッションブランドによって自己のアイデンティティを規定する人々のポートレートであるという点で、「ID」のキーワードとも結びつく。一方、色とりどりの市販のマニキュアを、魅惑的な商品名のアルファベット順に並び替え、グリッド状のカラーチャートとして整然と並べた笠原恵実子の《MANUS-CURE》は、「Color/Monochrome」に配されているが、「REORDER」に組み込むことも可能である。さらに、「ID」に配されたクシシュトフ・ヴォディチコの映像インスタレーション《もし不審なものを見かけたら……》は、暗い展示室に縦長の4つの窓が開けられ、すりガラス越しに映る人々の行為を眺めているような作品である。談笑する2人、携帯電話で話す人、窓ガラスの掃除をする人、うろつく犬、メッカへの祈りを捧げる人……。話し声は頭上のスピーカーから途切れがちに聴こえるが、影絵のシルエットで映される彼らが何者であるのかはわからない。しかし不穏なタイトルは、彼らが不法移民であるかのような可能性をちらつかせる。不透明な「窓」という装置を通して平穏な日常風景と不穏さのあいだを不安定に揺るがせる本作は、「Frame」のキーワードとも接続可能であり、この接続によって「Frame」は絵画の額縁やカメラのフレーミングといった美術内部の文脈から、移民の排除や監視などの社会制度や規制をも含むようになり、より社会的な意味を帯びたものへと拡張していくだろう。
美術館は、秩序化されたコードに従って作品を収集・分類し、理想的なコレクションを目指して目録を埋め充実させていく使命を帯びているが、その現実的な現われとしては、テンポラルな流動性や仮設性を伴っている。またそれぞれの個別的な作品には、カテゴリーや分類化を逸脱するポテンシャルが内在しうる。その意味で、美術館のコレクションとは、完結することなく、無数の再接続や秩序の組み換えの可能性を秘めた巨大な資料体である。一つの作品を複数の文脈へと接続させていくこと、新たな作品の追加・参入によって、文脈自体が更新・書き替えられていくこと、貼られたリンクが固定的ではなく、動的な流動性を秘めていること。このように、既存の秩序の再配列やオルタナティブな展示の可能態を観客の想像力のなかで促し、逸脱と(再)接続、相対化によってつねに活性化され続ける有機的な場所としてコレクションを捉える視座を開くとともに、「美術館における主体は誰か(誰がありうるのか)」という問いを喚起させている点に、本展の優れた意義がある。

2016/04/17(日)(高嶋慈)

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TILT/ティルト コンクリート抽象

会期:2016/04/01~2016/04/30

メグミオギタギャラリー[東京都]

グラフィティライターの展覧会がつまらないのは、ふだん壁に描いてるイメージをそのままキャンバスに縮小再生産しようとするため、のびやかさも緊張感もスケール感も失われ、妙に矮小化されてしまうからだ。だいたいキャンバスに描くならスプレーを使う必要はなく、絵筆で描くべきだ。フランスのグラフィティライターTILTがユニークなのは、キャンバスではなく大きな壁面にスプレーなどで描き、それを分割してタブロー化していること。そのためTILTの作品はオールオーバーで、ひとつのまとまった全体性より、大きなピースの一部であるという部分性が強調され、そこに壁から直接切り取ってきた臨場感が付加される。だからのびやかさもスケール感も失われていないのだ。その壁があらかじめ用意されたものであるとしてもだ。今回はグラフィティを施された建物の側面をそのまま切り取ってきたような巨大作品も展示。

2016/04/16(土)(村田真)

第10回shiseido art egg 七搦綾乃 rainbows edge

会期:2016/03/30~2016/04/22

資生堂ギャラリー[東京都]

七搦と書いて「ななからげ」と読む。木彫だが、これがなかなかのクセモノ。干からびた植物(バナナの茎や皮らしい)に布を被せた状態を木に彫るというめんどうな作業だが、それがどことなく人体(しかもミイラのような異形の)を思わせるのだ。奥の部屋には《乾燥した大根の虹》と《乾燥したパイナップルの太陽》があるが、干し大根は虹というより胎児の干物みたいだし、干しパイナップルは太陽というより巨大な肛門に見えてしまう。一見地味だけど滋味あふれる彫刻。

2016/04/16(土)(村田真)