artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

サイモン・フジワラ「ホワイトデー」

会期:2016/01/16~2016/03/27

東京オペラシティ アートギャラリー[東京都]

社会性をもった作品がうんぬんという前に空間の使い方が印象的だった。ちまちま部屋を分割せず、どーんと本来の大空間のよさを引き出す。彼個人が考えた新国立競技場案の模型が置かれていたのにも、ニヤリ。以前、中村哲也に彼のスカイツリー案を見せてもらったが(やはり、速そうな造形だった)、こういうのは大歓迎である。

2016/02/18(木)(五十嵐太郎)

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ジョン・ウッド&ポール・ハリソン「説明しにくいこともある」

会期:2015/11/21~2016/02/21

NTTインターコミュニケーション・センター(ICC)[東京都]

英国の二人組による身体を使うパフォーマンスや建築的なセットを使う映像作品の数々を紹介する。シンプルな仕掛けによって、人と人、あるいは人とモノや、モノとモノの不思議で笑える関係性は、田中功起を想起させる。

2016/02/18(木)(五十嵐太郎)

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試写『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』

2013年10月、ストリートアーティストのバンクシーがニューヨークの路上で毎日1点ずつ作品を公開した。その“狂乱”の1カ月を追ったドキュメンタリー。狂乱というのはこの映画を見る限り大げさではない。作品の場所は明かさず公式サイトに投稿するだけなので、人々はそれを頼りにニューヨーク中を探しまわるしかない。その作品はグラフィティあり、スフィンクスの彫刻あり、家畜のぬいぐるみを乗せたトラックあり(肉屋の前で停まる)、売り絵の露天商あり(バンクシー自身の絵がたった60ドルで売られているが、だれも気づかない)、ショーウィンドウの絵に加筆したものありと予想がつかない。しかもそれを見に行ったり写真に撮ったりするだけでなく、消すヤツ、復元するヤツ、上書きするヤツ、盗むヤツ、転売するヤツ、ボール紙で隠して金を取って見せるヤツ、金を払って見るヤツ……と反応も千差万別、もうお祭り騒ぎなのだ。でもそれもバンクシーにとっては想定内。人々が右往左往する狂乱ぶりもバンクシーのストリートアートの一部なのだ。


映画『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』予告編

2016/02/18(木)(村田真)

シャルル・フレジェ「YÔKAINOSHÏMA」/「BRETONNES」

会期:2016/02/19~2016/05/15

銀座メゾンエルメスフォーラム/MEM[東京都]

シャルル・フレジェは1975年、フランス・ブールジュ生まれの写真家。特定の民族衣装、ユニフォームなどを着用した社会的集団の構成員を撮影するポートレイトのシリーズで知られている。ヨーロッパの辺境地域の伝統的な儀礼の装束を撮影した「WILDER MANN」のシリーズは、2013年に青幻舎から写真集として刊行されて話題を集めた。それと同じアプローチで、北海道を除く日本各地の祭礼や民間儀礼を撮影したのが、今回銀座メゾンエルメスフォーラムで展示された「YÔKAINOSHÏMA」のシリーズである。
この種の民俗写真の撮影は、日本の写真家たちによっても試みられているが、フレジェの軽やかなカメラワークと弾むような色彩感覚によって、新たな視覚的表現が生まれてきているように感じる。特に日本の神々や鬼たちと、ヨーロッパの「WILDER MANN」の写真を並置した「Winter(冬)」のセクションは、インスタレーションにも工夫が凝らされ、大地に根ざした生命力をヴィヴィッドに感じさせる展示で見応えがあった。
一方、東京・恵比寿のMEMでは、ほぼ同時期に、彼のもう一つの新作である「BRETONNES」シリーズがお披露目されていた。こちらは、フランス・ブルターニュ地方の民俗衣装を身につけた女性たちを、特徴的な白いレースの頭飾り(コワフ)に着目して撮影している。背景をグレートーンでぼかして、被写体となる女性を浮かび上がらせる手法を用いることで、古典的な肖像画を思わせる画面に仕上がっていた。衣装を通じて、それぞれの地域の歴史的な記憶や文化的な背景を浮かび上がらせるフレジェの手法は、さまざまな可能性を孕んでいると思う。比較文化論な視点をもっと強調すれば、よりスケールの大きな作品世界に育っていくのではないだろうか。

「Y KAINOSH MA」2016年2月19日(金)~5月15日(火)銀座メゾンエルメスフォーラム
「BRETONNES」2月10日(水)~3月13日(日)MEM

2016/02/18(木)(飯沢耕太郎)

米谷清和 展 ~渋谷、新宿、三鷹~

会期:2016/01/16~2016/03/21

三鷹市美術ギャラリー[東京都]

日本画家、米谷清和の本格的な個展。米谷と言えば東京の街並みを描いた日本画で知られているが、今回は渋谷と新宿、そして三鷹周辺という主題に沿って46点を展示した。作品の点数と号数からすると必ずしも十分な空間とは言えないが、それでも今日の都市社会を美しく表わした絵画ばかりで、見応えがある。
無機質な都市構造と非人間化された人間像。渋谷駅をまたぐ首都高速の高架や新宿駅西口の高層ビル群など、米谷の絵画には直線によって構成された人工的な都市環境が巧みに取り込まれている。駅の構内を歩く通勤客の群像も、画一化され均質化されて描写されているため、とても生命力にあふれた人間とは思えない。《終電車I》(1971)や《電話》(1982)のように、ある種の物語性を読み取ることができる作品がないわけではないが、米谷の描き出す人間像は、おおむね、まるで死んでもなお会社を目指して一心不乱に歩き続けるゾンビと化したサラリーマンのようだ。それらとは対照的に、有機物であるはずの植樹の筆致がいかにも浅薄であることからもわかるように、米谷の視線は徹底して無機的で人工的な都市環境に集中しているのである。
しかし、米谷の絵画は現在の都市社会を否定的に告発しているわけではない。確かに、私たち自身の醜い自画像を突きつけられるという点での衝撃がないわけでないが、同時に、そこにはある種の美しさを見出すことができる点も否定できない事実だからだ。大空を覆い隠すほど巨大な首都高の高架下を描いた《雪の日》(1984)や、色とりどりの照明を反射する雨上がりの路面を描いた《ASPHALT》(1991)などを見ると、東京に生きる者であればいつかどこかで身に覚えのある美の契機を感じ取ることができるにちがいない。
逆に言えば、都市社会で生きる者にとって美の契機は、それほどまでに無機質で人工的な都市環境のなかに転位してしまったのかもしれない。かつてそれは自然のなかに根づいていた。だが、いまやそれは自然を離れ、都市のなかに反転してしまった。いや、無機質で人工的な都市環境こそ「自然」となったと言うべきか。米谷の絵画のうち、都心である新宿と渋谷を主題にしたものに比べて、相対的に郊外と言える三鷹を主題にしたものは明らかに中庸であり、魅力に乏しい。おそらく米谷にとって「自然」は、もはや青々とした自然のなかにはなく、灰色の街並みの只中にあるものではなかったか。
あるいは、こうも言えるかもしれない。米谷は都市生活で失われてしまった「自然」を、都市の外部としての郊外に発見するのではなく、その都市の内側からまさぐり出そうとしたのだと。ある種の理想的な景色を画面に定着させるという意味で、米谷清和の日本画はきわめて現代的な風景画なのだ。

2016/02/18(木)(福住廉)

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