artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

碓井ゆい「SPECULUM」

会期:2016/01/20~2016/02/20

studio J[大阪府]

鏡に自分の姿を映す。それは、自分の存在を視覚的に認識する手段のひとつだ。そして「わたし」という言葉は、言語による認識である。碓井ゆいは、視覚と言語による自己認識を奇妙なかたちで入れ替え、美しく親密な作品のなかに閉じ込めてみせる。壁に掛けられた数十個の、陶製のフレームの手鏡。淡い色彩で彩色され、手製のいびつな形の一つひとつには、世界中のさまざまな言語で「わたし」を指す言葉がエッチングで記されている。ただし、左右反転した「鏡像」として。日本語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、ハングル、タイ語、アラビア文字……。何語か判別できない文字もある。パールがかった、淡く輝く表面の上に、たくさんの「わたし」が映っている。だが、鏡に映った「わたし」の像は、常に歪みやひずみをはらみ、他者の承認がなければ、「わたし」は空虚な記号でしかない。碓井のインスタレーションは、自己認識やアイデンティティの危うさを問いかける。
碓井の過去作品《empty names》は、従軍慰安婦に付けられていた「日本語の名前」を、美しい字体でラベルに記して香水瓶に貼りつけた作品である。手鏡と同様、香水瓶もまた女性の身だしなみに関わる持ち物であり、曲線的な瓶のボディラインは、しばしば女性の身体と同一視されてきた。そこに、他者から押し付けられた「日本語の名前」をまさに「レッテル」として貼りつけることで、男性から女性への、そして植民地への二重化された支配関係をあぶり出す。決して声高でなく、美しい碓井の作品は、親密さのなかにこそ政治性が宿ることをそっと差し出してみせるのだ。

2016/02/06(土)(高嶋慈)

高橋恭司「夜の深み」

会期:2016/01/22~2016/02/27

nap gallery[東京都]

高橋恭司は、1990年代に雑誌、広告等でカルト的な人気を博した写真家である。『THE MAD BLOOM OF LIFE』(用美社、1994)、『Takahashi Kyoji』(光琳社出版、1996)、『Life goes on』(同、1997)といった写真集では、放心と疾走感とがない交ぜになった、独特の映像の文体を確立していた。ところが、2000年代になると心身の不調が写真にあらわれてくるようになり、長い停滞期に入り込む。彼はどうやら、時代の悪意や閉塞感を鋭敏に感じとり、取り込んでしまうアンテナの持ち主だったようだ。2009年頃から活動を再開し、『流麗』、『煙影』、『境間』(いずれもリトルモア)といった写真集を発表するが、表現意識の空転が無惨に露呈するだけだった。
今回のnap galleryでの個展は、商業ギャラリーではひさびさの発表になる。どんな作品なのか半信半疑で見に行ったのだが、新たな方向へ踏み出していこうという意欲が、しっかりと感じられる展示だったことに安心した。「夜の深み」をテーマとする写真群が並ぶ壁の反対側に、裸電球が吊るされ、その下に楕円型の鏡が置かれている。鏡の反射は、向かい側の壁を区切るように投影されており、その光によって写真群が照らし出されていた。ややトリッキーなインスタレーションだが、仕掛けに無理がなく、夜の雨に滲むイルミネーションや、闇に沈み込む「眠る人」などのイメージも、たしかな説得力を備えていた。まだ断言するには早いが、「復活」を強く印象づける展示だったと思う。
次は、以前のように伸びやかなイメージが連なる写真集をぜひ見てみたい。焦らずにゆったりと仕事を続けてほしいものだ。

2016/02/05(金)(飯沢耕太郎)

金子國義写真展

会期:2016/01/29~2016/02/21

AKIO NAGASAWA Gallery[東京都]

2015年3月に逝去した金子國義は、日本を代表する画家、イラストレーターとして、素晴らしい作品を発表し続けてきた。その金子が、一時期写真にかなりのめり込んでいたことは、それほど知られていないかもしれない。1980~90年代にかけて多数の写真作品を制作し、写真集『Vamp』(新潮社、1994)、『お遊戯 Les Jeux』(同、1997)などを刊行している。今回のAKIO NAGASAWA Galleryでの個展には、お気に入りの男女モデルに、自作の絵画作品そっくりのメーキャップを施し、パリなどにロケして撮影した代表作約70点が展示されていた。
小道具のセッティングやモデルのポージングは、絵と見まがうほど凝りに凝ったものだが、それでも彼自身、写真の限界を感じていたのではないかと思う。どんなに気を遣っても、写真にはさまざまな夾雑物が写り込んでくるし、最終的な仕上がりも絵画ほど理想化して表現するのはむずかしいからだ。だが、金子の写真を見ていると、そのコントロールがうまくいかないことを、逆に戸惑いつつも愉しんでいたようも思えてくる。彼の絵につきまとう、痛々しいほどにこわばった緊張感が、写真にはほとんど感じられず、むしろリラックスした雰囲気になっているのだ。残念なことに、金子の「写真時代」はそれほど長くは続かなかった。デジタル化以降にも写真を続けていれば、また違った可能性が見えてきたのではないだろうか。
なお、東京・神田神保町の小宮山書店でも、同時期に「金子國義ポラロイド展」(1月29日~2月28日)が開催された。

2016/02/05(金)(飯沢耕太郎)

村越としや「沈黙の中身はすべて言葉だった」

会期:2016/01/09~2016/02/13

タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム[東京都]

村越としやは2006年頃から故郷の福島県を撮りはじめ、東日本大震災以後もその仕事を継続している。中判~大判カメラで、あまり特徴のない風景を、細部まで丁寧に目を凝らしながら撮影するスタイルに変わりはないが、その作品にはどうしても「震災の影」を感じてしまう。それは写真を見る観客が、福島県須賀川市出身という彼のキャリアに過剰反応してしまうということだけでなく、彼自身もあらためて撮ることの意味を問い続けなければならなかったということのあらわれといえるだろう。村越は震災後、「被災地としての福島を撮ることを試した」のだが、結局うまくいかず、「目の前にあるどんなことでも、どんなものでも自分の目で見て写真に撮って考えること」を課すようになったという。その覚悟と緊張感が、写真に自ずとあらわれてきているのではないだろうか。
今回のタカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムの個展では、大判のパノラマサイズ(イメージサイズは60×180センチ)に引伸された作品、7点が展示された。その横長の風景作品を見ていると、画像の強度がより増してきているように感じる。樹のあいだから見える海、ひび割れた岩の後ろの茫漠とした空間、湿り気が立ち上がってくる水面──画面構成はむしろ単純化しているが、タブローとしての完成度が格段に上がってきているのだ。ただしこのような絵画的な美意識の浸透は、「どんなものでも自分の目で見て写真に撮って」という撮影時のリアリティを弱めることにもつながりかねない。そのあたりの隘路をどう切り拓いていくかが、次の課題として見えてきている。


© Toshiya Murakoshi / Courtesy of Taka Ishii Gallery Photography / Film


2016/02/05(金)(飯沢耕太郎)

梁丞佑「新宿迷子」

会期:2016/01/15~2016/02/10

ZEN FOTO GALLERY[東京都]

梁丞佑(ヤン・スンウー)は韓国出身の写真家。1996年に来日し、2006年に東京工芸大学大学院芸術学研究科を修了した。同大学在学中から、被写体に寄り添うように撮影するプライヴェート・ドキュメンタリー作品を発表して「写真新世紀」等のコンペに入賞し、注目を集めるようになる。2012年のZEN FOTO GALLERYでの個展「青春吉日」(同名の写真集も刊行)は、韓国のアウトローたちを記録したシリーズで、体を張った彼らの生き方への、切ないほどの共感が伝わってくる佳作だった。
今回展示された「新宿迷子」は、1998~2006年に新宿歌舞伎町界隈で撮影されたスナップ写真を集成したもので、「青春吉日」の続編にあたる。ヤクザ、警察官、ホームレスなど、いつもながら「よくここまで撮れるものだ」と感じてしまう過激な写真が並ぶが、その中に路上で遊んだり、寝ころんだりしている子供たちの姿が目についた。親が歌舞伎町で働いているので、その帰りを待ちながらたむろしているのだという。とはいえ、彼らに全面的に感情移入するのではなく、リスペクトしつつも、むしろ突き放すような撮り方をしているのがいかにも梁らしい。
これらの写真に撮影された、血を騒がせるような光景は、東京オリンピックに向けた「浄化作戦」で、表面的には消えてしまっている。だが逆に、どこかに奥深く潜伏しているのではないかとも思う。撮りにくくなっているとは思うが、ぜひ新宿で撮影を続けていってほしいものだ。

2016/02/05(金)(飯沢耕太郎)