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美術に関するレビュー/プレビュー

群馬NOMOグループの全貌──1960年代、「変わったヤツら」の前衛美術

会期:2016/01/16~2016/03/21

群馬県立近代美術館[群馬県]

近年、60年代の前衛美術運動を検証する企画展が相次いでいる。「佐々木耕成展:全肯定/OK. PERFECT. YES.」(3331 Arts Chiyoda、2010)をはじめ、「ハイレッド・センター:『直接行動』の軌跡」(名古屋市美術館、渋谷区立松濤美術館、2013-2014)、「九州派展:戦後の福岡で産声を上げた、奇跡の前衛集団。その歴史を再訪する」(福岡市美術館、2015-2016)などは、60年代の前衛美術運動を歴史化するうえで大きな功績を果たした。
本展は戦後の群馬で活躍した前衛美術運動「群馬NOMOグループ」(1963-1969)の全容に迫った企画展。同館学芸員の田中龍也が、いくつかの先行研究を引き継ぎながら、緻密で粘り強い調査によって、その活動の実態を克明に解き明かした。その充実した成果は本展の図録で公表されているが、会場ではメンバーによる作品80点あまりと関連資料が展示された。
「群馬NOMOグループ」の特徴は、主に3点ある。
第一に、メンバーがおおむね絵画を志向していたこと。前橋駅前のやまだや画廊における「’63年新人展」は「NOMO」が誕生する契機となったグループ展だが、これに参加した砂盃富男、角田仁一、田島弘章、藤森勝次、田中祥雄は、いずれも「前橋洋画クラブ」のメンバーであり、ともに絵画を制作する仲間だった。1965年、前橋市の群馬県スポーツセンターで催された「第1回群馬アンデパンダン展」に参加した「NOMO」メンバーの作品も、砂盃富男がいくつかの平面作品を組み合わせることで小部屋を構成したとはいえ、ほとんどが壁面に展示する絵画だった。逆に言えば、「NOMO」は読売アンデパンダン展に端を発する反芸術パフォーマンスには一切手をつけなかったのである。このように、あくまでも絵画を追究する志向性は、九州派であれハイレッド・センターであれゼロ次元であれ、肉体による行為芸術を大々的に展開した60年代の前衛美術運動の趨勢にあって、「NOMO」ならではの独自性と言っていい。
第二に、その絵画の形式的な面において、絵画による社会への直接的な介入を志したこと。1966年8月7日、前橋ビル商店街で催された「シャッターにえがく15人の画家たち」は、日曜の休業日のため下ろされた各店舗のシャッターに、「NOMO」と東京から応援に駆けつけた佐々木耕成をはじめとする「ジャックの会」のメンバーたちが、それぞれ絵を描くというプロジェクトだった。「ジャックの会」は前橋駅から会場までの道中で、当時彼らが「ジャッキング」と自称していたハプニングを繰り広げたが、このプロジェクトの狙いはあくまでもシャッターに絵を描くことで絵画を一般庶民に直接的に届けることにあった。「NOMO」はアトリエで絵画を制作して画廊で発表するという従来の制度に飽き足らず、より直接的に絵画を社会に認知させるためにこそ、シャッターという新たな支持体を選び取り、画家と一般庶民とを結びつける新たな制度を構想したのだ。残念ながら、それが新たな制度として成熟にするにはいたらなかったが、絵画という美術の制度を維持しながら、美術と社会の新たな関係性のありようを提起した点から言えば、「NOMO」を今日の地域社会で繰り広げられているアートプロジェクトに先駆ける事例として位置づけることもできよう。
第三に、その絵画の内容的な面において、「NOMO」のメンバーが描く絵画には、アンフォルメルの影響がさほど見受けられないこと。なかには黒一色でマチエールを固めた砂盃富男のアンフォルメル風の絵画もないわけではない。けれども全体的にはイメージの再現性や物質の質感、あるいは日常的な事物との連続性を強調したような絵画が多い。紙に手足を生やしたような異形のイメージを描いた金子英彦の絵画は、例えば桂ゆきのように、明確なフォルムをユーモラスな感性で描き出すことが強く意識されているし、支持体としたアルミニウム板の上にワイヤーブラシを配列した加藤アキラの絵画にしても、強調されているのは無機質で幾何学的な規則性であり、フォルムを突き破るほどの激烈な個性やほとばしる激情などは一切見られない。むしろ自動車整備工として日々労働していた日常と切れ目なく接続している点で言えば、加藤の絵画はポップ・アートに近いのかもしれない。

絵画への拘泥と反芸術パフォーマンスからの距離感。おそらく「NOMO」を60年代の前衛美術運動の歴史のなかに同定することの難しさは、この点にある。だが、反芸術パフォーマンスに回収されえないからと言って、「NOMO」は60年代前衛美術運動の例外として否定的にとらえられるべきではない。なぜなら60年代前衛美術運動の周縁にあったとしても、見方を変えれば、ある種の根源的な底流に触れた運動として肯定的に理解することもできなくはないからだ。例えば前述した桂ゆきや中村宏らは、60年代前衛美術運動の熱気のさなかにあって、「NOMO」と同じように、反芸術パフォーマンスとは一線を画しつつ、絵画の制作を続けていた。彼らはいずれも肉体表現を極限化させたがゆえに自滅せざるをえなかったラディカリズムとは無縁であり、ただおのれの絵画意識を追究してきたという点で言えば、ある種の保守主義として考えられなくもないが、同時に、決して批判的な社会意識を隠していたわけでもなかったので、純粋を自称する審美的なアトリエ派というわけでもない。このような類稀な特質をもつ画家たちは、運動と様式に基づいて語られがちな現在の美術史のプロトコルによっては、明確な歴史的系譜として描き出されることがほとんどない。本展における「NOMO」の出現は、そのようないまだ命名されていない、ある種の批判的な絵画の系譜を歴史化するための第一歩として評価したい。

2016/02/04(木)(福住廉)

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試写『もしも建物が話せたら』

この奇妙なタイトルの映画は、ヴィム・ヴェンダース監督が総指揮をとり、ヴェンダースを含め6人の監督に建物を主役にした映画を撮ってもらったオムニバス・ドキュメンタリー。ヴェンダースはベルリンのフィルハーモニー、ミハエル・グラウガーはサンクトペテルブルクのロシア国立図書館、マイケル・マドセンはノルウェイのハルデン刑務所、ロバート・レッドフォードはサンディエゴのソーク研究所、マルグレート・オリンはオスロのオペラハウス、カリム・アイノズはパリのポンピドゥー・センターを選択。基本的にそれぞれの建物がみずからについて独白するという趣向だ。どの映像も、というよりどの建築も興味深いが、とくにルイス・カーン設計のソーク研究所は四角い箱を並べた無機的なモダニズム建築に見えるのに、ここで働いた人はだれも辞めたがらないという。なにがそんなに惹きつけるのか、その空間的魅力が画面から十分に伝わってこないけれど、行ってみたいと思わせる映像ではある。逆に18世紀末に建てられたロシア国立図書館は、いかにもヨーロッパの歴史的図書館の趣を残した建築だけど、建築そのものよりおびただしい量の本が織りなす特有のアウラに圧倒される。「薔薇の名前」がそうだったように、図書館を主役にした映画はもうそれだけで引き込まれてしまう。ひとり30分足らずの短編集だが、6本あるので3時間近くになり、ちょっとツライ。単に長いというだけでなく、建物が動かない分カメラが移動するため、見るほうも動いた気分になって疲れるのかもしれない。


映画『もしも建物が話せたら』予告編

2016/02/04(木)(村田真)

第10回 shiseido art egg「川久保ジョイ展〈インスタレーション〉」

会期:2016/02/03~2016/02/26

資生堂ギャラリー[東京都]

資生堂ギャラリーへ。川久保ジョイ展は、やはり放射線を感知したフィルムの作品が紹介されていたが、個人的に興味をもったのは、壁の白い塗装をはがしてコンクリート面を露出させる試みのほうである。1階のウィンドウでは、中村竜治によるディスプレイ作品の「風景」が設置されていた。厚さ9ミリの針葉樹合板を積層させて、それが自然に導くジグザグの形状をつくるという小さな建築である。また資生堂銀座ビルでは、花椿のロゴのデザインの変遷を紹介する「百花椿図」展が開催されていた。

写真:左上=川久保ジョイ展、左下・右=中村竜治「風景」

2016/02/03(水)(五十嵐太郎)

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野町和嘉「天空の渚」

会期:2016年1月15日(金)~2016年2月14日(日)

916[東京都]

19世紀の写真の発明公表以来、写真家たちはまだ見ぬ未知の世界のイメージを採集し、それらを持ち帰ることに情熱を傾けてきた。写真を見る観客の欲求に応えるように、彼らはさらに遠くにある、よりスペクタクルな事象を撮影しようとしてきたのだが、野町和嘉の仕事はまさにその系譜に連なるものといえるだろう。デビュー作の『SAHARA』(1977、日本語版は1978)以来、ナイル川流域、チベット、メッカ巡礼、インドの聖地、アンデス奥地など、撮影の範囲を全世界に広げ、雑誌掲載、写真集、写真展などを通じて、スケールの大きな写真群を発表し続けてきた。
今回の「天空の渚」も、圧倒的な「遠さ」と「大きさ」を感じさせるシリーズである。2015年初頭、野町は中南米のメキシコ、ボリビア、チリ、アルゼンチンを巡る旅に出た。めくるめく装飾に彩られたメキシコのサンタマリア・トナンツィントラ教会、「天空の鏡」と化したボリビアのウユニ塩原、青みがかった氷が絶えず崩れ落ちるアルゼンチンのペリト・モレノ氷河、マゼラン海峡に取り残された巨大な廃船──それらを撮影するために5060万画素のデジタル一眼レフ、キヤノンEOS 5Dsが駆使されている。結果的に、今回の作品もまた、未知の世界に出会いたいという観客の欲求を満たす視覚的なエンターテインメントとして、充分に成立していたと思う。
ただ21世紀を迎え、あらゆるイメージに既視感がつきまとうようになってしまった現在、「遠さ」と「大きさ」を供給し続ける営みが、どこまで続けられるのかという疑問は残る。デジタルカメラの高画素化も、そろそろ限界に近づきつつあるのではないだろうか。野町の、ある意味愚直な撮影ぶりがどこまで突き抜けていくのか、その行方を見てみたい。だが逆に、足元に目を転じることで、別の眺めが見えてくるのではないかとも思う。

2016/02/03(水)(飯沢耕太郎)

作家ドラフト2016 近藤愛助 BARBARA DARLINg

会期:2016/02/02~2016/02/28

京都芸術センター[京都府]

若手アーティストの発掘・支援を目的に行なわれる京都芸術センターの公募企画展。今年は美術家の小沢剛が審査員を担当し、104件の応募の中から近藤愛助とバーバラ・ダーリンの展示プランが採用された。近藤は、移民としてサンフランシスコで暮らし、第2次大戦中に日系移民収容施設に入った経験を持つ曾祖父の人生を、遺品、写真、映像などでたどるインスタレーションを発表。国家や時代に翻弄される人間の姿を描きながら、現在ドイツに住む自身の姿とも重ね合わせていた。一方、ダーリンの作品は上映時間約10時間の長尺映像作品。東京から青森まで自動車で旅する男女の姿を、ほぼ後部座席からの車載カメラで捉えている。ほかに宿泊、食事、寄り道などの場面もあるが、「愛している」の一言以外2人の音声は消去され、外部の音も一部の場面以外は聞こえない(ちなみに筆者は2時間以上粘ったが、台詞を聞けなかった)。両者の作品に共通するのは、個人的な記憶がテーマになっていることであろうか。強度のある表現が個人の枠を突き破り、普遍性へと至る可能性を示すこと。小沢が2人を選んだ意図はそこにあったと思う。

2016/02/02(火)(小吹隆文)

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