artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

山部泰司──変成する風景画の流れ展

会期:2016/01/25~2016/01/30

ギャラリーQ[東京都]

山部は関西を拠点とする作家なので、東京で発表するのは何年ぶり、いや何十年ぶりだろう。80年代には関西の「イエスアート」や、東京と京都の芸大の交流展「フジヤマゲイシャ」の中心メンバーだった、なんて覚えてる人も少なくなったし。ぼくは一昨年の暮れに大阪で個展を見たので、いまの山水画のような風景画は知っていたけど、この1年ちょっとでまた少し変わりつつあるようだ。前回は赤褐色が大半を占めていたのに、今回は青または青灰色が増えていること、前は樹木のあいだを水が流れていたのに、今度は植物と流水が一体化しつつあるように感じること、などだ。振り返ってみれば、山部は作品そのものの魅力もさることながら、作品が少しずつ変化していくプロセス自体が魅力的なのかもしれない。数年後にはどのように変わっているか、楽しみだ。

2016/01/30(土)(村田真)

佐藤万絵子展「机の下でラブレター(ポストを焦がれて)」

会期:2016/01/09~2016/01/30

アサヒ・アートスクエア[東京都]

2フロアぶち抜きの広い空間に、クシャクシャになった大きな紙が折り重なるように置かれている。「机の下でラブレター(ポストを焦がれて)」という奇妙なタイトルは、書き損じて丸めたラブレターがポストに入れてもらえず、紙クズとなって机の下にたまっていくさまを表わしているのか。そのイメージをそのまま巨大化したようなインスタレーションだ。紙には緑や青で殴り描きが施され、まるでドローイングの荒波のなかに立たされたよう。

2016/01/30(土)(村田真)

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地霊 ──呼び覚まされしもの~東川賞コレクションより~

会期:2016/01/30~2016/05/15

十和田市現代美術館[青森県]

北海道上川郡東川町で1985年から開催されている東川町国際写真フェスティバル。それにあわせて毎年東川賞(海外作家賞、国内作家賞、新人作家賞、特別作家賞、飛彈野数右衛門賞)が選定され、受賞者の作品を収集してきた。30年以上にわたるそのコレクションは2300点以上にのぼるという。その中から20人の写真家たちの作品約120点を選び、筆者がゲスト・キュレーターとして構成したのが、十和田市現代美術館で開催された「呼び覚まされしもの」展である。
「地霊」(ゲニウス・ロキ)というのは、それぞれの土地に根ざした守護霊のことである。東川賞の受賞者たちの作品を見ているうちに、写真家たちが意識的、あるいは無意識的に、「地霊」の存在を感じとりつつ撮影した写真がかなりたくさんあるのではないかと思えてきた。それらを「第一部 生と死をつなぐもの」(小島一郎、須田一政、グラシエラ・イトゥルビーデ[メキシコ]、荒木経惟、深瀬昌久、高梨豊、猪瀬光、アントワーヌ・ダガタ[フランス]、小山穂太郎、鈴木理策、オサム・ジェームス・中川[アメリカ]、志賀理江子、川内倫子)、「第二部 土地と暮らし」(飛彈野数右衛門)、「第三部 精霊との交歓」(掛川源一郎、金秀男[韓国]、クラウディオ・エディンガー[ブラジル]、マニット・スリワニチプーン[タイ]、宇井眞紀子、ヨルマ・プラーネン[フィンランド])の三部構成で展示している。
年代的にも、地域的にも、作風においても、かなり幅の広い人選だが、「地霊」というテーマの下にくくると、写真同士が相互に共鳴して、意外なほどの共通性が見えてきたのが興味深かった。圧巻は、東川町に生まれ育って、役場に勤務しながら街の暮らしを細やかに記録し続けた飛彈野数右衛門の写真群だった。今回はスペースの関係で40点余りしか展示できなかったのだが、その全体像をきちんと見ることができる機会がほしい。飛彈野の写真に限らず、東川賞コレクションにはさまざまな展覧会の企画を実現できる可能性が含まれていると思う。ほかの美術館やギャラリーでも、ぜひ別な切り口での展示を期待したいものだ。

2016/01/30(土)(飯沢耕太郎)

エッケ・ホモ 現代の人間像を見よ

会期:2016/01/16~2016/03/21

国立国際美術館[大阪府]

キリストの受難を表わす「エッケ・ホモ(この人を見よ)」をタイトルに掲げ、戦後以降の現代美術における人間表象を三部構成で紹介する展覧会。出品作の大半が国立国際美術館のコレクションで占められている。
「エッケ・ホモ」というタイトルが示すように、第二次大戦後、安易なヒューマニズムが成立しえず、合理的精神や理性では規定できない人間存在が提示される。とりわけ戦後美術に焦点を当てた第一章では、犠牲者、戦争という受苦を受けた身体表象、傷を負った生々しい肉体(肉塊)の露出が示される。フォートリエの《人質の頭部》に始まり、鶴岡政男の《重い手》、ルポルタージュ絵画、石井茂雄や池田龍雄が戯画的に描く、抑圧され奇形的にねじれた身体、荒川修作が棺桶に収めた不気味な肉塊や、工藤哲巳が造形した、腐臭を放ちながら機械と融合して培養される肉塊……。なかでも、ウォーホルのシルクスクリーンのシリーズ《マリリン》の前に、戦死広報と拳銃を向き合わせてガラスケースに収めた村岡三郎の《タナトス・D》が置かれていたのは、意表を突かれてはっとさせられた。マスメディアに流通するイメージがさらに版によって反復されることで、「死」の重ささえも(限りなくポップな様相をまといながら)希釈されていく情報資本主義社会の明るく平坦な暴力性と、戦争という国家が犯した罪の犠牲者である個人の死がたった一枚の紙で通告されること。両者は、ポップな明るさ/シリアスな重さ、反復可能性/唯一性においては両極端だが、「死」が扱われる「軽さ」の一点において収束する。
「肉体のリアル」と題された第二章では、身体の欠損、傷(傷痕の残る皮膚を接写した石内都、自らに施した美容整形手術のプロセスを記録したオルラン)、肥満体の女性のヌード(ローリー・トビー・エディソン)など、(女性の)リアルな肉体を提示することで、美とジェンダーをめぐる表象の問題を鋭く浮上させている。ただし、この文脈に、両義的な小谷元彦の作品を入れたことには疑問が残る。出品作の《Phantom-Limb》は、磔刑像を思わせるポーズ、手首の切断のようにも見える赤く染まった掌、少女のまとうワンピースの「白」という色が想起させる「無垢」や「純粋」によって、「無垢で純粋な、聖なる存在としての美少女」への願望が結像するとともに、(握りつぶした果実の果汁で染まった掌の鮮烈な赤が「血」や官能性を喚起するように)無垢で純粋であるがゆえに侵犯したいという欲望がほのめかされているからだ。
また、両足義足のアーティスト、片山真理が登場する映像作品《Terminal Impact(featuring Mari Katayama “tools”)》では、義足を付けた片山が歩いたり腰かけたりする動作を淡々と反復するとともに、黒子が機械を操作して、取り付けられた義足が回転運動や落下を繰り返す。ただし、リビドーの稼働装置のような機械が動き続ける舞台の上で、下着の見える衣装を片山にまとわせることで、義足は身体機能の代替物としての役割を超えて、人格や身体全体から切り離された文字通りの物象化、つまりフェティッシュの対象としても見えてしまう。また、義足を用いた反復行為は、「訓練」さらには「調教」を想起させるだろう。こうした両義的な小谷作品を組み込むことで、オブセッショナルな「美」への願望(男性の視線への同一化)とそこからの解放が、再び「幻想」の領域へと囲い込まれてしまう。
一方、「不在の肖像」と題された第三章は、それぞれの出品作自体は興味深いものの、全体を貫くキュレトリアルな軸が定まらず、散乱・拡散している印象を受けた。身体表象そのものの「不在」によって逆説的に存在の痕跡を喚起する作品(オノデラユキの《古着のポートレート》、塩田千春の黒い毛糸に絡めとられたワンピースなど)、同一性と差異の間で不安定に揺らぐアイデンティティの曖昧さ(顔を前後左右に動かして撮ったセルフポートレートの連作によって、物理的な運動=自己同一性の揺らぎとして提示するブライス・ボーネン)。後者には、ある状況や社会的身分を共有する個人のポートレートを数十人分重ね、ブレの中にひとつの曖昧な「顔」が浮かび上がる北野謙の写真作品も該当すると思うが、こちらは明確な「肖像(画)」を集めた一室に展示されていた。ここでは、トーマス・ルフの巨大なポートレート写真、ゲオルク・バゼリッツの逆さまの肖像画、フィオナ・タンの静謐で美しい映像による動く肖像画と呼べるビデオ作品がある一方で、ジャン=ピエール・レイノーの白タイル貼りの直方体を還元化された人体として提示した立体作品が置かれている。「肖像(画)」というくくりだろうが、ざっくり感は否めず、「不在」はどこへ行ったのかという疑問が浮かぶ。展示のラストは、ヒューマニズムの回復を謳うように、ボイスと島袋道浩の作品で締めくくられる。「約9割がコレクション」という制約もあるかもしれないが、意欲的な展示だっただけに、キュレトリアルな意識の軸線が定まっていないと展示が散乱して見えてしまう点が惜しまれた。

2016/01/30(土)(高嶋慈)

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幻想の質量

会期:2016/01/25~2016/02/06

2kw gallery[大阪府]

通貨、住空間、言語といった具体的なモノや素材を扱いながら、社会の共通観念を静かに揺るがすような3名の作家によるグループ展。山本雄教は、一円玉のフロッタージュの濃淡によって、画像の粗いドットを表現することで、高額紙幣の「絵」を描き出す。そこには、社会に流通する通貨の中で最小単位である一円玉が、高額紙幣に置換されるという転倒が起きているが、その像はモザイクがかけられたかのように曖昧にぼやけている。また、松井沙都子は、木目がプリントされた内装材やカーペットといった、建築の表面を覆う薄い表層と照明器具を組み合わせ、住空間の一部や家具を思わせる立体によって、暖かみを喚起させつつも空虚で薄っぺらい「虚」の空間を出現させている。それは、鉄骨やコンクリートといった無機質な骨組みの表層を覆い隠し、見かけだけは「居心地良く、暖かそうに」設える皮膜であり、私たちの居住空間はそうした表層の均質性に覆われているのだ。また、森村誠は、英語の辞書からアルファベットの「g」だけを切り抜いた作品を出品している。認識やコミュニケーションの基盤をなす言語の体系、その象徴的存在である辞書は、恣意的なルールによって虫食いのような様相を呈している。切り抜かれたおびただしい極小の紙片は、グラム数の表示とともに傍らのガラス容器に詰められている。わずか数十グラムというその「軽さ」は、均質な住空間の表面に囲まれて暮らし、国家が保証する通貨の価値を信じて経済活動を行ない、言語的コミュニケーションによって意思疎通を図っていると疑わない私たち、その共同幻想に支えられたシステムの仮構性をシニカルに照らし出していた。

2016/01/30(土)(高嶋慈)