artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
山端祥玉が見た昭和天皇──摂政から象徴まで
会期:2015/12/01~2016/12/24
JCIIフォトサロン[東京都]
天皇の写真は政治的、文化的にとてもデリケートなテーマといえる。1872(明治5年)に内田九一が最初に撮影した明治天皇の肖像写真は、やがて「御真影」として神格化され、奉安殿に祀られることになる。昭和天皇のイメージも、第二次世界大戦前と戦後ではドラスティックに変化した。戦前、ジーチーサン商会を経営して写真撮影、印刷、プリントなどの業務をおこなっていた山端祥玉は、1945年にサン・ニュース・フォトス社を設立し、宮内庁の嘱託として皇居で天皇一家を撮影した。その中には一家団欒を楽しむ「家庭人」としての姿や、顕微鏡を覗く「科学者」としての写真が含まれており、「人間宣言」した天皇のイメージに沿った内容になっている。これらの写真は『LIFE』誌(1946年2月4日号)にまず掲載され、翌47年に亀倉雄策のデザインによる写真集『天皇』(トッパン)として出版された。
今回のJCIIフォトサロンでの展覧会は、山端の遺族からJCIIに寄贈されたオリジナル・プリントから構成したものである。かつての「御真影」にまつわりつく大日本帝国の君主の負のイメージを払拭し、新たな「民主国家」にふさわしいものに変えていくために、山端らがいかに腐心したかをうかがわせる、興味深い内容の展示になっていた。毎年、年末になると、白山眞理のキュレーションで日本写真史をさまざまな角度から読み解いていく展覧会が開催されているが、今回も意外性に富んだいい企画だった。なお、同サロンの地下のJCIIクラブ25では、「アルス──『カメラ』とその周辺」展が同時開催されていた。北原鐵雄(北原白秋の弟)が経営していた出版社、アルスから刊行された『カメラ』をはじめとする写真雑誌の周辺を細やかに辿る好企画であり、戦前から戦後にかけての写真の大衆化の一断面が浮かび上がってくる。
2015/12/10(木)(飯沢耕太郎)
松江泰治「LIM」
会期:2015/11/28~2015/12/26
TARO NASU[東京都]
松江泰治の目の付け所はさすがとしか言いようがない。「構想10年」だそうだが、世界各地で「墓地」を撮るという素晴らしいアイディアを思いつき、それを完璧に形にしてみせた。ペルーの首都、リマ(「LIM」)で撮影された写真群を中核として、アジア、アフリカ、中近東、ヨーロッパなどに広がっていく作品を見ていると、彼がここで提起している「墓地こそが都市である」というテーゼが、これ以上ないほどの説得力を備えていることがよくわかる。
それにしても、死という不可避的でありながら不条理の極みというべき出来事を、人間たちがいかに手なずけ、社会化してきたかを見るうえで、墓地ほどふさわしい指標はほかにないのではないだろうか。半ば砂に埋もれた石塔のかけらが散らばるサハラの墓地、素っ気ない枕のような造形物が規則的に並ぶイスラム世界の墓地、あたかも人がそのまま暮らしていそうな外観の中南米の墓地等々、各地の墓地のあり方は、そのままそれぞれの土地の社会や歴史の縮小模型のようだ。松江の写真家としての力量と、近年、より柔らかなふくらみを感じさせるようになったカメラワークの冴えが見事に発揮された傑作だと思う。
ただTARO NASUでの展示は「LIM」シリーズから15点+映像作品のみなので(ほかに1990年代のモノクロームの風景作品が15点)、「要約版」という趣でやや物足りない。その全貌は、青幻舎から同時に刊行された同名の写真集で確かめていただくしかないだろう。こちらは、編集、デザイン(秋山伸+榊原ひかり/エディション・ノルト)ともしっかりと組み上げられていて、見応えがある。
2015/12/08(火)(飯沢耕太郎)
ルートヴィヒ・コレクション ピカソ展
会期:2015/10/31~2016/12/23
宮城県美術館[宮城県]
ピカソのさまざまな時代を網羅していたが、内容としては、絵画以外の陶芸の作品や原版の展示が目新しい。また、さまざまな写真家が撮影したピカソのポートレイト群が特徴だろう。多様な切り口が可能な多作ぶりだが、飽きることなく、生涯多作を維持できることはひとつの才能だろう。常設展示のほうは、日本画、荒川修作の巨大作品、ココシュカやエゴン・シーレの小作品など。
2015/12/08(火)(五十嵐太郎)
存本彌生『わたしの獣たち』
発行所:青幻舎
発行日:2015/11/25
ヒオス島(ギリシャ)、セビリア(スペイン)、神戸(日本)、ミュンヘン(ドイツ)、サンクトペテルブルク(ロシア)、シェトランド(スコットランド)、ゴーダ(オランダ)、コチコル(キルギス)……。在本彌生の写真集『わたしの獣たち』の写真の撮影場所を、掲載順に記すとこんな具合になる。彼女が旅の写真家であることは一目瞭然だろう。ジェット機の時代の写真家の中でも、在本の移動距離の大きさは突出している。そういえば、彼女の最初の写真集『MAGICAL TRANSIT DAYS』(アートビートパブリッシャーズ、2006)も旅と移動の産物だった。それから9年ぶりになる、この新作写真集を見ていると、在本の「世界に潜む美を探し求める」アンテナの精度が、より研ぎ澄まされてきているのを感じる。
とはいえ、その探索の旅は、けっして肩肘を張って狙いをつけるようなものではない。むしろ被写体の幅を大きくとり、目に飛び込むものを片端から撮影しているように見える。だがそれらの雑多なイメージの流れに身を委ねていると、何か柔らかく、大きな塊のようなものが浮かび上がっているように感じる。例えば、何度か登場する「馬」のイメージもそのひとつだろう。在本にとって、「馬」は好きな被写体という以上に、生命力そのものの在処をさし示す、神話的、根源的な生きものなのではないだろうか。「馬」だけではなく、彼女の写真には出会うべくして出会ったという確信がみなぎっているものが多い。こういう写真集のページを繰っていると、自分も旅に出たいという、ひりつくような渇望の思いに駆られてしまう。
2015/12/07(月)(飯沢耕太郎)
森山大道『犬と網タイツ』
発行所:月曜社
発行日:2015/10/10
『犬と網タイツ』というタイトルは、森山大道の記述によれば「つい先日、ふと池袋の路上でぼくの口をついて出てきたフレーズ」だという。たしかに写真集に限らず、本のタイトルなどがふと「口をついて出て」くることがある。考えに考えた末にひねり出したタイトルよりも、逆にそんな風にふっと降りてきたもののほうが、ぴったりと決まるというのもよくあることだ。
『犬と網タイツ』の「犬」というのは、いうまでもなく、森山の代名詞というべき名作「三沢の犬」(1971)のことだろう。そして「網タイツ」は彼が『写真時代』1987年5月号に掲載した、「下高井戸のタイツ」を踏まえているに違いない。そういえば森山には、のちに『続にっぽん劇場写真帖』(朝日ソノラマ、1978)として刊行された「東京・網目の世界」(銀座ニコンサロン、1977)という個展もあった。つまり『犬と網タイツ』というのは、森山が写真家として固執し続けているオブセッションの対象を、これ以上ないほど的確にさし示す言葉といえるのではないだろうか。
「昨年7月終わりから今年の3月末までの8カ月間、集中的に撮影したカット」から編集された写真集の内容も、最近の森山の仕事の中でも出色のものといえる。「全てタテ位置の写真(モノクローム)」のページ構成は、まさに森山の写真作法の総ざらいというべきもので、同時に「原点回帰」といいたくなるような初々しい緊張感を感じることができた。見ることと撮ることの歓びがシンクロし、弾むようなリズムで全編を一気に貫き通しているのだ。編集と装丁は月曜社を主宰する神林豊。それほど大判ではない、掌からはみ出るくらいの写真集の大きさもちょうどよかった。
2015/12/06(日)(飯沢耕太郎)