artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
琳派イメージ展
会期:2015/10/09~2015/11/23
京都国立近代美術館[京都府]
今年の京都は琳派400年を記念した企画が目白押しだが、本展もそのひとつ。琳派の影響が色濃い近現代の絵画、工芸、版画、ファッション、グラフィックなど80件を紹介している。出展作家は、加山又造、田中一光、神坂雪佳、十五代樂吉左衞門、冨田渓仙、上村淳之、池田満寿夫、福田平八郎など。展覧会末尾にはマティスの作品もあったが、これはいかなる解釈だろうか。マティスは極端にしても、「この人が琳派?」と首をかしげる作品がいくつかあり、我田引水の感を抱いた次第。その一方、「自分はどれほど琳派を知っているのか」と自省することもしばしば。私淑で受け継がれてきた琳派は、そもそも曖昧な部分を持っている。しかし、それを言い訳にするのは良くないだろう。筆者にとって本展の意義は、我が身を振り返る機会を得たことだ。
2015/10/08(木)(小吹隆文)
オノデラユキ作品展 Muybridge's Twist
会期:2015/10/07~2015/11/10
ツァイト・フォト・サロン[東京都]
縦3メートル近いキャンバスに張られた巨大な人物写真だが、身体が奇妙にねじれていたり、足が3本あったり、どうも居心地がよくない。作者は写真に身体性を取り戻そうとしているようで、それは写されたモデルの身体性だけでなく、写す側の制作するという行為の身体性も含めてのこと。そのため彼女はマイブリッジの連続写真を推し進めて、1枚の写真のなか、ひとりの人物像のなかに動きを取り戻すべく、撮影ーデッサンーコラージュというプロセスを積み重ねていったという。と説明されて納得する類いの作品でないのはたしかで、そこからはみ出た不穏な空気が周囲に漂っているのだ。それが作品のオーラというものかもしれない。
2015/10/07(水)(村田真)
吉川和江
会期:2015/10/05~2015/10/17
ギャラリー現[東京都]
壁4面に絵画が1点ずつ、計4点。といえば少ないが、多く見積もれば30点ともいえる。3×5の15枚セット、3×3の9枚セット、4枚横並び、2枚縦並びの組み合わせだから。15枚セットはほとんど女性の顔が描かれているが、真ん中のキャンバスだけ「動物の図鑑」と書いてあり、9枚セットは女性像と花の絵で、1点だけ「ABE」の鏡文字を繰り返し、4枚セットは花ばかりで、2枚セットは青い表現主義的な抽象画だ。どれも脈絡がなさそうで、特に抽象が異質だが、もともと吉川は抽象画家として知られているので、むしろ女性像や花のほうに違和感がある。でもこれらは女性や花を描いてるというより、雑誌の図版などを参照しながら色彩と筆触を試しているという感じだ。ちなみに「動物の図鑑」といえば、だれしも中平卓馬の『なぜ、植物図鑑か』を思い出すはず。世界を図鑑のように相対化して眺めるという姿勢は、彼女の絵画観に通じているように思える。
2015/10/07(水)(村田真)
大竹竜太展
会期:2015/10/03~2015/10/07
SUNABA GALLERY[大阪府]
一見シンプルなモチーフと構図だが、違和感がじわじわと染み出してくる不穏な絵画群だ。
何もない白い壁と床(ホワイトキューブの空間を思わせる)の前に立つ、女性像と男性像がそれぞれのキャンバスに描かれている。第一の違和感は、ジェンダーの区別に対応して採用された描写モードの落差である。ゲーム・アニメ風の美少女キャラクターとして描かれる女性に対し、妙にリアルに描かれる中年男性。無個性的で消費される記号として描かれる女性イメージと、現実に対応する固有性を備えた男性イメージ。その対比や落差は、一見「美少女キャラの萌え絵」をなぞりながら、その欲望の送り主たちの「現実の」姿を反転像として浮かび上がらせ、表象システムがはらむ視線の偏差や欲望のコード(「かわいらしく無害な美少女」)をあぶり出す。女性たちが虚構世界の住人であることに対し、男性像が「現実」と対応していることは、彼らとともに画中に描かれた、何かの部品か箱のような謎めいた白い構造体が、立体作品として絵画の前に置かれていることからも分かる。一方、女性たちには、水の溢れる水槽やバケツが配され、性的なコノテーションを伴うことが明らかだ。
第二の違和感は、人物たちの足元から立ち上がる「影」の形態である。白い壁を背に立つ人物たちは、どこか舞台の構造を思わせるが、強い照明を当てられたかのように彼ら/彼女らの足元から伸びる「影」は、手足のポーズや手に持った小道具から派生しつつ、不自然に歪み、半ば自律的な領域をひとりでに生き始める。三次元の物体の二次元への投影像であることをやめ、人物たちを背後から脅かすような不定形の塊や動物のようなシルエットへと変貌していくのだ。
これら全ては、滑らかでマットな乳白色の質感を持つ、独特の画肌とともに描かれている。これは、透明メディウムとアクリル絵具を何層も塗り重ねることでつくられているという。このように大竹の絵画は、二次元と三次元の往還やズレ(物体/影、キャラ/リアルな人物像)を根幹に据えながら、そこにジェンダー表象の問題を含ませ、マチエールの重層性、さらにはホワイトキューブという空間をも示唆し、様々な問題が多重的に重なり合う場としての絵画空間を構築していた。
2015/10/07(水)(高嶋慈)
そこにある、時間──ドイツ銀行コレクションの現代写真
会期:2015/09/12~2015/01/11
原美術館[東京都]
ドイツ銀行の現代美術コレクションは、「紙の作品」のコレクションとしては世界最大(6万点!)を誇る。本展は1979年から開始されたそのコレクションから、「時間」をテーマとした写真作品を厳選して構成している。「Part1 時間の露出/露出の時間」「Part2 今日とは過去である」「Part3 極限まで集中した時間」「Part4 私の夢は未来にあらず」の4部構成で、約40組、60点の作品が展示されていた。数はそれほど多くないが、多彩なアイディアを形にした、クオリティの高い作品が多い。
特徴的なのは、「現代美術」としてコレクションされた写真作品ということで、現実を再構築する、あるいは現実そのものを捏造するタイプの作品がほとんどということだ。当然ながら、ドキュメンタリー、あるいはスナップショットの文脈の仕事はまったくない。写真作品の「アート化」が、まさに1980年代以降に加速していった状況を踏まえた展示といえるだろう。
もう一つは、アジア、アフリカ、中近東、中南米などの作家の作品が目につくことだ。朱加(チュウ・ジア、中国)、曹斐(ツァオ・フェイ、同)、ヂョン・ヨンドゥ(韓国)、ダヤニータ・シン(インド)、ゾーラ・ベンセムラ(アルジェリア)、シリン・アリアバディ(イラン)、フリオ・セザール・モラレス(メキシコ)らの作品が、新鮮な眺めを生み出していた。これまでの欧米中心の写真シーンが急速に解体し、多極化していることがよくわかる。もっとも、本展はシンガポール、インド、そして日本と、アジア諸国を巡回する企画であり、そのことが作家の人選に影を落としていることは考えられる。だが、杉本博司、佐藤時啓、やなぎみわというラインナップの日本人出品作家も含めて、現在の写真表現の主流が、欧米諸国の影響圏から脱しつつあることは間違いないと思う。
2015/10/07(水)(飯沢耕太郎)