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美術に関するレビュー/プレビュー

Don't Follow the Wind Non-Visitor Center

会期:2015/09/19~2015/10/18

ワタリウム美術館[東京都]

現在、福島県の「帰還困難区域」内で「Don't Follow the Wind」と題する展覧会が開かれている。出品作家はアイ・ウェイウェイ、小泉明郎、竹内公太、Chim↑Pom、宮永愛子ら12組。これは見たい、と思っても見に行けないのがこの展覧会の最大の特徴なのだ。といっても永遠に見られないわけではなく、封鎖が解かれれば見に行けるが、それがいつになるか、5年後か10年後か100年後か、だれにもわからない。そこで各地に随時サテライトを設けて同展の紹介をすることになったのが、このノンヴィジターセンターだ。国立公園の入口によくあるヴィジターセンター(案内所)みたいなもんだが、展示場所や作品内容など具体的な案内ができないので「ノン」がつく。ここでわれわれはどんな作品がつくられたのかを想像するわけだが、そのためにまず、帰還困難区域内はどうなってるのか、そもそも放射能とはどんなものかに思いを馳せざるをえなくなるのだ。「イマジン」、これが同展の最大の目的かもしれない。ノンヴィジターセンターでは3階が立ち入り禁止のサテライトスタジオになっていて、そこに関連作品を展示している。見るには2階の吹き抜けに建てたヤグラの急な階段を上らなきゃいけないが、見ても作品まで距離があるからよくわからない。また4階では、キュレーターやアーティストらのスカイプを使った会話を素材にした園子温によるドキュメンタリーを流している。

2015/09/24(木)(村田真)

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伊奈英次『YASUKUNI』

発行所:Far East Publishing

発行日:2015年8月15日

伊奈英次が靖国神社を撮るのは意外なことではない。というのは、彼には既に全国各地の天皇陵を長期間にわたって撮影した労作『Emperor of Japan』(Nazraeli Press, 2008)があるからだ。
だが、デビュー作の「都市の肖像」(フォトギャラリー・OWL、1981年)以来、これまでの主に風景写真的なアプローチで撮影した写真を見慣れてきた者にとっては、今回の写真集にはかなりの違和感を覚えるだろう。伊奈が1989年から続けているこのシリーズで、彼がカメラを向けているのは、靖国神社の境内に群れ集う人物たち(やはり右翼、愛国者といった人たちが多い)だからだ。アプローチとしては典型的な「社会的風景」を志向するスナップショットであり、一癖も二癖もありそうな人物たちが、モノクロームの中判カメラでくっきりと切り出されている。
伊奈のこの撮影対象と手法の変化は、むしろ靖国神社というテーマから必然的に導き出されたのではないだろうか。そこは建物や広場に意味があるのではなく、そこに集まってくる群衆のうごめきや、彼らが引き起こすイベントこそが重要なファクターになるからだ。とはいえ、伊奈は報道写真的なアプローチをめざしているわけではない。むろん「小泉首相の参拝」や「石原慎太郎都知事参拝」といった出来事も写してはいるが、その詳細を記録・伝達するというよりは、さまざまな要素がひしめき合うカオス的な状況こそが、伊奈の関心の的なのだ。アメリカ各地で開催されたイベントを撮影したゲイリー・ウィノグランドの名作『Public Relations』(1977年)のように、このアプローチを推し進めていけば、靖国神社以外に撮影対象を広げていくことも考えられそうだ。

2015/09/23(水)(飯沢耕太郎)

松井沙都子「ブランクの住空間」展

会期:2015/09/18~2015/10/04

Gallery PARC[京都府]

ギャラリーの展示室には、天板にカーペットとフローリング風のクッションフロアを貼り付けたテーブルに、1面ないしは2面の壁を取り付けた立体《ホームインテリア》が2点。他には写真作品と、壁材と木材と照明器具から成る壁掛け式の立体作品が出展されていた。展示の中心となる《ホームインテリア》は、規格化された現代日本の生活空間をシンボライズしたものだ。筆者自身、公団住宅(5階建ての団地)で人生の半分近くを過ごしてきたので、この作品が持つリアリティを心底から実感できる。快適だが薄っぺらい住環境、ルーツを喪失した根無し草、といったところか。しかし、そんな場所でも長く住むと愛着が湧くのが人間だ。本作を見て、図らずも自分の人生をプレイバックした。見た目は華奢で仮設的な作品だが、その背後にあるものは意外と重い。

2015/09/22(火)(小吹隆文)

生誕100年 写真家・濱谷浩──もしも写真に言葉があるとしたら

会期:2015/09/19~2015/11/15

世田谷美術館[東京都]

1999年の死去から16年あまりを経て、濱谷浩の回顧展が開催された。「モダン東京」「雪国」「裏日本」「戦後昭和」「學藝諸家」の5部構成で、代表作200点が並ぶ。生前制作のプリントを元にして、2015年に再制作された写真だからだろうか。戦前や1950年代の写真群を見ても、奇妙な生々しさを感じる。今回は残念なことに、後期の代表作である1970年代以降に世界各地で撮影された壮大なスケールの風景写真のシリーズは割愛されているのだが、より大きな会場で、この不世出の写真家のより規模の大きな展示を見たいものだ。
今回あらためて強く感じたのは、濱谷の写真家としての実験精神である。1930年代の銀座や浅草のモダンな風俗写真は、明らかに同時代の「新興写真」の影響化にあり、1945年8月15日の正午にカメラを天に向けて写した「終戦の日の太陽」の写真も、その延長上にあると思う。『雪国』(毎日新聞社、1956年)、『裏日本』(新潮社、1957年)でドキュメンタリー写真に転じた後も、画面構成や明暗の処理にはモダニズム時代以来の実験精神が息づいている。『學藝諸家』(岩波書店、1983年)も単なる人物ポートレートの写真集ではない。モデルの個性をどのように表現していくのか、画面の隅々にまでさまざまな工夫が凝らされている。
内容だけではなく、むしろ語り口やフォルムから濱谷の写真を読み解いていく視点が必要になるのではないだろうか。彼の写真表現の「新しさ」に着目すべきだろう。

2015/09/22(火)(飯沢耕太郎)

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毒山凡太朗+キュンチョメ展覧会「今日も きこえる」

会期:2015/09/18~2015/09/22

福島県いわき市ワタナベ時計店3F「ナオナカムラ」[福島県]

天才ハイスクール!!!!出身のアーティストで、福島県出身の毒山凡太朗と茨城県出身のキュンチョメによる合同展。いわき市内にある古いビルのワンフロアをブラックキューブとすることで、映像作品を中心にそれぞれ作品を発表した。発表の場所に、あえて「いわき」を選んだことから伺えるように、いずれも東日本大震災を強く意識した作品である。
毒山凡太朗は故郷の安達太良山に登り、頂上に設置されている同郷の洋画家で、彫刻家の高村光太郎の夫人である高村智恵子が詠んだ一節「この上の空がほんとうの空です」を、雨の中何度も叫んだ。映像を見ると、豪雨に濡れながらカメラに向かって元気よくこの言葉を説く毒山の姿には、ナンセンスなユーモアを感じずにはいられない。だが、その乾いた笑いの先で、精神を病んだ智恵子の発した言葉と、字面は変わらないにせよ、毒山が発する言葉とでは、それが意味する内容がまるで異なることに気づかされるのだ。光太郎によれば智恵子は「東京には空がない」とこぼしていたというから、智恵子にとっては安達太良山の上の空こそ、真実の空だということなのだろう。けれども智恵子が真正性を見出したその空は、いまや放射能によって汚染されてしまった。したがって毒山の叫びは、皮肉を交えた反語的な意味合いが強いといえるが、汚された雨を全身で浴びながら絶叫する毒山の身体には、アイロニカルな構えというより、むしろアイロニーを超えて、現実をありのままに受け止める覚悟が漲っているように見えた。つまり毒山が口にする「この上の空がほんとうの空です」とは、どれだけ毒に汚されたとしても、いまやそれが「ほんとう」になってしまったことを、私たちの眼前に突きつけているのだ。
毒山がある種の冷徹なリアリズムを貫いているとすれば、それにある種の叙情性や芸術性を重ねているのがキュンチョメである。海岸線に沿って立ち入り禁止の黄色いテープを貼る映像《DO NOT ENTER》は既発表の作品だが、強い風が吹き荒れる広大な海を目の当たりにすると、立ち入ることのできなくなってしまった海へのやるせない想いと、やがて押し寄せるかもしれない次の津波を止めることを願う切ない想いが、心の奥底から折り重なりながら立ち上がってくる。
だが、今回発表されたキュンチョメの新作のなかで、とりわけ社会性と叙情性を巧みに両立させていたのが《ウソをつくった話》である。映像に映されているのは、Photoshopの画面。帰宅困難者となってしまった御老人の方々に、故郷へ帰る道に置かれたバリゲードをPhotoshopの画面上で消しもらうというものだ。音声を聞くと、初めてPhotoshopを操作する御老人に、ナビゲーター役となった毒山が土地の言葉で使い方をていねいに助言していることがわかる。ぎこちない手つきで消していくが、ちょっとした手加減で背景の家や森までも消してしまう。だがその一方で、毒山の巧みなリードも大きいのだろう、御老人の方々の口から本音が浮き彫りになるのが面白い。「ぜんぶ消しちまえばいいんだ」「もう帰りたくねえ」。視覚的には彼らの帰宅を阻む障害物が徐々に消え去る反面、聴覚的には彼らの心情が託された言葉が次々と露わになるのである。
むろん、どれほど画像上でバリゲードを消去したとしても、帰宅困難者の問題を解決するうえではなんら実効性があるわけではない。あるいはまた、彼らの姿が画面に直接的に映されているわけでもない。しかし、にもかかわらず、最低限の画像と音声を媒介として帰宅困難者の実存がありありと伝わってきたことは疑いようのない事実である。いや、より正確に言えば、限られた画像と音声によって大いに喚起された私たちのイマジネーションが、彼らのイメージを実存として想像させたのだ。
いまやあの震災を伝える報道は少ない。ドキュメンタリー映画や小説にしても、ある一定の成果を出したとはいえ、いまのところそれ以上の展望は特に見込めない。だが、キュンチョメによるこの作品は、私たちの想像力に働きかけることである種のイメージを幻視させるという、アートのもっとも得意な方法論を、もののみごとに提示したのである。

2015/09/21(月)(福住廉)