artscapeレビュー
映像に関するレビュー/プレビュー
試写『顔たち、ところどころ』
シネスイッチ銀座、新宿シネマカリテ、アップリンク渋谷ほか全国順次公開[全国]
世界中の建物や車両に大きな顔のモノクロ写真を貼り付けるストリートアーティスト、JR。その彼が、ヌーヴェルヴァーグの女性監督のひとりアニエス・ヴァルダとともに、荷台を巨大カメラに改造した車でフランスの片田舎を旅しながら、人々の顔を撮って作品を残していく道行きを描いたロードムービー。若くてスラリとしていつも帽子とサングラスを外さないJRと、小さくてずんぐりむっくりで髪の毛を2色に染めたおばあちゃんのアニエスの視覚的対比が、まず目を引く。なんでこの2人が一緒に旅することになったのかとか、最後にアニエスの旧友ゴダールに会いに行ったなんて話はこの際どうでもいい。興味あるのはJRがどこにどうやって写真を貼っていくかだ。
まず、さびれた炭鉱街で坑夫の昔の写真を借りて引き伸ばし、空家の外壁に貼る。ゴーストタウンに近隣住人の顔写真を飾ってパーティーを開く。浜辺に打ち捨てられたトーチカの残骸に、アニエスが昔撮った思い出の写真を残す(翌朝には満潮で流されていた)。積み上げたコンテナの表面に港湾労働者の妻たちの全身写真を貼る……。だいたいいまちょっとさびれていたり元気がなかったりする場所や人ばかりを選んでいる。なのにみんなよく協力してくれるもんだと感心する。ノリがいいというかユルいというか。途中ポリスが「写真を貼るのはいいが、足場を組むのはダメだ」と注意すると、JRは「罰金はアニエスに、ホメ言葉はぼくに」とかわし、ポリスもにこやかに応じる。こうした「ウィット」と「おめこぼし」精神が愉快で痛快なストリートアートを育んでいるのだ。そんなことがわかっただけでもよかった。
2018/08/29(村田真)
映画『スカイスクレーパー』試写会
会期:2018/09/21
[全国]
試写会場にて、ローソン・マーシャル・サーバー監督の映画『スカイスクレイパー』を鑑賞する。香港の海辺にたつ高さ1kmの超高層ビルが舞台であり、ひと言で表現するならば、ビル火災映画の古典『タワーリング・インフェルノ』+ビルを舞台に格闘する『ダイ・ハード』という感想だったが、じつは脚本の制作者もまさにそれを狙っていたらしい。ほかにも既存の映画をあげると、ドバイの《ブルジュ・ハリファ》が登場する『ミッション・インポッシブル ゴースト・プロトコル』や、主演のドウェイン・ジョンソンがやはり家族を救出するために地震の現場で奮闘した『カリフォルニア・ダウン』が想起されるだろう。もっとも、『タワーリング・インフェルノ』のような群像劇にすると、3時間超えの作品なることを避け、オープン前の火災という設定にすることで、最上階にいる金持ちの施主と家族と悪役しかビルにいないシンプルな物語とし、全体を100分程度でおさめている。
さて、「ザ・パール」と命名された超高層は、いかにも中国圏なら登場しそうなアイコン建築のデザインだった。すなわち、垂直になった竜が口を開けて、最頂部で玉を咥えているような造形なのである。最上階の派手な階段も、ありそうなデザインだ。場所は九龍サイドのフェリーターミナル付近だろうか。もっと内陸側ならともかく、ここにオフィスビルではなく、上部がタワーマンションになった超高層ならば(低層はショッピングモールなど)、相当にゴージャスなものになるはずだ。全体は240階建て、途中の吹き抜けには公園や風力発電の施設などがある。中国や中近東ならば、本当につくりそうだが、逆に現在の日本だと、あからさまなアイコン的な造形のビルは忌避されるだろう。もし建てるならば、外観はあえて凡庸にして、内部を豪華にするのではないか。なお、映画の冒頭は、主人公がいまの仕事に転職するきっかけを説明しているが、明らかにあとで同じ状況が反復されることが簡単に予想できるシーンで、もう少し予想を裏切るような展開が欲しかった。
2018/08/08(水)(五十嵐太郎)
試写「太陽の塔」
太郎にゆかりの研究者、学芸員、万博関係者、芸術家らへのインタビューに昔の映像を織り交ぜ、多角的な視点から「太陽の塔」に迫る。どっちかというと造形面より思想的な背景が語られる。太陽の塔から縄文へ、アイヌ、沖縄、民族学、バタイユ、マンダラ、チベット仏教、南方熊楠、粘菌へとテーマは連想ゲームのように広がっていく。おもしろいけど、風呂敷広げすぎ。インタビューされたのは平野暁臣、赤坂憲雄、中沢新一、椹木野衣、関野吉晴、糸井重里、Chim↑Pomまで25人におよぶ。これも多すぎ。あれこれ詰め込みすぎ。映画長すぎ(112分)。90分でよかった。
興味深いのは、だいたいみんな太郎に関しては同じような意見を持っていること。だれかの意見を、最後のほうだけ別の人の結論につなぎ合わせても違和感がない。みんな似たようなことを考え、みんな太郎を神格化している。でもこれって、太郎がいちばん嫌ったことじゃなかったっけ? 「太陽の塔」に対して「みんな深読みしすぎ。あれはできそこないの裸の王様」とかいうやつはいないのか。もっと異論を差し挟んだり、ケンカになったり、映画自体が空中分解したほうが太郎にふさわしかったのではないか。
2018/08/03(村田真)
『未来のミライ』
[全国]
細田守監督の『未来のミライ』は、ネット上の評判をチェックすると、家族のホームビデオを見せられているようだなど、あまり芳しくないが、本来、アニメで表現しづらい、派手さに欠けた家族の日常を細やかに描いた点で、実験的な作品だ。例えば、彼の過去作『サマーウォーズ』(2009)における親戚の集まりのシーンもそうだったが、実写ならば簡単に撮影できることも、逆にアニメは難しいのである。ただ、アニメならではの派手なアクションを期待するファンにとっては、退屈になるかもしれない。テーマとしては、『おおかみこどもの雨と雪』(2012)や『バケモノの子』(2015)でも子供の学びと成長を描いていたが、本作はこれを受け継ぎながら、さらに主人公の年齢を4歳にまで下げたこと、また日常的な住空間を舞台として、ファミリーヒストリーの系譜と現在の偶然性も加味したことが特筆されるだろう。
さて、建築の視点からは、主人公の両親が独立したばかりの建築家と編集者の夫婦であること、また遠くにみなとみらいのランドマークタワーが見える冒頭の俯瞰シーンが提示するように、父の設計により家を建て替えたことが興味深い。したがって、おそらくひな壇造成をよしとせず、傾斜地に対し、何段階にも各部屋のレベル差を設け、あいだに中庭を挟む、独特な構成をもつ。また父の作業机の後にある本棚には、ザハ・ハディド、清家清、バウハウスの作品集のほか、『人工楽園』などの書籍の背表紙が見える。実際は谷尻誠に住宅の設計を依頼したものだが、行動範囲が狭い子供にとっては、幼稚園以外で過ごす大きな世界である。と同時に、のび太の家の2階の窓や机の引き出しのように、住宅の中庭と樹が、時空ファンタジーへの入り口として機能していた。未来の妹ミライと出会うのも、まさにここである。そうした印象的な舞台が、建築家によってデザインされていた。
2018/07/25(水)(五十嵐太郎)
im/pulse: 脈動する映像
会期:2018/06/02~2018/07/08
京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]
文化人類学を従来の「書かれた」民族誌に限定せず、映像、写真、サウンド、アートなどの表現領域と交差する複合的実践として行なう「映像人類学」に焦点を当てたグループ展。映画監督のヴィンセント・ムーンとプリシラ・テルモン、野外での遊戯的かつ即興的なパフォーマンスの記録映像や装置を展示したcontact Gonzo、映像人類学者の川瀬慈が率いる研究会「Anthro-film Laboratory」が参加し、同研究会のメンバーである若手映像人類学者らの作品上映やセミナーなどが行なわれた。
とりわけ本展で圧倒的なのは、ヴィンセント・ムーンとプリシラ・テルモンによる映像インスタレーション《HÍBRIDOS: ブラジルの魂たち》である。4年間にわたってブラジル各地のさまざまな儀礼やスピリチュアルな儀式を記録した映像が、3面のマルチスクリーンに投影される。どの地方のどの部族でどういった意味合いを持つか、といった説明的な要素は一切なく、臨場感あふれる映像と音響のめくるめく渦のなかに巻き込まれるような体験だ。半裸の体躯に装飾品をまとい、大地を踏みしめ、リズミカルな掛け声を続ける男たち。薄暗い小屋の中で目を閉じ、呪文のような短いフレーズを唱えるシャーマンらしき人物。そうした先住民族の儀礼の映像の隣に、現代的な服装の人々による宗教的な集いやセレモニーが並置される。ハグし合い、痙攣的な身振りで集団的なトランス状態に至る人々。飾り立てられた女神像をみこしのように担ぎ、海へ入っていく男たち。花火が彩るカーニバルの都市的祝祭。黒人も白人も先住民族もいて、ブラジルという国家を構成する多様な民族、人種、宗教、文化を映し出す。
それらの記録映像を複数並置+ループという構造で見せる本作において、特に重要なのは音響的操作である。マルチスクリーンは、ある時はくっきりと浮上したひとつの音響によって主旋律のように貫かれ、ある時はそれぞれの音響の輪郭が溶け合い、遠くから響くざわめきのように感じられる。男たちが刻むリズミカルな掛け声は、ある瞬間、隣のスクリーンでたゆたうように踊る女性の身体と同調する。かと思うと、潮が引くようにすべての音響はカオティックに混じり合う。速度や抑揚こそ違えど、それぞれが刻むリズムは、神、自然、祖先の霊、世界とつながり交感するための媒介である。共鳴と混淆を通して、儀礼や宗教儀式に宿る根源的なものを探ろうとしていることが、体感的に理解された経験だった。
2018/07/01(日)(高嶋慈)