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映像に関するレビュー/プレビュー

あいちトリエンナーレ2019 情の時代(内覧会)

会期:2019/08/01~2019/10/14

愛知県芸術文化センター+四間道・円頓寺+名古屋市美術館ほかほか[愛知県]

「あいちトリエンナーレ2019」の内覧会を訪れ、豊田市以外の会場を駆け足でまわった。津田大介芸術監督とアドバイザーの東浩紀による「情の時代」というテーマを反映し、移民、難民、戦争、記憶、家族、アイデンティティなど、現代社会の諸問題をジャーナリスティックに扱う明快な作品が多い。国際展にふさわしい統一感をもつ内容であり、全体としてのクオリティも総じて高い。練られたコンセプトをもたず、類似した芸術祭が日本国内で乱立するなか、これは高く評価すべき芸術祭だろう。

長者町の代わりに、新しい街なかの会場となった円頓寺・四間道のエリアもよい感じである(暑い夏だと、アーケードはありがたい)。円頓寺では、性別を変えた人たちが名前を叫ぶ映像を制作したキュンチョメ、ある子供の死亡事故をめぐる弓指寛治の作品が印象的だった。また四間道では、津田道子と岩崎貴宏が伊藤家住宅に空間的に介入していた。オープニングは市内のホテルで開催され、大勢の来場者で賑わい、その後も津田監督が自らDJを行なう二次会で盛り上がっていた。パフォーミング・アーツと違い、展覧会は初日を無事に迎えることができれば、最大の関門は突破したも同然である。だが、そのとき、すでにTwitter上では、「表現の不自由展・その後」に対する激しい批判が続々と書き込まれ、ネット民による政治家やインフルエンサーへの告げ口が始まっていた。


キュンチョメ《声枯れるまで》


弓指寛治「輝けるこども」より


津田道子《あなたは、その後彼らに会いに向こうに行っていたでしょう。》
伊藤家住宅にて展示


岩崎貴宏《町蔵》。伊藤家住宅にて展示

今回のトリエンナーレは、事前に男女の参加を同數にするというジェンダー平等の枠組が話題になっていたが、実際に展示が始まると、本人の身体性を前面に出さない限り、作家の性別はあまり気にならない。むしろ、セキュリティなどの理由から、ぎりぎりまで広報を控えていた「表現の不自由展・その後」が、今後は社会に強烈なインパクトを与えるだろうことが、内覧会によって明らかになっていた。実際、筆者がこの部屋に入ったとき、すでに韓国のメディアが取材していたほか、内覧会の途中で、顔見知りの新聞記者から「少女像の展示をどう思うか?」といきなり質問され(その時点で筆者はまだ見ていなかった)、注目度の高さを感じた。しかし、その後に起きた出来事は、はるかに予想を超えていた。



「表現の不自由展・その後」の出品作のひとつ、《平和の少女像》をプレスが取材しているところ


「表現の不自由展・その後」の展示風景については、各種SNSへの写真・動画の投稿を禁止するという炎上対策が取られていた

公式サイト:https://aichitriennale.jp/

2019/07/31(水)(五十嵐太郎)

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「スタンリー・キューブリック」展

会期:2019/04/26~2019/09/15

デザイン・ミュージアム[イギリス、ロンドン]

移転したロンドンのデザイン・ミュージアムでは、映画監督のスタンリー・キューブリックの展覧会「Stanley Kubrick: The Exhibition」と建築家のデイヴィッド・アジャイの展覧会「David Adjaye: Making Memory」が開催されていた。後者はメモリアル的なプロジェクトに絞って紹介していたが、前者は知られざる初期の作品から始まり、ほぼすべての作品を回顧する企画であり、客の入りも大変によかった。日本の場合、アニメーション系の映画ならば、美術館で展覧会が開催されるが、実写映画ではほとんどないだろう。もちろん、ポスター、当時の記事、脚本、絵コンテ、監督の椅子、撮影に使った特殊なカメラ、編集機材などの資料が展示されているが、ここではキューブリックらしい美術や建築へのこだわりという点から、いくつかの内容を紹介しておこう。

『2001年宇宙の旅』(1968)は無重力を表現するための360度回転するセットのほか、未来的な宇宙船とそのインテリア・デザイン。


『2001年宇宙の旅』の回転セット模型


『2001年宇宙の旅』の回転セット図面


『2001年宇宙の旅』の宇宙船内のインテリア

007のシリーズも手がけたことで知られる映画美術監督ケン・アダムによる『博士の異常な愛情』(1964)の会議場における有名な円形テーブルや、『バリー・リンドン』(1975)のロケ撮影のためのヨーロッパの古建築調査。



美術監督ケン・アダムが描いた、『博士の異常な愛情』に出てくる会議場のドローイング


『バリー・リンドン』のためのロケハン記録

着想源となったアーティストからは使用を断られ、映画用に新しく制作した『時計じかけのオレンジ』(1971)のエロティックな家具。



『時計じかけのオレンジ』のコスチュームやエロティックな家具


ベトナムやアメリカではなく、実はイギリスで撮影された『フルメタル・ジャケット』(1987)や『アイズ・ワイド・シャット』(1999)のセット、現場写真、ロケハンの資料。


『フルメタル・ジャケット』のセット写真

そしてアメリカのホテルを参照しつつも、すべてがセット撮影だった『シャイニング』(1980)。模型や家具、セットの図面や写真などがあり、建築的にも楽しめる内容だった。


『シャイニング』のセット記録や写真

いまやCGの処理によって、ここまで大がかりなセットを実際に準備しなくても撮影が可能になった時代だからこそ、改めて当時の映像が凄まじい情熱によって作られたことがうかがえる。また日本映画では、過去の黄金時代はともかく、現在は予算が限られているため、そもそも巨大なセットを組むこともほとんどできない。が、キューブリックは映画のための建築を精密に構想したからこそ、歴史に残る作品群を生みだしたのである。

2019/06/27(木)(五十嵐太郎)

主戦場

[全国]

東京のミニシアターでは立ち見が出ると聞いて、仙台駅の隣にあるチネ・ラヴィータで、ミキ・デザキ監督の映画『主戦場』を鑑賞した。もっとも、こちらは残念ながら空席が多く、拍子抜けだった。本来ならば、自国の問題として日本人がこうしたドキュメンタリーを制作しているべきだとも思ったが、監督が日系アメリカ人の留学生だったからこそ、実現できたプロジェクトなのかもしれない。すなわち、後で上映中止を訴え、裁判をおこした「歴史修正主義者」たちは油断して、いつものように調子のいいことをカメラの前でえんえんと演説し、その様子が映像に記録できたのである。一方、逆側の語りは、慎重に歴史の言葉を選ぶ人が多いように思われた。

映画内でとりあげられる内容は、慰安婦をめぐる議論の基本的な知識をテンポのいいスピード感で得ることができる、入門編的なものだ。筆者が実際に訪れたソウルやサンフランシスコの慰安婦像も紹介されていた。どちらの言い分を信じるかは、実際に鑑賞した観客の判断に任せるとして、やはりドキュメンタリーが面白いのは、しゃべっている人間の顔や表情、そして身ぶりがよくわかることだろう。つまり、言葉の外部である。


ソウル日本大使館前の慰安婦像


ソウルの慰安婦像、隣には見張りのテントが

印象に強く残ったのは、過去の発言や記録の細部を切り取り、突っ込みを行ない、「慰安婦」の定義のずらしを行なう「修正主義者」たちの笑顔である。また「韓国や中国が絶対に日本には追いつかない」という信条や、フェミニストの女性を侮辱する言葉を嬉々として語るのだ。彼らがおそらく何度もネタとして繰り返している差別的な内容は、滑稽ですらあるが、ネットにおける匿名の発言ではなく、国会議員やTVタレントのような人物が自信満々にしゃべっていることは深刻な事態だろう。

そしてラストに登場する大ボスの発言はあまりに無茶苦茶すぎて、これはパラレルワールドの住人ではないかと耳を疑った。もし、こうした思想が本当に現在の政治に影響を与えているとすれば、リアル・ホラー感すら漂う。映画の最後では、日本がアメリカの戦争に巻き込まれる可能性を警告していたが、G20直後のトランプの日米安保条約に関する発言で、よりいっそうきな臭くなっている。


サンフランシスコの慰安婦像


サンフランシスコに設置されたプレートより。「世界の性暴力を根絶するための記念碑」と説明されている

公式サイト:http://www.shusenjo.jp/

2019/06/05(水)(五十嵐太郎)

セレブレーション/小泉明郎《私たちは未来の死者を弔う》

会期:2019/05/18~2019/06/23

京都芸術センター、ザ ターミナル キョウト、ロームシアター京都、二条城 東南隅櫓[京都府]

日本とポーランドの国交樹立100周年を記念したグループ展。両国の若手・中堅のアーティスト21組が参加する。日本でまとまって紹介される機会の少ないポーランドの現代アートを見られる貴重な機会だが、メイン会場の京都芸術センターの主な展示スペース(南・北ギャラリー、講堂、フリースペース、大広間)はすべて日本人作家で占められている(経費の問題もあるだろうが)。また、数組のポーランドでのレジデンス経験者以外は、京都市立芸大出身者でほぼ構成され、偏向性や閉鎖性を感じざるをえない。タイトルの「セレブレーション」という身も蓋もない言葉通り、「国交樹立100周年」という記念性を冠しただけの企画に感じた。

本展での収穫は、(ポーランドでのレジデンス経験者/京都市立芸大出身者のどちらにも該当しないのだが)小泉明郎の映像作品《私たちは未来の死者を弔う》だった。今年春の「シアターコモンズ'19」で発表された本作は、公募で参加した若者たちとのワークショップを経て、かつての米軍基地跡地で撮影された。

これまでの小泉作品は、「過去を再演する(再現的に反復する)」という演劇的アプローチにより、「戦争」という負債を清算できないまま抱え込んだ日本社会の下部構造をあぶり出してきた。特攻隊や出征兵士と「感動」のドラマの共犯関係。第二次大戦で子どもを殺害した日本兵の証言を、事故で記憶障害になった男性に暗誦させ、「加害の記憶喪失」を患う 日本を批判する《忘却の地にて》。反天皇制のデモとそれに対するヘイトスピーチの現場を映し出しながら、複数の「父と子」(キリスト、小泉自身とその父親、天皇と国民)及び「(自己)犠牲」のイメージを多重的に重ね合わせる《夢の儀礼─帝国は今日も歌う─》。そこでは、「演出」の介入や「フィクション」であることの暴露が、虚実曖昧な領域に観客を連れ出しつつ、「戦争」というトラウマの抑圧、虚構だからこそもたらされる心理的高揚、加害の記憶の健忘症、同調圧力といった病巣が浮き彫りにされる。

また、しばしばスクリーンの裏面にメイキングや暗喩的イメージが投影され、同期した映像が表/裏に投影されるという空間的二面性も小泉作品の特徴のひとつだが、《私たちは未来の死者を弔う》では、「逆再生」という時間の反転がキーとなる。パフォーマンスを記録した「通常再生」のパートでは、しのつく雨のなか、放射線の防護服を思わせる白いコートを着た者たちが、若者を一名ずつ、死体のように運んでくる。処刑される者のように、膝立ちで両腕を後ろに抑えられた若者は、「私、○○は、何か(家族、子ども、自由など)のために自分の命を投げ出します/何のためにも自分の命を投げ出しません」と宣言し、その理由を述べる。それは一語一句、他の者たちによって復唱され、銃声のような掛け声とともに、宣言した者は蘇生のような身振りを行なう。「見よ、未来の英雄が蘇った」という声が響く。



小泉明郎《私たちは未来の死者を弔う》
[©京都芸術センター 撮影:来田猛]

だが、この「宣言」と「蘇生」の儀式は、「逆再生」のパートにおいて、(解読不能な言語による)「断罪」と「集団処刑」に反転していく。逆再生によって、音声は不可解な外国語か呪詛のように響き、さらに復唱の順番が入れ替わることで、主体的な意志による宣言だったものは、匿名的な集団の声が処刑される者に強要する、罪状と自己批判の言葉のように見えてくるのだ。その「罪の宣告」が何であるかが見る者には把握不可能なことが、より不気味さを加速させる。そして、地面に横たわる「死体」の数は次第に増えていく。

「自己犠牲」をすすんで行なう者が「英雄」なのか、あるいは「自己犠牲」の否認が「英雄」たりえるのか。どちらであれ、主体的な意志を宣言した者が「蘇る」という「通常再生」のパートは、(「処刑」に反転したパートをかいくぐった後では)主体的な意志の発言がバッシングや社会的抹殺を受けて葬られてしまう現状への批判ともとれる。そこでは、権力体制によって、あるいは個人の輪郭が判別しがたい集団的な声によって一度葬られた「死者たち」が絞り出す言葉は、(再び)意味を持った言葉として再生され、私たちに届く。通常再生/逆再生のループを繰り返す操作により、蘇生/処刑、救済/抑圧の両極を行き来する本作は、極めて両義的だ。



会場風景 [撮影:著者]

だが真に不気味なのは、淡々と処刑を遂行する兵士/白い防護服に身を包んだ者たちの平静さではなく、時折カメラに映る、処刑/蘇生の儀式を遠巻きに囲んでただ傍観している者たちの存在ではないか。鏡の反映のように、自らの姿が不意に画面内に映し込まれたような、後味の悪さ。それは、彼らと同じく、光景を「ただ見ている」観客に対して、「見ること」が中立的立場ではないこと、「ニュートラルな視線」など存在しないことを突きつける。私たちは、処刑と忘却の遂行に、「黙認」という形で加担しているのか、それとも蘇生の奇跡の目撃者たりえるのか。

2019/05/25(土)(高嶋慈)

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荒木悠「LE SOUVENIR DU JAPON ニッポンノミヤゲ」

会期:2019/04/03~2019/06/23

資生堂ギャラリー[東京都]

作品は全部で10点ほど出ているが、メインは《The Last Ball》という映像。ピエール・ロティの紀行文「江戸の舞踏会」を下敷きにした芥川龍之介の短編小説『舞踏会』に基づくという。スクリーンは壁面と宙づりの2面あるが、宙づりのスクリーンは表裏に映されるので計3面になる。まず壁面を見ると、西洋人の男性(ロティ)と日本人の女性(明子)がワルツを踊っているように見えるが、よく見ると2人はお互いに追いかけながらiPhoneで相手を撮っているようだ。宙づりスクリーンの片面には女性を撮っている男性が、もう一面には男性を撮っている女性が、それぞれiPhoneをこちらに向けながら逃げ回るように映っている。見る(撮る)者が見られ(撮られ)、見られる(撮られる)者が見る(撮る)。これがロティ(および明子)の視線だとすれば、それを見る(撮る)第三者の視線は芥川の視線に重なるだろうか。非常に重層した構造をもった作品。

2019/05/10(金)(村田真)

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