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映像に関するレビュー/プレビュー
プレビュー:マーク・テ+YCAM共同企画展 呼吸する地図たち
会期:2018/12/15~2019/03/03
山口情報芸術センター[YCAM][山口県]
マレーシアを拠点とする演出家、リサーチャーのマーク・テを共同キュレーターに迎えた展覧会。マーク・テは、演劇作家、映画監督、アクティビストらが集うマレーシアのアーティスト・コレクティブ「ファイブ・アーツ・センター」のメンバーでもある。日本ではこれまで、TPAM──国際舞台芸術ミーティング in 横浜 2016とKYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMNで『Baling』を、シアターコモンズ ’18では『バージョン2020:マレーシアの未来完成図、第3章』を上演。レクチャー・パフォーマンスの形式でドキュメント資料や出演者自身の個人史を織り交ぜながら、マレーシアの近現代史を複眼的に検証する気鋭のアーティストだ。
本展では、東南アジアと日本のアーティストやリサーチャーが、各国の歴史、文化、政治、経済、日常生活などを独自の視点でリサーチし、自らの言葉で語りかけるレクチャーやレクチャー・パフォーマンス作品が、12週にわたって主に毎週末に開催される。以下、その一部を紹介する。
シンガポールのアーティスト、ホー・ルイアンは、TPAM 2016や「サンシャワー : 東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで」展で発表した《Solar: A Meltdown》が記憶に新しい。このレクチャー・パフォーマンスでは、アジアやアフリカなどに赴いた植民地主義時代の欧米人が、熱帯の太陽がもたらす「汗」を徹底して隠蔽したこと、その背後には「団扇で涼を送る」現地労働者と家庭の清潔さを保つ女性たちの労働があったことが指摘される。本展での上演作品《アジア・ザ・アンミラキュラス》では、1997年のアジア通貨危機を出発点に、ポップカルチャーにおけるアジア経済の未来主義の出現、発信、流通をたどるという。また、シンガポールの歴史学者のファリッシュ・ヌールは、200 年前の地図に焦点を当て、英領ジャワにおける植民地時代の地図製作の役割や地図と権力の関係を紐解く。ジャカルタを拠点とするイルワン・アーメット&ティタ・サリナは、東南アジアの海上交通の要衝、マラッカ海峡における国境の支配に対し、密輸、転覆工作、宣誓といった行為からヒントを得て、シンガポールの国境を通過するための8つの方法を提案する。一方、演出家の高山明は、国籍という概念を超えて暮らす海上生活者から着想し、移動性、越境、侵入、ハッキングなどの視点から参加者とリサーチを行なうワークショップ「海賊スタディ」を実施する。また、キュレーターの小原真史は、1903年に大阪で開かれた第五回内国勧業博覧会で「人間の展示」が行なわれた人類館と新たに発見された写真を中心に、近代日本の自己像と他者像について考察する。
シアターコモンズ ’18や来年開催されるシアターコモンズ ’19がレクチャー・パフォーマンスに焦点を当てているように、従来の舞台公演とは異なるこの形式も浸透しつつある。社会批評や表象分析、歴史研究といった硬派な主題のなかに、映像や身体性、アーティストならではの新鮮な視点や想像力の契機を持ち込むことで、見る観客の能動的な思考が促される。また、マーク・テ自身もそうだが、アーティスト、研究者、演出家、キュレーターといった職能的なカテゴリー区分を流動化させていく側面も持つだろう。
さらに本展では、これらに関連した映像インスタレーションやドキュメンテーションも上映される。カルロス・セルドランは、スペインとアメリカの統治、日本軍の占領、戦後政権の復興などさまざまな歴史的事象によって上書きされてきたマニラの史跡についてのパフォーマンス・ツアーの映像を上映する。ヴァンディ・ラッタナーは、カンボジアのクメール・ルージュ政権下で亡くなった姉に向けて語るヴィデオ・インスタレーション『独白』を上映する。やんツーは、自らがロードバイクで移動して集めた地形データからフォントを生成するソフトウェアを自作。VRを使った主観視点で、山口の地形からフォントが生成される過程を追体験できる作品を展示する。3がつ11にちをわすれないためにセンター(せんだいメディアテーク)は、市民、専門家、アーティスト、スタッフが協働し、復興のプロセスを独自に記録したアーカイブを活用した展覧会「記録と想起・イメージの家を歩く」より、小森はるか+瀬尾夏美、鈴尾啓太、藤井光の3つの映像作品を抜粋して展示する。
このように本展は極めて多様な切り口から構成されるが、植民地支配から現代に至るまで、金融、移民、翻訳などさまざまな交通と地政学的なポリティックスを再検証し、国境によって分断化・固定された静的な地図ではなく、多中心的で有機的、動的なネットワークとしての「地図」がどう構築されていくのか。毎週末、山口に通いたくなる充実したプログラムに期待がふくらむ。
関連レビュー
KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN マーク・テ『Baling(バリン)』|高嶋慈:artscapeレビュー
SPIELART マーク・テ『VERSION 2020 - THE COMPLETE FUTURES OF MALAYSIA CHAPTER 3』|山﨑健太:artscapeレビュー
シアターコモンズ ’18 マーク・テ/ファイブ・アーツ・センター「バージョン2020:マレーシアの未来完成図、第3章」|高嶋慈:artscapeレビュー
2018/10/30(火)(高嶋慈)
チームラボ ボーダレス
会期:2018/06/21から(終了日未定)
お台場パレットタウン[東京都]
いやーおったまげっす。なににおったまげたかって、まず広さ。お台場はヴィーナスフォートの奥の建物丸ごと1棟を会場にしている、というのは後でわかったことだが、そのうえ会場内は暗くて順路もマップもなく、あちこちに鏡が張り巡らされているため、迷路のようにどこまでも続いているように感じられる。行き当たりばったり歩いているうちに何度も同じ場所に出たりして、いったいどれくらい奥行きがあるのかつかみにくいのだ。
第2のおったまげは、そんなに広いのに広さを感じさせないほど多種多様な「出し物」が用意され、観客を飽きさせないこと。迷路をさまよいながら次々と新しい出し物に出くわすのだから、よくできていると感心せざるをえない。多種多様といっても大きく分けると2パターンあって、ひとつは動物や植物など自然をモチーフにしたCG映像のプロジェクション、もうひとつは「光の彫刻」や「ランプの森」など色の変化や明暗で表わした光の立体作品。どちらも手で触ると映像が変化したり、観客数によって色が変わったり、子供の描いた絵が作品に採り込まれたり、インタラクティブな仕掛けが施されている。
最初の動植物をモチーフにした映像を見ていてふと気がついた。これって日本画じゃん、花鳥風月の世界じゃん。動植物がなにか主張したり意味を持ったりするわけではなく、あくまで装飾として、平面として使われるだけなのだ。そういえば今春、加山又造の絵をCGで動かす「Re又造」展が開かれたとき、ぼくは「ちょっとやりすぎではないかと思ったが、よくも悪くもこれが展覧会の未来像なのだ」と書いた。その「展覧会の未来像」の延長上にこのデジタルアートミュージアムがあるのではないか。
そして第3のおったまげは、オープンから早4カ月も過ぎた平日の昼前に訪れたにもかかわらず、けっこう混んでいたこと。いやこれだけ楽しませてくれるんだから人が集まるのは当たり前でしょう。でも楽しませるといっても美術展のような知的刺激とは違い、どっちかといえばディズニーランドのように感覚を刺激する楽しさだ。その意味ではセンセーショナルな世界といえる。
2018/10/26(村田真)
1968年 激動の時代の芸術
会期:2018/09/19~2018/11/11
千葉市美術館[千葉県]
「1920年代」とか「1980年代」とかひとつのディケードをテーマにした展覧会はたまにあるが、それに比べて、ある特定の年に焦点を絞った展覧会は少ない。記憶にあるのは、目黒区美術館の「1953年ライトアップ」、東京都現代美術館の「よみがえる1964年」くらいか(両展とも1996年の開催)。展覧会というのは個展にしろテーマ展にしろ通史的に構成されるものが多いので、特定の年に絞ると時間的な推移が示せなくなるからだろう。一方で、地域性やジャンル間などの横との関係性が明確になり、時代性や社会背景を浮き彫りにしやすいメリットがある。ちょうど半世紀前の1968年が選ばれたのは、その年の美術を紹介したいというより、当時の美術を通して1968年という時代と社会を浮かび上がらせることが目的だったのではないかと思えてくる。
1968年というと、ノンポリのぼくでもパリの五月革命が思い浮かぶように、世界的な反体制運動の季節。日本でも全共闘などの学生運動やベ平連をはじめとする反戦運動などが盛り上がっていた。展覧会はそうした闘争を記録した東松照明や北井一夫らによる写真に始まり、橋本治による駒場祭のポスター、赤瀬川原平の『櫻画報』や「千円札裁判」の記録・資料、羽永光利による新宿風景やハプニングの写真、美共闘のガリ版刷りアジビラ、70年の万博および反万博の写真や資料、横尾忠則、粟津清らによる天井桟敷や状況劇場、暗黒舞踏の公演ポスター、つげ義春や林静一らの漫画、『プロヴォーク』の中平卓馬や森山大道によるブレ・ボケ写真、もの派や概念芸術の作品・資料まで、ざっと450点ほど。時代的には1968年を中心に、赤瀬川原平のいわゆる「千円札裁判」が始まる66年から、万博の開かれる70年まで幅をとっている。
よく半世紀も前のものをこれだけ集めたもんだと感心するが、お気づきのように記録写真や資料、ポスターや漫画などアーカイブやサブカルチャーものが大半を占め、いわゆる「美術作品」らしきものは少ない。もちろん写真も漫画もポスターも美術作品といえばいえるが、いずれも複製芸術であり、1点ものの絵画・彫刻となると、鶴岡政男の《ライフルマン》、山下菊二の《海を渡る捕虜服》、高松次郎ら「トリックス・アンド・ヴィジョン」の出品作、山口勝弘らによる環境芸術やインターメディア作品、李禹煥らのもの派の作品(再制作)など数えるほどしかない。まあ半世紀も前のことだし、当時はインスタレーションやパフォーマンスの先駆的作品が多く、作品自体がその場で消えて残っていないし、なにより「絵画」「彫刻」といった形式が風前の灯だったから仕方がないといえば仕方がない。その代わり勢いがあったのが、時代や社会を反映しやすい写真やポスターや漫画などのサブカルチャーだったというわけだ。見終わったときは美術展とは違い、資料の山にひととおり目を通したという快い疲労感が残った。
2018/09/18(村田真)
『カメラを止めるな!』
[全国]
話題になっている映画『カメラを止めるな!』をようやく鑑賞した。なるほど、低予算でも撮影できるジャンルはゾンビものだが、これもそのセオリーを正しく継承した傑作である。謎解きのストーリーではなく、ネタばれという類の作品ではないので、映画の構成を説明しておく。まず第一パートでは、C級と言ってもよいであろう下手なゾンビ映画を見せられる。その内容は、ゾンビ映画の撮影中に本物のゾンビが登場するというプロットだが、あきらかに不自然なシーンがところどころで発生し、なんとなく記憶に引っかかる。エンディングが流れたあと、第二パートが始まるのだが、それは第一パートのメイキングであり、不自然と思われたシーンが起きた原因が、じつは撮影現場のハプニングの連続であることが判明し、伏線がすべて回収され、笑いに転化してく。またカメラが上昇する俯瞰のショットだったエンディングは、ある種の感動的な場面として再定義される。
もっとも、この映画の最大のポイントは、「カメラを止めるな!」というタイトルが示すように、ゾンビ専門チャンネルのテレビで生中継されるワンカットの撮影であるという設定だ。それゆえ、現場で不具合が発生しても、絶対に撮影を中断できない。映画の映画である第一パートは、たとえ出来は悪くても、ワンカットゆえの独特の緊張感が持続する一方で、さらにメタ視点に立つ映画の映画の映画である第二パートでは、それがドタバタのコメディになっていく。何が起きてもカメラが執拗に追いかけること、そして全員の努力と協力によって作品を終了させることを通じて、映画的なカタルシスが醸成される。もとは舞台用の作品を翻案したという話だが、少なくとも「カメラを止めるな!」は映画というジャンルの本質に迫る面白さをもっている。なお、映画が終わったあと、エンドロールでは、第三パートというべき「本当の」メイキングが流れるのも楽しい。第二パートが偽のメイキングであり、もう一度、シーンの背景を異なる視点から再解釈できるからだ。
2018/09/15(土)(五十嵐太郎)
メディアアートの輪廻転生
会期:2018/07/21~2018/10/28
山口情報芸術センター[YCAM][山口県]
開館15周年を迎えた山口情報芸術センター[YCAM]。アートユニット、エキソニモとの共同企画展として、メディアアートの保存や継承について考える本展が開催された。コンピュータや映像機材などを使用するメディアアート作品は、物理的なハードの故障や、OSのアップデートなど技術環境の変化によって動かせなくなることも多く、保存修復や継続的な展示の難しさが近年の美術館の大きな課題となっている。本展では、YCAMと関わりのある作家100名以上に対し、「作品の死や寿命」と「作品の未来」についてアンケートを投げかけ、寄せられた回答を記したバナーを会場に吊り下げた。また、会場中央には、古墳を思わせる小山型をした「メディアアートの墓」を設置。その暗い内部には、作家自身が「死を迎えた」と考える作品の「亡骸」が、ガラスの棺に収めるように展示ケース内に陳列されている。観客は、オーディオガイドから流れる合成音声による説明を聴きながら、計10個の「作品の亡骸」と向かい合う(オーディオガイドの再生機器は、iPhoneやiPadに加え、ラジカセやポータブル音楽プレーヤーなど新旧のメディアから自由に選ぶことができ、「メディアの変遷自体も鑑賞経験を通して実感できる」というメタな仕掛けになっている)。
「メディアアート作品の死や寿命」というと、ハードの故障や動作環境の更新を考えがちだが、そうした技術的要因に偏らず、バラエティに富むのが「出品作品」の大きな特徴だ。物理的・技術的要因に始まり、ネット環境や(情報)プライバシーに対する意識の変化、企業の意向、体験の一回性の重視、そして非物質的なコンセプトに至るまで、さまざまな「死」の要因が提示されている。例えば、ナムジュン・パイクの《ビデオシャンデリア No.1》(1989)に使用されていたモニター3台は、「故障」により取り外されたものだ。これは作品の構成要素の交換可能性の例だが、一方、パイク直筆のサインが施された別のモニターは、「交換可能な工業製品に唯一性のアウラが宿る」という矛盾を体現する。また、ネット黎明期に制作された江渡浩一郎の《WebHopper》(インターネット1996ワールドエキスポジションの日本ゾーンのテーマ館「sensorium」にて発表)は、ユーザーがアクセスするウェブサーバーの位置情報を可視化し、ウェブがまさに全世界的な通信網であることを示すものだ。だが、情報セキュリティに対する意識の変化によって展示不可能になったと判断され、「取り外されたハードディスク」が「亡骸」として展示された。一方、企業の技術的協力に依ることも多いメディアアート作品が企業側の意向により発表できなくなった例として、岩井俊雄の《サウンドファンタジー》(1994)がある。これは、ユーザーが画面上に描いた絵がサウンドに変換されるというスーパーファミコン用の音楽ゲームソフトだが、発売直前に中止となった。ケース内には、この幻のゲームソフトがパッケージやトリセツとともに収められた。また、エキソニモの《ゴット・イズ・デット》(2011)は、同名の語句が展覧会タイトルのように記されたポスターの作品である。実は日付に仕掛けがあり、開幕日が「翌日の日付」になったポスターが、毎日貼り替えられていた。「常に明日から始まる展覧会/永遠に始まらない展覧会」を想像することがこの作品の眼目だが、再展示した場合、「翌日」だった日付は「過去のある日付」を指し示し、「実在しない展覧会への想像」は「過去に実在した展覧会の証左」にすり替わってしまう。「コンセプトそのものの破綻」が本作の「死」の要因だ。
本展のポイントは、作品に「死」の宣告を下す判断を、生み出した作家自身に委ねている点だ。ここには賛否両側面が伴うだろう。作家の自作品に対する考え方が明確になるメリットがある一方で、実際の現場で「死の宣告/延命」の判断を下す主体は、キュレーターやコンサバターなど第三者であることが多いからだ。伝統的な絵画や彫刻は物理的な支持体や素材から成る以上、劣化や破損を免れえないが、美術館はその「生」を仮死状態に凍結させ、可能な限り「延命」を施して永続的な保存を目指してきた。だが、その「可能な限り未来へ引き延ばされた生」の背後に「死」が常に潜むことは、非永続的な素材を使用した現代美術作品やメディアアートによって加速的に示されてきている。
また、本展に対するもうひとつの疑問として、「輪廻転生」というタイトルと実際の展示内容とのズレや齟齬がある。作家自身の声に委ねているからこそ、(飛躍や再解釈、アップデートをも含んだ)「転生」のあり方の可能性を提示してほしかった。「保存修復」は後世の介入を最小限にとどめ、出来る限りオリジナルの状態を保持するという原則に依るが、作家自身が考える「作品のコア」をどう抽出し、どう現在の技術的条件でアップデートさせられるか。実験的な取り組みへのチャレンジを今後期待したい。
展覧会公式サイト:https://rema.ycam.jp/
2018/09/02(日)(高嶋慈)