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KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2022 総評
会期:2022/10/01~2022/10/23
ロームシアター京都、京都芸術センター、京都芸術劇場 春秋座、THEATRE E9 KYOTO、京都市京セラ美術館、京都中央信用金庫 旧厚生センターほか[京都府]
コロナ禍で制限されていた海外アーティスト招聘が2年ぶりに実現し、充実のプログラムだったKYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭(以下KEX)。本稿では、「ニューてくてく」という柔軟かつ深い思考の広がりを促すキーワードの下、全体的な総評を述べる(なお、梅田哲也『リバーウォーク』、フロレンティナ・ホルツィンガー『TANZ』、松本奈々子、西本健吾/チーム・チープロ『女人四股ダンス』、ジャールナン・パンタチャート『ハロー・ミンガラバー・グッドバイ』については個別の評を参照されたい)。
「歩き続ける身体」のイメージを「境界」との接触面として提示するのが、ミーシャ・ラインカウフの映像展示と、メルツバウ、バラージ・パンディ、リシャール・ピナス with 志賀理江子のビジュアルコンサート『Bipolar』。ミーシャ・ラインカウフの《Fiction of a Non-Entry(入国禁止のフィクション)》は、光のゆらめく海底をゆっくりと歩む人影が映る、幻想的で美しい映像作品だ。ラインカウフは、イスラエルとヨルダン、ジブラルタル海峡のスペインの飛び地とモロッコの間など、陸路では越境困難な国境を、「海中を歩く」ことで自由に横断してみせる。だが、酸素ボンベの重みや水圧に耐えながら歩む姿は、逆説的に、見えない圧力や不自由さを感じさせる。フーコーが指摘するように、規範や抑圧を個人が内面化し、不可視化されることで権力は完成する。そのとき、「歩行」という日常的かつシンプルな行為は、意志表明や抵抗の手段としての行進やデモを示唆すると同時に、水中に吐き出される息の泡は、「聴こえない声」を可視化する。
『Bipolar』では、メルツバウ、バラージ・パンディ、リシャール・ピナスによる(事前に耳栓が配られるほどの)爆音の演奏のなか、巨大スクリーンに志賀理江子の新作映像が投影される。闇に浮かぶコンクリートの「一本道」を、ひたすら歩き続ける人物が映る。それは東日本大震災後に建設された巨大な防潮堤だが、津波の轟音にも、人の叫び声にも聴こえる有機的な音を「振動」として身体に浴び続けているうち、生と死の境界線や異界への通路にも見えてくる。フラッシュバックの嵐のように、視認不可能なほどのスピードで、不穏な写真が連射される。崖の上で何かを掘り返す人。回転して螺旋を描く掘削機械。「復興事業」という名の利潤追求か、何かを隠蔽するための穴を掘っているのか。光で顔を消されたポートレート。被写体を強制的に「死者」「亡霊」に転移させる写真の暴力性。上演時間をカウントする赤い数字が滲み、時間が融解していく。ジェット機のエンジンの轟音のようなノイズが「もうすぐ離陸するぞ」と叫び、防潮堤を異界への滑走路へと変える。寄せては返し、マグマのように沸き立つ赤い波の映像が冒頭と終盤で繰り返され、音のループや反復とともに、トラウマの回帰や非線的に失調した時間を示す。その奔流をせき止めようとする防潮堤は、死者や異界との境界であると同時に、「一直線の道を歩く」行為は(音楽がもつ)リニアな時間構造や「前進」を示唆し、極めて多義的だ。
一方、物理的な歩行や「電話の向こうの知らない誰かと通話する」といった観客自身の能動性を作品成立要件とする体験型の作品群(梅田哲也、ティノ・セーガル、サマラ・ハーシュ)も、今年のKEXの特徴だった。特に、「歩行による移動が視線の定位を揺さぶり、新たな視点の獲得をもたらす」ことを体感させるのが、森千裕と金氏徹平によるアートユニット「CMTK」の屋外展示だ。森が都市の断片を収集した写真を金氏がコラージュし、大型のレンチキュラー印刷で出力。見る角度でイメージが移ろい、視点の唯一性を軽やかに撹拌する。
また、歩行を伴う身体的なリサーチに基づく語りと舞台上でのモノの配置換えにより、観客に想像上の旅をさせるのが、リサーチプログラム「Kansai Studies」の成果として上演された、建築家ユニットdot architects & 和田ながらの『うみからよどみ、おうみへバック往来』。大阪湾から何本もの川を逆流して琵琶湖へいたる水の旅、明治の近代化事業である疎水運河、治水工事による人工河川など「琵琶湖を起点とする水のネットワーク」が、木材、石、鉄板、流木、飲料水のペットボトルなどの配置を組み替えながら語られ、観客が想像上の「マップ」とともに旅する感覚を触発すると同時に、実際に舞台上で工具を用いて「土木工事」を演じて見せた。
一方、より政治的な位相で、客席にいながらにして「視線の定位」を揺さぶられる体験が、ジャールナン・パンタチャート『ハロー・ミンガラバー・グッドバイ』だった。開演前、「観光客」として舞台上に歓待された観客は、「神格化された絶対的権威」として舞台空間に氾濫する演出家の顔写真/タイの王室プロパガンダ批判を経て、終盤、タイとミャンマーの俳優たち自身が舞台上で語られる軍事クーデター反対デモの当事者であることを知る。そのとき突きつけられるのは、「日本人観光客」と同質の消費の眼差しを舞台に向けているのではないかという倫理的な問いだ。
ほかの海外の演劇作品も充実だった。フォースド・エンタテインメント『リアル・マジック』では、3人の俳優が、司会、出題者、解答者の役を順番に入れ替えながら、「テレビのクイズ番組」のワンシーンを延々と反復し続ける。「正解は明らかなのに、(あえて)間違った答えを言い続ける」不条理なループ構造。くどい「笑い声」のSEの効果もあいまって、「クイズ番組の視聴者=舞台の観客」のメタ的な二重性のうちに、「何が“正解”なのか麻痺した異常状態の常態化」がじわじわと浸透してくる。しかも果てしなく連呼されるのは、「消費」「資本主義」「セクシズム」を端的に示す3つの単語だ。
そして、アーザーデ・シャーミーリーの静かな会話劇『Voicelessness ─声なき声』が扱うのは、「死者の声(抑圧された者の声)を聴くこと」の可能性と倫理性だ。「2070年のイラン」という近未来の設定下、主人公の若い女性は、50年前の祖父の失踪事件の真相を突き止めるため、自作の装置を用いて昏睡状態の母と会話する。物理的な死者と、昏睡状態すなわち「声を封じられた者」。だが、「こだま」の反響が身体を離れても存在可能な声であるように、彼らの「遅れて届いた声」は受信可能なのではないか。「声の復元」の試みは同時に、「隠された過去を暴く」という倫理的問題との両義性を帯びる。また、「病前の母親の姿をデータ再生した映像」は、紗幕のスクリーンの向こう側に立つ生身の俳優によって亡霊的に演じられる。娘と母を隔てるスクリーンは、母娘の確執、生者と死者の隔たりを可視化すると同時に、現実の反映/遮蔽して見えづらくする装置でもあり、両義的だ。「SF」の設定だが、「科学的」説明もそれらしきギミックも登場しない本作は、「演劇」自体が、「語る」装置であること以上に、「他者の声を聴く」ためのものでもあることを示唆する。そして、死者、抑圧・忘却された者、未だ生まれざる胎児など「聴こえない声」の可視化への希求という点で本作は、海中を歩くラインカウフの映像と歩みを共にするのだ。
公式サイト:https://kyoto-ex.jp
2022/10/23(日)(高嶋慈)
まぼろし博覧会
まぼろし博覧会[静岡県]
池田20世紀美術館に行こうとしたらバスの待ち時間が長かったので、たまたま駅の案内所でパンフレットを見つけた「まぼろし博覧会」とやらへ、先に行ってみることに。パンフには「ニューカルチャーの聖地」としておびただしい量の画像が満載され、好奇心を刺激してやまない。ここはどうやら出版社のデータハウスの社長が館長を務めるB級スポットとして知られているらしく、館長自身も「セーラちゃん」として時折コスプレして登場するそうだ。ぼくは幸か不幸か出会わなかったが。
まず、規模がハンパではない。「敷地面積は甲子園球場や東京ドームと同じ広さ」で、かつて熱帯植物園だった土地を買い取ったそうだ。巨大な温室を改造した「大仏殿」に始まり、斜面に沿って「昭和の町を通り抜け」「まぼろし神社」「ほろ酔い横丁」「まぼろし島」「メルヘンランド」などの小屋が並んでいる。広さだけでなく、展示品数もまたおびただしいことこのうえない。大仏殿には巨大な聖徳太子像をはじめ、巨石人頭像や古代エジプトの神像、仁王像のレプリカ、藝大生が藝祭のためにつくった牛頭馬頭御輿、人魚のミイラなど支離滅裂な品ぞろえ。
続く小屋にも各地の秘宝館やテーマパークから払い下げられたような怪しげな人形、シロクマやカンガルーなど動物の剥製、人体標本、ピンク映画のポスター、全学連の立て看やヘルメット、昭和歌謡のレコード、ストリップ劇場の看板、ミゼットやスクーター、コスプレ衣装、戦争画の複製画まで展示されている。いや展示されているというより、寄せ集められているというべきか。いちおう大まかに分類されてはいるけれど、ジャンルの境界が曖昧であっちこっち浸食し合い、全体で昭和の残骸の吹きだまりといった趣だ。この過剰感、カオス感がたまらない。
それにしても、これでは管理するのが大変だろうと思うが、あまり管理されている形跡はなく、小屋も展示品もホコリを被り、汚れ放題でカビ臭い。また扇風機はあるがエアコンなどはなく、もともと熱帯植物園の温室だったので蒸し暑く、展示品にとっては(観客にとっても)最悪の環境だ。もともと大して価値のないものばかりだから朽ちるに任せるのもひとつの考えだが、ある人たちにとってはとてつもないお宝だし、また10年後50年後にはとんでもなく価値の上がりそうな物件もあってあなどれない。昨日訪れた江之浦測候所とは対極をなすアナザーワールド。
2022/07/11(月)(村田真)
アビシニア高原、1936年のあなたへ─イタリア軍古写真との遭遇─
会期:2022/07/07~2022/08/09
PURPLE[京都府]
映像人類学者の川瀬慈が知人を介して偶然譲り受けたイタリア軍古写真を、自身のエッセイとともに展示する企画。古写真は、イタリアによるエチオピア帝国侵略時代(1935–1941)にイタリア軍の兵士が撮影したと思われるものを中心に、200枚余りに及ぶ。撮影されたエチオピア北部と近隣エリア(現在のエリトリア)は、川瀬が長年フィールドワークを行なってきた土地である。トランプ大の古写真が展示台に並べられ、そのうち6点がパネルに引き伸ばされ、川瀬の言葉を添えて展示された。
これらは、イタリアの蚤の市で、ただ同然の値段で売られていたものだという。所有者の手を離れ、出自も撮影者も不明だが、被写体の性格や撮影手法の点でいくつかのまとまりが見えてくる。イタリア軍の活動には、戦車や行軍、兵士たちの日常生活のスナップに加え、凄惨な死体や兵士の墓もある。一方、典型的な植民地写真の群れは、侵略した土地とその住民や動物を「イメージ」として二重に所有しようとする欲望を表わす。現地住民を従えた記念撮影。裸の上半身に首飾りを何重にも巻いて着飾った少女たち。ワニやダチョウなどの野生動物。古代遺跡や雄大な風景。イタリア兵はカメラを意識せずラフに写るのに対し、現地住民は正面向きや直立不動の姿勢であり、眼差しの前に物体化した身体を晒している。
本展のポイントは、さまざまな被写体に「あなた」と呼びかける川瀬の言葉にある。「あなた(タバコの火を分け合うイタリア兵たち)」は、加害者であり、帝国の野望の犠牲となった被害者でもあった。「あなた(戦車の隊列)」は、19世紀後半に「文明国」がエチオピアに敗けた屈辱を晴らすため、近代兵器の強大な力を示しながら再びこの地にやってきた。王侯貴族のお抱え楽師/道化/庶民の代弁者/社会批評家とさまざまな顔を持つ「あなた(吟遊詩人)」は侵略者を賛辞する歌を歌ったが、抵抗を歌って処刑された者もいた。「あなた(巨大なムッソリーニの彫像)」は、かつてイタリア軍が敗れた街に征服の証として建てられ、兵士たちは「あなた」の前に現地住民を「陳列」して記念撮影した。「あなた」の帽子のかぶり方は、侵略者側に付いた現地住民の傭兵であることを示す。住民の憩いの場であり、争いごとを木の下で話し合って調停する場でもある「あなた(イチジクの巨木)」は、人間の叡智も繰り返される愚かさも見守ってきた。
川瀬はまた、「イメージはこうやって、おのずからひょっこり私たちのまえに現れるので、おもしろくもあり、やっかいでもある」と書きつける。これは、2度目の「遭遇」である。1度目は、異民族の前に侵略者・征服者として相対し、イメージとして他者を所有しようとする眼差し。そして、そうした欲望の眼差しが焼き付いた写真を、時間的・空間的距離を隔てて再び見つめる眼差し。この2度目の「遭遇」のもとで、第一次エチオピア戦争での敗北(1896)からエチオピア併合(1936)の40年に及ぶイタリア史というナラティブの流れが発生する。写真は常に、遅れてきた眼差しの下でナラティブを生み出す。写真とは、眼差しを何度でも受け止める物質的な層である。それは、イメージとして印画紙の上に固定されつつ、決して固定された時間を生きてはいないのだ。
また、現地住民もイタリア兵も巨大な彫像も古木も「あなた」と等しく呼びかける川瀬の語りは、さまざまな示唆を含む。どんなものでも代入可能な「あなた」は、固有名が失われ、回復不可能な忘却という空白を示す。同時に、いま私とともに私の目の前にある「あなた」という存在を承認し、唯一の固有性を回復しようとする呼びかけは、弔いにも似た行為である。
客観性を装った通常の「歴史資料の解説文」であれば、「私」「あなた」といった人称を欠き、「私とあなた」という親密な関係性も想像的な対話もない。そうした形式をあえて逸脱した川瀬の語りは、再び「征服者」「所有者」としてイメージを奪取するのではなく、被害者として一方的に糾弾する(立場を偽装する)のでもない、「あなた」として向き合う倫理的な態度を示していた。
2022/07/07(木)(高嶋慈)
景聴園ラジオ 第1回『何故絵を描いているのか?』
会期:2022/06/05〜
チャンチャチャチャーンチャチャ……穏やかなギターの音で始まる「景聴園ラジオ」は「日本画」の勉強会と鑑賞の手引きを行なうポッドキャストだ。
「景聴園」は2012年に発足した日本画のグループ。メンバーは、作家である上坂秀明、合田徹郎、服部しほり、松平莉奈、三橋卓、企画の乃村拓郎、そしてアーカイブとテキストの古田理子。1980年代から90年代生まれの彼らは、京都市立芸術大学での結成当時から、合作を行なうタイプのグループではなく、グループ展を幾度となく開催してきた。かなり雑な言い方で恐縮だが、私から見た「景聴園」は、具象日本画の再考を軸としたグループだ。彼らの企画展に行くと、「日本画」が「物語」を描くとしたら、何を扱うべきか、どう描くべきかが5人ともまったく違うということにいつも驚かされる。でも、私は「日本画」に詳しくないので、そこで思考も眼も立ち止まってしまっていた。そんなときにこのポッドキャスト、渡りに船である。
第1回の冒頭では、「横山大観についての話をしよう」と前振りが来て身構えていたが、初回ということで、まずは「なぜ絵を描いているのか?」という問いからスタートした。「好きだから」という言葉を景聴園はいくつも切り分けていく。どの瞬間によろこびを感じるのか、絵を通して自分の認識が他者にとってどうなのかがわかるよろこび、生きていく手立てとしての絵、絵を描くときの「手癖」をよろこびと捉えるか否か。そこに研究はどう関連するか。
松平が途中で指摘した通り、景聴園の話はすべてが日本画についてのものなのだが、彼らが立ち返るときのエピソードは人間が人間として生きている限りにおいて、誰もが「何か」を「日本画」に代入することが可能という、不思議な体験であった。同時代としての日本画に向き合う彼らだからこそのなせる技だ、と唸ったり笑ったりのポッドキャスト。景聴園の結成10周年特別企画は耳も眼も離せない。
景聴園ラジオ(Anchor):https://anchor.fm/keichoen/
2022/06/05(日)(きりとりめでる)
沖縄復帰50年記念 特別展「琉球」
会期:2022/05/03~2022/06/26
東京国立博物館 平成館[東京都]
今年は沖縄県が復帰50年を迎える節目の年である。本展はそれを記念した展覧会なのだが、「琉球」というタイトルのとおり、スポットを当てているのはそのルーツである「琉球王国」だ。琉球王国について詳しく知っている人はどのくらいいるだろうか。正直、私はほとんど何も知らなかったということを本展で知らされた。琉球王国は1429年から1879年まで存在した。日本では室町時代から江戸時代までにあたる。
本展の第1章で《東インド諸島とその周辺の地図(『世界の舞台』)》という16世紀の地図が展示されていたのだが(※5月29日に展示終了)、それを見て愕然とした。当時、世界の目から見ると、日本よりも琉球王国の方が存在感が大きかったことを示していたからだ。なぜなら琉球王国は中国をはじめ、日本、朝鮮半島、東南アジア諸国との貿易によって発展した海洋王国だったためだ。まさにアジアの架け橋として外交に長けていた一方、国内では高度な手業による種々さまざまな工芸品が発達した。絵画、木彫、石彫、漆芸、染織、陶芸、金工などがあるなか、私がもっとも目を奪われたのは漆芸だ。螺鈿や沈金、箔絵などで細やかに加飾された豪華絢爛な箱や盆、卓などが展示されており、かつての華やかなりし王家の暮らしを彷彿とさせた。当時、中国から最先端の工芸品類を輸入していた背景もあり、相当、目が肥えていたのだろう。王国内で豊かな文化が醸成されていたことを伝えていた。
そんな琉球王国の象徴とも言える首里城の再建や文化遺産の復元作品で本展は締められていたが、観覧後、なんだか夢から覚めたような気分になる。日本の明治政府によって琉球王国が沖縄県になってからというもの、ずっと困難や苦難の連続だったのではないか。我々はむしろ、そちらの現実の方を知っているからだ。琉球王国にかつて存在した高度な手業はいったいどこに消えたのか。日本はその貴重な文化や産業の多くを彼らから奪ってしまったことをもっと知るべきである。そんな複雑な思いに駆られた展覧会だった。
公式サイト:https://tsumugu.yomiuri.co.jp/ryukyu2022/
2022/05/28(土)(杉江あこ)