artscapeレビュー

その他のジャンルに関するレビュー/プレビュー

ニューヨークの新しい観光名所

[米国、ニューヨーク]

およそ三年半ぶりのニューヨーク訪問だったので、新しい観光名所を訪れた。まずはハドソン・ヤードの再開発のエリアである。ここでトーマス・ヘザウィックによる《ヴェッセル》と、ディラー・スコフィディオ+レンフロによる《ザ・シェッド》が並ぶ風景は、まるで怪獣対決だ。前者は階段のお化けのような構築物である。ちなみに、まわりのビルよりも低いために、展望台として機能するわけではない。ただ登って降りるだけである。ある意味では無目的な施設だ。にもかかわらず、希有な空間体験そのものが目的になっており、朝から多くの観光客が集まっている。一方、後者は移動する空気膜の覆いであり、どことなくモスラのような相貌だ。



トーマス・ヘザウィック《ヴェッセル》



ディラー・スコフィディオ+レンフロ《ザ・シェッド》


ちなみに、やはりディラー・スコフィディオ+レンフロの設計によって、高架の線路を空中の遊歩道に改造したハイラインも、ハドソン・ヤードまで伸長し、隣接してザハ・ハディドによるマンションが登場している。すなわち、ニューヨークでは、独創的な建築を加えることで、都市に新しい魅力を次々に重ねている。



ディラー・スコフィディオ+レンフロの設計によるハイライン




ザハ・ハディドによるマンション


9.11の跡地における超高層ビルの開発やメモリアルは、すでにほとんど整備されたが、ひときわ目立つのは、ワールド・トレード・センター駅のオキュラス《オキュラス》だろう。ビル群はそこまでアイコン的なデザインではないし、基本的にメモリアルの空間は地下に展開しているのに対し、サンティアゴ・カラトラヴァによる有機体のようなデザインは、先端が尖った無数の骨状の構築物になっているからだ。これも怪獣になぞらえるならば、針に覆われた甲羅をもつアンギラスというべきか。また、大屋根の下に広がる内部空間は、商業施設だが、宗教的な崇高さすら獲得している。これらの新名所が誕生した同時期、東京がつまらなくなった理由を考えさせられた。それはニューヨークがこの街にしかできないプロジェクトを遂行しているのに対し、東京は東京にしかできないことに挑戦していないからではないか。そして日本の地方都市は、おきまりの商業施設を並べる「東京」の真似をしない方がいい。だが、いまの東京は「東京」を真似している大きい地方都市のようだ。



サンティアゴ・カラトラヴァ《オキュラス》



サンティアゴ・カラトラヴァ《オキュラス》

2020/01/16(木)(五十嵐太郎)

ミイラ ~「永遠の命」を求めて

会期:2019/11/02~2020/02/24

国立科学博物館[東京都]

幼少のころ、母に連れられて何度か科学博物館に来たことがある。もう半世紀以上も前のことだ。動物の標本を見るのは好きだったが、ひとつだけ怖いものがあった。最後のほうに展示されていたミイラや干し首だ。初めて見た晩、怖くて眠れなかった記憶がある。以後、そこだけは極力見ないように足早に通り過ぎるのだが、恐いもの見たさでついチラ見してしまうのだった。その科学博物館で「ミイラ展」をやるというのだから、見ないわけにはいかないでしょう。もう怖くないもん。

ミイラといえば古代エジプトのものが有名だが、気候風土に関係なく世界中にあるそうだ。人間、考えることはみな同じというか、死に対する考え方は人類共通であるらしい。展示は地域別に、南北アメリカ、古代エジプト、ヨーロッパ、オセアニアと東アジアの4章に分かれている。地域によって乾燥させる方法や包んでいるものは違っても、ミイラそのものはどれも茶色く物体化しているため大して変わらない。ちょっと怖いのは日本のミイラだ。ほかの地域のミイラは数百〜数千年たっているのに、日本のは比較的新しい江戸時代のもの。特に「本草学者のミイラ」は1832年ごろ製造(?)というから、まだ200年もたっていない。髪の毛や眉毛も残っているし、肌のツヤもフレッシュ。これはちょっと……。

最後に「国立科学博物館で過去に展示されたミイラ」として、「メキシコのミイラ」および「南米ヒバロ族の干し首」というのがあった。これこれ、ぼくが昔見たのは。

2019/11/01(金)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00051109.json s 10158861

広島平和記念資料館の展示リニューアル

広島平和記念資料館[広島県]

展示のリニューアルを終えた広島平和記念資料館を訪れた。以前に比べて、全体として展示のデザインは洗練されたと言えるだろう。広島の爆心地周辺の模型がある円形の台に対し、上から映像をプロジェクトする東館の展示は、すでに先行して公開され、DSAの日本空間デザイン大賞2017を受賞している。もっとも、同館の上空に吊るされた赤い球体で爆発を示した廃墟のジオラマや、リトルボーイの模型がなくなったのは寂しい。プリミティヴな展示だが、映像よりも空間やスケール感を伝える力があったのではないか。



円盤へのプロジェクション


リニューアル前の爆心地模型

さて、リニューアル後の本館は初めてである。筆者はかねてより被爆者の描いた絵が与える想像力が重要だと考えていたが、新しい展示では導入部のおどろおどろしい被曝再現人形が消え、代わりに暗い部屋で絵が大量に使われ(基本的に絵は複製)、スポットを当てたのはよかったと思う。ただし、絵と写真を同一面で混ぜて並べた展示にはやや違和感をもった。記憶にもとづき、だいぶ後になってから被爆者が描いた絵と、当時プロのカメラマンが撮影した写真では、メディアの性格が全然違うからだ。またリニューアル後の展示では、写真、衣服、遺品を用いて、子供の犠牲者の紹介が増えている。来場者に対し、悲しみの感情移入をうながしやすいだろう。そして日本人以外の被曝者にも触れている。総じて言えば、被害を受けた側の視点に立つ展示の性格がより強くなった。しかし、「なぜ、このような事態を招いたのか?」という説明がない。これでは自然災害と同じである。



被曝再現人形がなくなった導入部


被爆者の絵と写真


子供の犠牲者

以前から重要だと思っていたのが、展示を見終わった後、公園を望む通路を歩くことになるが、ここに架けられた原爆投下前の地図である。ここが昔は繁華街の中島町だったことを示しており、敗戦後に公園になったことを伝えるからだ。リニューアル前はひっそりと地図があり、気づかない人が多かった記憶があるが、今ははっきりとわかるように、キャプションもついている。また公園内では、昔の住宅など、被爆遺構の発掘を開始した。今後、その公開も予定されているという。


中島地区の地図



近年の発掘成果を紹介するパネル

2019/08/24(土)(五十嵐太郎)

梅田哲也『Composite』

会期:2019/08/12

神戸アートビレッジセンター KAVCホール[兵庫県]

「声と身体が立てる音」という最小限の要素で構成され、ルールの設定と即興、中心性の欠如、プログラムとエラーの介在、ミニマルな要素の反復とズレがもたらす多様性の生成、伝染や共鳴の現象といった問題群を提示しつつ、「個人と集団」「集団と集団」の調和とせめぎ合い、さらに「集団の崩壊と包摂/同調の浸透」へ。ワークショップに基づくパフォーマンスの実験性に社会構造への批判的視線を内在させた、恐るべき強度を持つのが梅田哲也の『Composite』である。2014年にフィリピン山岳地帯の村の子どもたちと制作され、日本ではKYOTO EXPERIMENT 2016 SPRINGでの発表以来の再演となる。今回の神戸公演では、小・中・高校生と教育に関わる大人を対象にしたワークショップを開催し、作品がつくり上げられた。

本作の構造は明快だ。輪をつくった6名の男女のグループAによる合唱(規範的な集団の発生)、子どもを含むもうひとつのグループBによる同様の合唱(相似的な別集団の形成)、そして異なる単旋律を唱える第三勢力Cの登場を経て、Cが有する「伝染」作用による集団の崩壊と全体的な包摂へと展開する。初めに登場したグループAは、円陣を組み、「アレアレウッ」という掛け声と足踏み、肩や腕を叩く音で一定のリズムを反復する。向かい合った2人ごとに微妙に異なるリズムが設定され、「掛け声、足踏み、身体部位を叩く音」という構成要素の共通性とそのパターンの違いにより、ミニマルな要素から複雑な合唱を立ち上げていく。リズムが途切れると輪が回転し、「前任者の担当パターン」が引き継がれていくようだ。目をぎゅっとつぶったパフォーマーたちは、互いの立てるリズムに妨害されずに自分に課せられたルールを遂行しようと、集中力を保つのに懸命だ。「手を繋いだ輪」が示唆する共同体とその閉鎖性、個人の声と集団の声のせめぎ合い、調和と不調和、「位置の交替」による役割の引継ぎなど、音響の生成を通した社会集団の抽象化が提示される。



最終リハーサルの様子 [写真提供:神戸アートビレッジセンター]


遅れて登場した相似的な別集団Bも、同様のリズムの生成に従事する。だが、AとBは完全に同期しないため、集団内の調和と不調和は、集団対集団のそれへと拡大される。そして、A・Bとは異なる単調な旋律を歌う第三勢力Cが、客席から一人、また一人と登場する。このCは「位置移動」と「接触による伝染」という能力を持っており、CとぶつかったA・Bの構成員はC化し、帰属していた集団を離れてバラバラの方向に歩き出し、移動先でさらに伝染を拡大させていく。そして暗転。集団の崩壊と、次第に大きくなる「ひとつの単旋律」への吸収が、暗闇のなか、音響の強度のみで想像され、震撼させる。その想像力の宛先は、極めて両義的だ。「他者」との接触によって閉じた共同体が解体され、解放された個人が他者への「共感」を通して、全員が包摂されるユートピアが広がっていくのか。それとも逆に、その過程は、次第に膨れ上がり大きくなる「単一の声」の伝染力に抗えず、個人の声が帰属を失って同化吸収され、「異なる小さな声」を排除していく全体主義的な過程なのか。



最終リハーサルの様子 [写真提供:神戸アートビレッジセンター]


『Composite』は、専門化されたダンサーやパフォーマーではなく、子どもや一般の人々とつくり上げるワークショップにより、「私たちの生きる社会構造がどう形成され、どこへ向かうのか」を美しくも不穏さを湛えた合唱作品として予見的にあぶり出す。民主的なプロセスによって社会形成そのものを問う、透徹した思考に支えられた作品だ。公演終了後は、梅田と出演者による振り返りのミーティングが行なわれていたが、一般非公開だったことが惜しまれる。参加者、特に子どもたちは、あの場で直感的に何を経験していただろうか。梅田がワークショップ対象者に子どもたちを含めていたことに、本作に込められた希望を見出したい。

関連レビュー

KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRING ショーケース「Forecast」国枝かつらプログラム|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年04月15日号)

2019/08/12(月)(高嶋慈)

あいちトリエンナーレ2019 情の時代(初日)

会期:2019/08/01~2019/10/14

愛知県芸術文化センター+四間道・円頓寺+名古屋市美術館ほか[愛知県][愛知県]

今回、名古屋で泊まったホテルは、エレベータが止まるたびに、各フロアで派手なコスプレをした外国人が次々と入ってきた。彼らはロビーで集合し、バスに乗って出発していたが、愛知芸術文化センターや隣接するオアシス21でも数多く目撃した。現代アートとコスプレが混在する、なんともカオティックな風景が出現したのは、「あいちトリエンナーレ」のスタートが、ちょうど「世界コスプレサミット2019」の期間と重なっているからだ。

トリエンナーレの初日は、豊田市のエリアをまわった。名古屋市のエリアは、映像などのインストールしやすいものが多い印象だったが、建築的、もしくは空間的な作品はこちらに集中している。特に高嶺格によるプールの床を剥がして、垂直に立てたインスタレーションは、将来、坂茂による豊田市博物館が建設される予定の場所だが、なるべく長く残して欲しい大作だ(なお、運動場に唐突に設置されていた鳥居は、彼の作品ではなく、夏祭りのためらしい)。豊田市のエリアでは、レニエール・レイバ・ノボ、小田原のどか、タリン・サイモンなど、戦争・権力・モニュメントを考えさせる作品が興味深い。



高嶺格《反歌:見上げたる 空を悲しもその色に 染まり果てにき 我ならぬまで》



レニエール・レイバ・ノボ《革命は抽象である》展示風景


小田原のどか《↓ (1946-1948) 》


小田原のどか《↓ (1923−1951) 》

そしてトリエンナーレの批判にいそしみ、ネットで騒ぐ人たちが好きな特攻隊をとりあげ、歴史・哲学的な考察を加えて、彼らが出陣前に過ごした喜楽亭の日本家屋の構造を生かしたダイナミックな映像インスタレーションのホー・ツーニェンも力作である。なお、豊田市美術館では、東京で見逃したクリムトの展覧会も観ることができた。ファンが多い画家なので、トリエンナーレよりも客の入りがよいのはさすがだった。


ホー・ツーニェン《旅館アポリア》

名古屋に戻り、長者町にて「ART FARMing(アート・ファーミング)」展を独自に開催している綿覚ビルを見学してから、二度目の愛知芸術文化センターで、緊張感が強くなった「表現の不自由展・その後」にもう一度、足を運ぶ。そして夕刻に行われた高山明のレクチャー・パフォーマンス「パブリック・スピーチ・プロジェクト」は、岡倉天心らの大アジア主義を再読し、その簡単な批判ではなく、可能性と限界を検証する試みだった。その手がかりとして、ワーグナー/ヒトラー的なスペクタクルに抗したブレヒト的なズラしの手法やギリシア時代の街が見える屋外劇場のシステムを召喚しつつ、アジアの四都市(名古屋、マニラ、台北、ソウル)をつなぎ多言語のヒップホップ・パーティを10月に開催するという。作家たちの企ては、まさにトリエンナーレをめぐって日本で起きつつあるネガティヴな状況に対するポジティヴな回答になっている。


「ART FARMing」展が開催されていた綿覚ビル

展覧会の初日からネットなどから情報を得た政治家が、不自由展に対する抑圧的な発言を開始し、まさに「情の時代」を証明する状況が初日から起きていた。このときは、英語タイトルに掲げた言葉「Taming Y/Our Passion」、すなわち、「われわれ/あなたたちの感情を飼いならす」ことを期待していた。しかし、筆者にとって「表現の不自由展・その後」は、この日が見納めとなった。(9月8日現在。ただし、同展が会期中に再開されることを強く望む)

公式サイト:https://aichitriennale.jp/

2019/08/01(木)(五十嵐太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00050800.json s 10156968