artscapeレビュー

その他のジャンルに関するレビュー/プレビュー

遅咲きレボリューション!

会期:2016/10/15~2017/01/29

クシノテラス[広島県]

櫛野展正は日本で唯一のアウトサイダー・キュレーター。長らく広島県福山市の鞆の津ミュージアムで他に類例を見ない独自の企画展を催してきたが、このほど独立して同市内にアウトサイダー・アートを取り扱うギャラリー「クシノテラス」をオープンさせた。本展は開館記念展に次ぐ第二回目の企画展で、高齢者になってその才能を開花させた表現者たちを一堂に集めている。
参加したのは、ダダカンこと糸井貫二をはじめ、福祉施設を退職後にダンボールなどに絵を描き始めた長恵、50歳になってエロチックな自撮り写真を撮り始めたマキエマキ、そして70歳を超えてから写真を学び、パソコンソフトを駆使しながら、セルフポートレートを撮っている西本喜美子の4人。何かと「コンセプト」や「文脈」を重視しがちな現代美術とは対照的に、いずれも内なる衝動に素直に突き動かれた、きわめて純粋な表現者たちである。
なかでも突出していたのが、熊本県在住で、今年88歳の西本喜美子。その写真は、物干し竿の衣服に袖を通したり、ゴミ袋に身を包んだり、老女である自分を笑い飛ばすようなユーモアあふれるものばかり。そこに、老人をむげに扱いがちな現代社会への痛烈な批評性を読み取ることもできなくはないが、それ以上に伝わってくるのは西本のひたむきな表現欲動である。息子の写真教室で基本的な技術を習得し、やがて撮影した写真をパソコン上でデジタル加工する水準にまで自分で自分を引き上げた底力がすばらしい。軽トラックに轢かれているように見える写真は、停車した車両の前に倒れ込んだ自分を撮影した後、パソコン上で画像処理することで、あたかも軽トラックが高速で前進しているかのように見せたものだ。面白い写真を撮るために知恵と工夫を凝らし、その継続が結果的に写真と自分をともに高めているのだろう。その発展的な軌道に西本が乗っていることが感じられるからこそ、私たちの視線はますます釘づけになるのである。
櫛野の挑戦がアウトサイダー・アートの外縁を拡張していることは間違いない。ジャン・デュビュッフェが命名した「アール・ブリュット」以来、それは精神疾患をもつ人による表現に注目しながら、西洋近代の芸術とは別の芸術を求めてきた。櫛野はこれまで社会福祉という領域に軸足を置きつつも、もう片方の脚を、従来のアウトサイダー・アートには含まれない、例えばヤンキーや死刑囚、スピリチュアルといったアウトサイダーまで伸ばし、あるいは純粋無垢な障害者というレッテルを貼られがちなアウトサイダー・アートに、社会福祉の世界では敬遠されがちなエロティシズムや暴力性をあえて持ち込んだ。こうした孤軍奮闘の取り組みが、隘路に陥って久しい現代美術の世界に痛快な風穴を空けた功績は、最大限に強調しなければなるまい。
だが、あえて批判的な論点を示すならば、アウトサイダー・アートの外縁を拡張する仕事は、どれほどその境界線を外側に押し広げたところで、美術そのものの「革命」には結びつかないのではないか。なぜなら、そのフロントをどこまでも拡大することができるのは、自らの立ち位置を「インサイドには置かない」という巧妙かつ周到な戦略によって担保されているからだ。言い換えれば、現代美術の歴史や文脈、構造と無縁な場所を確保することではじめて「別の芸術」の価値は生まれている。それが退屈な現代美術に飽き足らない人々にとっての求心力となっている事実は否定しない。けれども、はたして「別の芸術」の真価が、そのようなある種の例外にしかないとは到底思えない。少なくともデュビュッフェが提起したアール・ブリュットとは、西洋近代芸術のアジールとしてではなく、むしろその真価が体現された本来的な芸術として構想されていたはずだった。だとすれば、アウトサイダー・アートのフロントは、果てしなく外縁を拡張する方向性だけでなく、むしろインサイドを脱構築ないしは内破する方向性にも見出すことができるのではないか。
アウトサイダー・アートを糸口として現代美術の内側から根本的な変化を引き起こすこと。しかも、その革命を遂行するのは外側からやってきたアウトサイダーではなく、現代美術の内側を構成していることを自認する当事者自身でなければならない。そうでなければ、歴史が証明しているように、異端や例外はたちまち内側に回収されてしまうことは明らかだからだ。アウトサイダー・アートの最も大きな魅力は、そのようにインサイダー・アートを根底から突き崩す潜在的な批判性にある。
その意味で、櫛野が本展で糸井貫二を取り上げている点は興味深い。彼こそアウトサイダーに見えて、その実インサイダーの中心に内蔵されていることを示す美術家だと思われるからだ。櫛野にかぎらず、さまざまな論者がこの伝説の美術家について言及しているが、その多くは異端や例外として位置づけているにすぎない。だが、パフォーマンスの形式面でも、それを衝動的に導き出した表現欲動の面でも、ダダカンこそ、実は最も純粋かつ誠実に、あるいはまた正統に、美術の本質を体現した美術家ではなかったか。それが証拠に、ダダカンは自らが「異常」というレッテルを貼り付けられがちなことを十分に自覚していた。「あえて信ずることをおし貫き、純粋に生きようとすれば、あらゆる罵言、不当な反感、抵抗を覚悟しなければならない。だから私は言ふのである。「純粋であればあるほど、誤解されるのだ」(「光の版画」1964年11月24日付け、黒ダライ児『肉体のアナーキズム』p.435)。「純粋」なインサイドを自認するアーティストらは、ダダカンのこの言葉を耳にして、どのように感ずるのだろうか。外側に見ていた異端や例外が、内側の核心に棲んでいることを感知したとき、革命は始まるのだ。

2016/10/22(土)(福住廉)

六本木アートナイト2016

会期:2016/10/21~2016/10/23

六本木ヒルズ+ミッドタウン+国立新美術館など[東京都]

昨年まで春に行なわれていたのに、今年は秋に開催。なにか深謀遠慮があるのか、単に準備が遅れただけなのか。調べてみたら、2020年の東京オリパラ関連の「スポーツ・文化・ワールド・フォーラム」に絡めるためらしい。文科省の主催なのできっとお金も出るのだろう。どうでもいいけど。さて、六本木ヒルズでは久保ガエタンの《Smoothie》が注目を集めていた。映像と回転する大きな箱からなる作品で、まず映像だけ見ると、ごく普通の室内風景が映し出されているが、いきなり服や日用品がポルターガイストみたいに舞い踊り始める。そのとき隣の箱は回転しているので、箱の内部が室内のように設定され、そこに固定したカメラが回転し始めた室内を撮影していることがわかる。アイデアとしては珍しくないけど、わかりやすくておもしろいので人気だ。回転ものでは、六本木駅前に設置された若木くるみの《車輪の人》も、場所が場所だけに注目を集めていた。ハムスターなどが遊ぶ回し車を拡大し、若木本人が走り続けるというパフォーマンスで、本当に昼間も夜中も走っていた。ごくろうさんだ。街なかでは、ビルの空き部屋を使ったイェッペ・ハインの《Continuity Inbetween》がすごい。直径10センチほどの穴をあけたふたつの壁を2、3メートル離して向かい合わせに立て、片方の穴からもう一方の穴へ水を飛ばすという作品で、水は放物線を描いて穴に吸い込まれていく。これはどこかで見たことあるけど、見事。屋外では、フィッシュリ&ヴァイスの映像作品《事の次第》をビルの壁に映し出し、駐車場でそれを見るというのもあった。夜中に見に行ったら大勢集まっていた。人気があるというより、みんな終電が終わってほかに行くとこないんじゃないか?

2016/10/22(土)(村田真)

THE PLAY since 1967 まだ見ぬ流れの彼方へ

会期:2016/10/22~2017/01/15

国立国際美術館[大阪府]

1967年に結成され、関西を拠点に活動している美術家集団「プレイ(THE PLAY)」。彼らの特徴は、パーマネントな作品をつくることではなく、一時的なプロジェクトの計画、準備、実行、報告を作品とすることだ。例えば《現代美術の流れ》という作品は、発泡スチロールで矢印型のいかだをつくり、京都から大阪まで川を下った。また《雷》では、山頂に丸太で約20メートルの塔を立て、避雷針を設置して、雷が落ちるのを10年間待ち続けた。中心メンバーは池水慶一をはじめとする5人だが、これまでの活動にかかわった人数は100人を超えるという。彼らの作品は形として残らないため、展覧会では、印刷物、記録写真、映像などの資料をプロジェクトごとに紹介する形式がとられた。ただし、《雷》《現代美術の流れ》《IE:THE PLAY HAVE A HOUSE》など一部の作品は復元されていた。資料展示なので地味な展覧会かと思いきや、彼らの独創性や破天荒な活動ぶりがリアルに伝わってきて、めっぽう面白かった。プレイの活動のベースにあるのは「DO IT YOURSELF」の精神と「自由」への憧れではないだろうか。時代背景が異なる今、彼らの真似をしてもしようがないが、その精神のあり方には憧れを禁じ得ない。

2016/10/21(金)(小吹隆文)

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プレビュー:ルーヴル美術館特別展 ルーヴルNo.9 漫画、9番目の芸術

会期:2016/12/01~2017/01/29

グランフロント大阪北館 ナレッジキャピタル イベントラボ[大阪府]

フランスにはバンド・デシネ(BD)という独自の漫画文化があり、漫画は第9番目の芸術とされている。また、パリの殿堂ルーヴル美術館では、フランス内外(日本を含む)の優れた漫画家を招待し、ルーヴルをテーマに自由に描いてもらう「ルーヴル美術館BDプロジェクト」を、2003年から実施してきた(2005年から出版も開始)。その全容を紹介するのが本展だ。内容は、16人の漫画家による原画やネームなどの資料約300点のほか、映像、インスタレーションなど。出展作家の中には、荒木飛呂彦、谷口ジロー、松本大洋、ヤマザキマリなどの日本人作家も含まれている。言わずと知れた漫画大国の日本で、フランス発の試みはどのように評価されるのだろう。興味深いところだ。

2016/10/20(木)(小吹隆文)

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特別展「大英自然史博物館展」記者発表会

会期:2016/10/19

国立科学博物館[東京都]

ロンドンの自然史博物館から剥製や標本、資料など約370点がやってくる。この自然史博物館は昔ロンドンに滞在していたときよく訪れた場所。ロマネスク様式の美しい建物といい、エントランスロビーを飾る恐竜の巨大な化石見本といい、年季の入った陳列ケースといい、うんざりするほど厖大なコレクションといい、19世紀後半のヴィクトリア朝の栄華を彷彿させる博物館だ(が、その後インタラクティブな装置を導入するなどモダナイズされ、ちょっとがっかりした)。あの建築空間そのものを持ってこられないのは残念だが、コレクションは始祖鳥の化石をはじめ、絶滅した恐鳥モアの骨格、やはり絶滅したニホンアシカの標本、オーデュポンによる大判の鳥類画集『アメリカの鳥』、そしてオランウータンの骨を使って人類の祖先を捏造した「ピルトダウン人」の骨片(門外不出の贋作!)まで来るという。総点数は370点で、うちロンドンで常設展示されているのは17点のみ。大半が倉庫に眠ってたものともいえるが、見方を変えればイギリスでもめったに見られない秘蔵品とも言える。それにしても科博のスタッフはお堅い人たちと思っていたが、みなさんオタクで(これは予想できた)ユーモアのある人ばかり。国立の研究機関も変わったなあと思ったが、今回イギリス側との打合せのとき、相手方は全員女性なのに日本側は全員男性だったというエピソードを聞いて、まだ道は遠いと感じたものだ。

2016/10/19(水)(村田真)