artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
あごうさとし新作公演『Pure Nation』

会期:2016/11/03~2016/11/08
アトリエ劇研[京都府]
劇場空間に巨大なカメラ・オブスキュラを出現させ、観客は「暗い部屋」の内部に座り、劇場の壁=スクリーンに映し出される光の像を見つめるという仕掛けのパフォーマンス公演。ただし映画と異なるのは、「動く光の像」が何度でも再生可能なフィルムの映写ではなく、「暗い部屋」の外で俳優・ダンサーによってリアルタイムに行なわれる生身のパフォーマンスである点だ。
公演は対照的な前半と後半に分かれる。前半では、観客はカメラ・オブスキュラの内部で「映像」として鑑賞した後、後半では部屋の外に出て、生身のパフォーマンスに向き合うことになる。ブラックボックスとしての劇場空間の中に、入れ子状に暗箱が出現した構造だ。演出のあごうさとしはこれまで、ベンヤミンを参照した「複製技術の演劇」をキーワードに、スピーカーやモニターを空間に立体的に配置し、録音音声や映像のみによって構成される「無人劇」を発表してきた。本作の試みは、写真や映像の起源のひとつとしてカメラ・オブスキュラに着目したと理解できる。また、「Pure Nation(純粋国家)」というタイトルは、ベンヤミンの概念「純粋言語」に由来するという。ただし本作を実見して感じたのは、コンセプトや仕掛けのアイデアが先行し、前半の光の受像経験/後半の生身のパフォーマンス、そしてタイトルがうまくかみ合っていないのではないかということだ。
前半、「暗い部屋」の内部に座る観客は、背後の壁に空いた1点の穴から射し込む光が、壁におぼろげに映し出すイメージを闇の中で見つめ続ける。闇に目が慣れ、白い炎のようにゆらゆらと揺らめく不定形のそれが、倒立した人体像であると理解するまでに少し時間がかかる。一転して、暗箱の外に出て鑑賞する後半では、「私の身体を移植します」という宣言が口々になされ、下着姿の男女の出演者9名が、骨格の歪みや歩き方のクセを実際に骨や筋肉を動かしながらレクチャーし、他の出演者がそれを身体的にトレースする、というワークショップ的な試みが展開される。「移植」されるのは、片側の肋骨が飛び出している病状を持つ男性と、脊椎がSの字に湾曲している脊椎側彎(そくわん)症の女性の身体である。骨盤や肋骨、肩の位置、左右の重心の取り方、足の開き具合などを本人が説明したあと、「歩き方」「声の出し方」「転び方」を全員がマネてやってみる。「インストラクター」役は、他の出演者たちの姿勢をダメ出しして矯正したり、「あ、それは僕の歩き方ですね」とOKを出す。出演者たちはぎこちなく身体を動かしながら、今の身体の状態や内部感覚について、自分自身の身体が抱える微細な歪みについて、口々に報告する。やがて彼らは折り重なり、闇の中で蠢く原始的な生命体のような塊からは、「腸が縮む」「粘膜を貼り替える」「膝がない」「皮膚を失う」といった詩情さえ漂う言葉がブツブツと発せられる。
このワークショップ的なやり取り自体は面白い。だが本公演で私が感じたのは、「知覚」の問題が前景化するとともに、前半と後半の間に乖離が横たわっているのではないかということだ。前半でまず、確固たる輪郭線を持った統一的な全身像としての身体イメージが崩れる時間を経験した後、他人の身体(しかも病気と診断されるレベルの歪みを抱えた身体)を「移植」され、随意に動かせずにコントロール不全に陥った身体を目撃することになる。闇の中で純粋な光に目を凝らし、知覚の臨界が試される時間と、自他の境界が侵犯され融合していく時間。だが、目の前で繰り広げられる「移植」の実践を「見ている」だけでは、他人の身体内部で起こっている変容の感覚や違和感そのものを「感じ取る」「共有する」ことは困難だ。光の受像に没入する網膜だけの存在と化し、徹底して「見る」主体であることを要請される前半の時間と、見る主体として出来事から疎外される後半の時間。その落差。「カメラ・オブスキュラの中から外へ」というアイデア自体は面白いが、非身体的な網膜的存在から自らの身体感覚の(再)活性化へ、没入から覚醒へと溝を飛び越えるには、もっと別の仕掛けや介入の方法が再考されるべきではないか。その困難な企てこそが、「身体芸術」としての舞台芸術に要請されている。
2016/11/03(木・祝)(高嶋慈)
NEWCOMER SHOWCASE #4 黒沢美香振付作品『lonely woman』

会期:2016/10/31
ArtTheater dB Kobe[兵庫県]
この原稿を準備していた12月はじめ、黒沢美香の訃報が飛び込んできた。黒沢は、日本のモダンダンスのパイオニア・石井漠の徒弟である両親からダンス教育を受けた後、1982~85年にNYに滞在。日常的な動作を取り入れ、モダンダンスのスペクタクル性を批判的に乗り越えようとしたジャドソン・グループの思想に影響を受け、帰国後は日本のコンテンポラリーダンスの草分け的存在となった。代表作『lonely woman』(1991年初演)は、そのラディカルさと即興の強さ故に、フランスのバニョレ国際振付コンクールの本選に選ばれるも上演拒否にあった作品。これまでに20回の上演が行なわれ、250人以上が出演した。参加者は、ダンサーのみならず、音楽家、美術家、詩人などダンス経験のない人にまで多岐にわたる。NPO法人DANCE BOXが主催する若手育成事業「国内ダンス留学@神戸」のショーイング公演として上演された今回は、受講生に加え、ワークショップ選抜メンバーや黒沢美香&ダンサーズのダンサー、ゲストのドラマーなどが参加した。
『lonely woman』の特徴は、ルールの厳格さと即興性の高さ、という相反する二極の共存にある。出演者に課せられたルールは「立ったその場を動いてはいけない」というもの。3名の出演者は横一列に並んで立ち、30分間、即興でトリオ(横軸)として踊る。その場を動かなければ、何をやってもよい(小道具の使用も許されている)。25分が経過すると「ヒト時計」のパフォーマーが登場し、楽器演奏などで「交代」を告げると、次の出演者3名が新たに登場し、交代する出演者とデュエット(縦軸)を踊る。この3名1組による30分を数セット繰り返すのが、『lonely woman』の基本的構造だ。
ここで問われているのは、「作品」の帰属先と「責任」の所在である。ダンス作品は振付家のものなのか、ダンサーの身体も含めて「作品」となるのか? そこで観客に提示される身体は誰に帰属し、誰のために動いているのか? ダンサーの身体は作品に奉仕するのか、作品に回収されない余剰がはみ出る可能性はないのか? それはバグやノイズとして処理されるのか、その予測不可能性すら構成要素として作品に取り込まれるのか? 黒沢は、場所の移動以外は何をやってもよいという自由さや多様性を限りなく許容する一方で、その場でダンサーがやったことのすべてが「黒沢の作品」に回収されてしまうという権力性も発動させる。
それはまた、「振付」の問題の根幹にも関わっている。黒沢は、「振付」がはらむ権力性を、視覚的なフォルムやムーブメントとして可視化する代わりに、「その場を動いてはいけない」という目に見えない強制力として顕在化させるのだ。内容の委任・譲渡と枠組みがはらむ権力性、オープンな肯定性と拘束性がせめぎ合う臨界点として「ダンス作品」を逆照射する『lonely woman』は、「ダンス作品」の上演が構造的にはらむ力学をメタ的に抽出している。それはまた、作品のフレームを強固に保ちつつ、「そこで流れる時間」の成否(停滞なのか活性化なのか)の「責任」
をダンサー自身に明け渡している。ダンサーは、即興の歓びや自由とともに、その「責任」を背負って孤独に立つ。だから『lonely woman』は苛烈なまでに過酷な作品だ。
本公演では、3名×4組の計12人と、「ヒト時計」の2人が出演した。実見して感じたのは、それぞれの組によって場の雰囲気や時間の流れ方がガラリと変化したことだ。横に並んだ3名が均質性を保ちながら続く時間もあれば、互いに異物のように主張する3名が不思議な調和を発する一瞬もある。時間の重みに耐えきれなくなった体が、吹っ切れたように声や音を発して突破口を開こうとする瞬間もあれば、次第に醸成されていく粘着質な空気が一気に沸点へと立ち上がって肌がゾクリと反応する瞬間もある。とりわけ、最終組の3名(北村成美、文、泰山咲美)のトリオは静かな熱気を放ち、惹きつけられた。
はからずも、黒沢自身が直接立ち会った最後の上演となった本公演。「ダンス」をラディカルに問う姿勢と開拓精神が、参加した若い受講生たちに受け継がれることを願ってやまない。それこそが真の追悼となるだろう。

撮影:岩本順平
2016/10/31(月)(高嶋慈)
遠野物語・奇ッ怪 其ノ参
会期:2016/10/31~2016/11/20
世田谷パブリックシアター[東京都]
前川知大「遠野物語・奇ッ怪 其ノ参」@世田谷パブリックシアター。生きた言葉/方言によって語り継ぐ物語論としての演劇である。シンプルな立体フレームと舞台を中心に据えたセットを用いながら、「遠野物語」を題材とし、メタ的なストーリーの展開や、物語らしく細部の省略されたプロットを、いかにそのまま演劇化するかという試みが興味深い。
2016/10/31(月)(五十嵐太郎)
プレビュー:7つの船

会期:2016/12/01~2016/12/11
出航場所:[上り]名村造船所跡地奥 船着場/[下り]本町橋船着場[大阪府]
『7つの船』は、昨年11月に実施された梅田哲也によるナイト・クルーズ作品『5つの船(夜行編)』の続編。観客は、指定された2箇所の船着場とルート(大阪湾に近い名村造船所跡地からの上りルート/市内中心部の本町橋船着からの下りルート)を選び、水路からしか見ることができない街の裏側を巡りながら、パフォーマンスとも展覧会とも異なる、日常と非日常が交差する体験をすることになる。参加アーティストは、昨年に引き続き、Hyslomと松井美耶子が乗船するほか、ロンドンを拠点に活動するさわひらき、ベルリン在住の雨宮庸介、辰巳量平らのアーティストが新たに参加する。限定された空間、それも船の上という移動しながらの鑑賞は、観客自身の身体経験をも揺さぶるものになるだろう。
*会期は12/01~12/04、12/09~12/11に分かれる。
2016/10/31(高嶋慈)
フェスティバル/トーキョー16 パク・グニョン×南山芸術センター「哀れ、兵士」
会期:2016/10/27~2016/10/30
あうるすぽっと[東京都]
現代の韓国兵脱走事件、太平洋戦争で特攻を志願した朝鮮人、イラク戦争時に殺害された韓国の食品業者、2010年の哨戒艦沈没という4つの出来事が交差しながら、国家や政治に翻弄された死者を描く力作である。いずれも歯車となった兵士の悲しい運命をたどるが、唯一フィクションとして描かれた脱走のエピソードだけは、制度から逃がれる道かと思いきや、結局、自死に近いかたちでのみ解放されていたのが重い。
2016/10/30(日)(五十嵐太郎)


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