artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
松本雄吉 追悼特集

会期:2016/11/05~2016/11/18
シネ・ヌーヴォ[大阪府]
1970年に劇団・維新派を結成し、今年6月に逝去した松本雄吉の追悼特集として、初期の公演作品の記録映画から近作までを辿る企画。映像作品19本の上映が行なわれた。上映場所のシネ・ヌーヴォは、松本が棟梁となって維新派メンバーの手により内・外装が施工され、1997年に開館したミニシアター。赤レンガの外壁には金属製の巨大なバラの花や葉の装飾が付けられ、劇場内部の丸天井や壁には水泡が描かれ、クラゲのような装飾がシャンデリアのように垂れ下がり、ほの暗い海底から海面を見上げているような幻想的な雰囲気が漂う。レトロな感覚と手作りのこだわりが詰まった、とても雰囲気のある映画館である。
今回、筆者が見たのは、2010年に瀬戸内海の犬島に野外舞台を組んで上演された『台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき』。「《彼》と旅をする20世紀三部作」シリーズの最終章となったアジア篇であり、全長100m以上、丸太4000本を使った野外劇場で演じられた。生の舞台には及ばないものの、映画館のスクリーンは野外上演のスケール感を十分に伝えてくれる。また、今年10月に維新派最後の公演となった『アマハラ』は、本作を再構成した作品でもある。
冒頭と終盤で繰り返し語られる「黒潮」が本作の基底をなす。フィリピン沖で発生し、台湾、八重山列島を経由して、九州・四国の太平洋南岸へ至るまで、様々な島にぶつかり、分岐しながら流れてくる黒潮。劇中で語られるのもまた、明治期以降、黒潮を逆流するように海洋を南へと下っていく日本人の移民たちと領土の拡大だ。フィリピンでマニラ麻を栽培し、現地女性と結婚、太平洋戦争によって収容所送りにされた者。サイパン島に渡って綿花栽培で成功し、商売を旅館経営に拡大、更地から発展した街の繁栄を30年間見てきたが、米軍の「たった8時間の爆撃で」すべてを失った者。ヨーロッパ諸国と日本帝国による植民地獲得の年号や歴史的事件が羅列され、国家の大文字の歴史と個人史的な物語が交差する。
そうした語りに生き生きとした魅力を吹き込むのが、リズミカルなフレーズと身振りの反復だ。音韻を駆使し、言葉遊び的な要素も兼ね備えた単語の詩的な羅列と、船を漕ぐ、地軸が傾くように斜めに立つ、ツルハシをふるうといった身振りの反復。維新派独特の、集団による言葉と身振りのリズミカルな反復に身を委ねているうちに、地理的・時間的な隔たりを超えて複数の時空間が撹拌され、そのあいだを自在に往き来するような感覚がもたらされる。舞台美術として登場する「船」は、人々を乗せる船であると同時に、想像力を運ぶ船でもある。
「そこはどこですか?」「今はいつですか?」。人々は何度も尋ね合い、呼びかけ合う。「ここから、そこまで、いっけん、にけん」というフレーズが繰り返されるうちに、「ここ」と「そこ」の距離が縮められていく。犬島という現実の時空間から、様々な「島」へ。それはまた、海の道(黒潮の流れ)を辿り直すことで、航路の開拓や植民の歴史を(海によって地続きのものとして)犬島という「今ここ」に再接続する試みでもある。夕暮れから次第に夜の闇へと移り変わっていく空は、舞台を観客ともども包みこみ、戦争という極点とともに、時空間の感覚が混濁し、地理的・時間的羅針盤を失った狂気的な迷宮世界の暗闇を出現させた。
個人の半生を語る声、国家の歴史を告げる声、そして「島」の声や「波」の声など、万物のコロスとして集合的に語る声。そうした様々な「声」が多層的に響き合う世界は、トランクを携えて旅する少年が時空を超えて見た、夢幻の世界なのだろうか。
2016/11/17(木)(高嶋慈)
シアターコクーン・オンレパートリー2016 メトロポリス
会期:2016/11/07~2016/11/30
Bunkamuraシアターコクーン[東京都]
松たか子、森山未來らが出演する「メトロポリス」。SF映画や原作の骨格を維持しながらも、音楽、山田うんによる振り付け、都市を表現するメタリックな舞台美術、劇的な照明、メタフィクション的な幕間など、過剰なくらいに盛られた串田和美の演出だった。その理由は、本人が映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』に触発されたという発言を読んで納得した。
2016/11/14(月)(五十嵐太郎)
NISSAY OPERA 2016 オペラ「後宮からの逃走」

会期:2016/11/11~2016/11/13
日生劇場[東京都]
外部と内部を隔てる門、そして状況に応じて机や椅子が回転・移動し、さまざまに編成を変えたり、コンスタンツェが後姿で立ち尽くすシーンなど、田尾下哲らしい演出を楽しめる。物語は喜劇タッチだが、モーツァルトが原作を変えたラストは、イスラム教徒のセリムが復讐ではなく、赦しを選ぶびっくりするような締めだった。ここは現代社会にも訴えるメッセージ性を読みとることができる。全体的に歌は少し難ありだったが。
2016/11/13(日)(五十嵐太郎)
KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN シャンカル・ヴェンカテーシュワラン/シアター ルーツ&ウィングス『水の駅』

会期:2016/11/12~2016/11/13
京都芸術劇場 春秋座[京都府]
マーク・テ『Baling(バリン)』とは対照的に、言葉を費やす饒舌ではなく、一切のセリフを排した「沈黙」によって、人間存在の本質とともに、ナショナル・ランゲージとしての統一言語を持たない多民族・多言語国家の姿をネガとして浮かび上がらせたのが、インド気鋭の演出家、シャンカル・ヴェンカテーシュワランによる『水の駅』である。劇作家・演出家の太田省吾による『水の駅』(1981年初演)は、音声言語としてのセリフを排し、極端にスローな動作を俳優に課す「沈黙劇」の代表作。沈黙劇はリハーサルの過程で不必要な言葉を削っていったプロセスから生み出されたが、『水の駅』は当初から「沈黙劇」として構想され、より形式的な純化を経ている。

撮影:守屋友樹
舞台中央に設けられた水飲み場では、蛇口からひと筋の水がチョロチョロと流れ続けている。下手側から舞台中央へ続くゆるやかなスロープを下り、18人の老若男女がこの水飲み場を訪れ、渇きを癒し、水を奪い合い、愛し合い、死を迎え、叫び、いたわり合い、上手側のスロープを下って去っていく。初めて目にする神聖なものであるかのように驚嘆の眼差しを水に向け、捧げ持ったコップに注がれた水を飲み干す少女。我先に飲もうと水を奪い合っているうちに、口づけの体勢になってしまう2人の男が放つ滑稽さ。髪や肌に官能的に水を受け止め、生の充溢に満たされた女。乳母車を引っ張る夫婦は、水のほとりで愛の営みを始める。生命を与える水場の隣には、荒廃したゴミの山がうず高く積み上げられ、中からひとりの男が彼らの様子を見つめている。ホームレスのような風体の老婆は、水場にたどり着くと死を迎え、その死体はゴミの山に捨てられる。洗濯物をカラフルな旗のように掲げた3人の娘に先導されて登場する一群の人々は、来し方を振り返り、破滅的な光景を目にしたかのように無言の叫びや慟哭を上げる。時に裸足で、時に巨大な荷物を背負った彼らは、人生という旅のそれぞれの「時」の象徴であるとともに、より直截的には故郷を追われて放浪する難民を連想させる。セリフの不在と指先にまで神経をはりつめた身体言語の語りが、想像力で埋める余白を生み出し、引き伸ばされた時間は意味の拡散ではなく、むしろ感情の強度を凝縮させる。
ここで、本作が、多民族・多言語国家のインド全土とスリランカから集められた俳優によって演じられていることを思い起こせば、戦後日本における実験的な演劇実践を、統一的なナショナル・ランゲージを持たない多言語状況を浮かび上がらせるネガとして読み替えているとも言える。『水の駅』は、マーク・テ『Baling(バリン)』と合わせ鏡のように、多民族・多言語が前提である社会において舞台芸術を実践することの意義を、二つの極として指し示す。一方には、徹底的に対話を重ねて、歴史的検証の多面性をポリティカルに構築する知的強度を鍛えること。片方には、言語を一切削ぎ落とすことで、美的洗練と抽象度の強度を高めつつ、ナショナルな共同体の同質性へと編成する力学の不在と解体をもくろむこと。対話の手段であるとともに差異を生み出す装置でもある言語への敏感な眼差しは、演劇が成しうる批評性である。では、表面的には同質性で覆われた日本では、同様の試みは果たして可能なのか? その答えは次回以降のKEXに期待したい。同質性へと包摂する圧力と、表裏一体の排除の論理は強まる一方だから。

撮影:守屋友樹
公式サイト:KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2016 AUTUMN
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舞台芸術を支えるローカルな土壌と世界的同時代状況への批評性──KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2016 AUTUMN|高嶋慈:artscapeフォーカス
関連レビュー
多視点と流動性が揺るがす歴史=フィクション──マーク・テ『Baling(バリン)』
2016/11/13(日)(高嶋慈)
冨田勲 追悼特別公演 冨田勲×初音ミク「ドクター・コッペリウス」
会期:2016/11/11~2016/11/12
オーチャードホール[東京都]
第一部はミクと初共演となった「イーハトーブ交響曲」を演奏し、第二部が冨田の死去のために、一部未完に終わったコッペリウスを披露する。第一部と違い、リアルなバレエのダンサーとの共演だが、人間の視覚はかなり騙しやすいせいか、自然に感じられた。一方、ミクの身体なき声は、この世の感じではなく、不思議な聴覚体験だった。
2016/11/11(金)(五十嵐太郎)


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