artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

NEWCOMER SHOWCASE #3 黒田育世振付作品『ペンダントイヴ』

会期:2016/10/18

ArtTheater dB Kobe[兵庫県]

NPO法人DANCE BOXが主催する「国内ダンス留学@神戸」は、ダンサー・振付家を目指す人を対象に、劇場を拠点として約8ヶ月間、レクチャーやワークショップ、ショーイング公演を通して人材育成する取り組みである。「第5期生」を迎える本年度は、国内外で活躍する8名のアーティストの振付作品に取り組み、「NEWCOMER SHOWCASE #1~8」として公演シリーズを上演する。「#3」では、黒田育世が主宰するBATIKの代表作『ペンダントイヴ』(2007年初演)を、カンパニーメンバーと共に上演した。
BATIK作品の特徴は、身体を極限まで駆使する振付の過酷さや感情表現の激しさと、とりわけそれが女性ダンサーのみで踊られる際の、強烈な少女性の発露にあると言える。思春期にさしかかった少女たちが集団的陶酔の中で繰り広げる、渇望、破壊的衝動、抱擁や愛撫、恐怖、孤立、歓喜、絶望。理由は不明のまま、感情だけが裸形で増幅され、過剰な身振りとして提示される。色とりどりの花のようなワンピースをまとったダンサーたちは、泣き、叫び、笑い転げ、身体を床に激しく打ちつけ、痙攣し、身悶えし、「○○ちゃーん」と互いの名を呼び合う。「固有の存在」として承認されたい欲求や焦燥感と、それが成就された時の歓びと、絶叫するまで呼びかけても応えてくれない絶望とが渦まくように交錯する。
ダンサーは全身を痙攣させ、過呼吸のように肺を激しく上下させるが、それが「振付」であるのか、激しい運動のせいで本当に過呼吸に陥ったのか、判断不可能に思わせるほどの過酷さと暴力が露呈する。踊り狂い、走り回り、泣き叫び、疲弊していく身体は「死」に近づく一方で、生の充溢を極限まで剥き出しにする。倒れるまで踊っても、「せーの! 1、2!」という掛け声とともに立ち上がり、再び踊り始めるダンサーたち。少女たちは生贄として捧げられるが、「死」と「再生」は執拗に反復される。誰かが(おそらくは「不在」の男性が)それを望み続ける限り、本当の「死」は訪れず、生贄の儀式は繰り返されるのか。あるいは何度でも「生き返って」踊り続けることは、「無垢なる死」への果敢な抵抗なのか。クライマックスで、空中ブランコのようなバーに両手を掛けてぶら下がり、孤独な美しい独楽のように高速で回転し続けるダンサーは、「吊られたイヴ」をまさに体現しながら、紙吹雪が祝福的に降り注ぐなか、めくるめくエクスタシーを味わい続ける。
一方、今回の上演で興味深かったのは、10名の出演者のうち、1名の男性ダンサーが入っていたことだ。他の女性ダンサーたちと同じく、ワンピースを着用し、後半は下着姿で踊るが、「女性(少女)を演じよう」という意識の無さがむしろ違和感を感じさせず、彼の肉体のままで存在していた。そのことは、「純粋無垢な少女が持つ残酷さや、生贄としての死」といった定式の呪縛から、距離をおいてBATIK作品を見ることを可能にするとともに、身体それ自体の力強さやエネルギーの過剰さをクリアに浮かび上がらせていた。それは同時に、なぜ踊るのか? 身体があることは無上の喜びなのか、(痙攣や過呼吸のように)自分の身体から疎外される絶望的な苦痛なのか? 感情があるから身体が動くのか、身体に負荷をかけ続けることで制御不可能な感情が発生するのか? 集団の中で共にいることと、個別的な存在として承認されることは両立するのか? といった根源的な問いを発していた。


撮影:岩本順平

2016/10/18(高嶋慈)

あいちトリエンナーレ2016 カンパニーDCA/フィリップ・ドゥクフレ「CONTACT」

会期:2016/10/15~2016/10/16

愛知県芸術劇場大ホール[愛知県]

前回のあいちトリエンナーレ2013はテーマに合わせてサミュエル・ベケットをパフォーミングアーツ部門の通奏低音としたが、今回はストレートに祝祭的な作品が続く。各場面で忘れがたい強烈なビジュアル・イメージが次々と打ち出され、華やかだった。ただ、一応、ミュージカルの形式をとるならば、もうちょっと覚えやすい曲の方がなじむような気がする。

2016/10/16(日)(五十嵐太郎)

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あいちトリエンナーレ2016 イスラエル・ガルバン「FLA.CO.MEN」

会期:2016/10/15~2016/10/16

名古屋市芸術創造センター[愛知県]

今回のあいちトリエンナーレ2016のパフォーミングアーツ部門は公演の日程を10月に集中させており、県外から訪れる人間には助かるスケジュールの組み方だ。イスラエル・ガルバン「FLA.CO.MEN」@名古屋市芸術創造センター。フラメンコを脱構築するパフォーマンスだが、基本がしっかりしているからこそ、自由で実験的かつ楽しい表現が可能になっている。そして、終演を惜しむかのように、ぎりぎりまで踊り続けたのも印象的だった。

2016/10/16(日)(五十嵐太郎)

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『nước biển/ sea water』特別展示上映 ダンスボックス アーカイブプロジェクト

会期:2016/10/12~2016/10/29

アートエリアB1[大阪府]

1996年に発足し、関西ダンスシーンの中核を担ってきたNPO法人DANCE BOXは、20周年記念として、過去20年間の上演作品の映像の整備を進めており、2017年2月に大阪のアートエリアB1にて、時代ごとにセレクトした映像を公開する予定だ。このアーカイブ・プロジェクトのオープンを記念して、『nước biển / sea water』の展示上映が行なわれた。
本作では、劇団「維新派」主宰の松本雄吉によるテクストの朗読、ジュン・グエン=ハツシバによる、シクロ(ベトナムの人力車)を海中で漕ぐ少年たちの映像作品、ダンサーの垣尾優によるソロパフォーマンスが舞台上で交錯する。筆者は、2014年の神戸での初演を実見した。上演は、3人が近くの長田港で海水を汲み、劇場まで運ぶ様子の映像中継から始まる。松本が朗読する声は、人間の身体の約60%が水分であること、血液と海水の成分の類似性、人間の体内にも「海」が存在すること、母親の骨を海に流したこと、バケツの中の海水が生物のように揺れて光っていること、そして海水は蒸発して雲に/雨に/川になり、再び海へ戻っていくことを語る。また、ハツシバは、仏教の輪廻の思想が自分をアーティストに導いたこと、来世の生まれ変わりは互いの人生を交換して生きることを亡くなった父と約束したことを語る。「海水=命の循環」というテーマは、観客にも身体的に共有される。劇場に運びこまれた海水を、円形に配置された20個ほどの金だらいに移し替えて舞台上を一周させた後、めいめいがお椀やボール、バケツ、ポリタンクに分け合い、最後にはその海水を海まで歩いて返しに行くのだ。真冬の寒空の下、水を抱えて新長田という場所を歩くこと、しかも家庭内にある容器やポリタンクであることは、阪神大震災の経験をトレースしている感覚を強く感じさせた。
一方、本展示上映のキーとなったのが、「舞台芸術とアーカイブ」の問題である。生身の身体で上演される舞台芸術は、その一回性ゆえに複製が可能なのか、二次元の記録媒体である写真や映像で三次元の空間や身体感覚がどこまで記録可能なのか、(観客の反応も含めて)そぎ落とされるものこそがむしろ本質的な要素ではないのか。こうした問いに加えて、とりわけ本作の場合、「運ばれてきた海水を容器に注ぎ、分かち合う」「港まで皆で返しに行く」という観客参加的な側面が強いため、海水の重さ、歩きながら交わした会話、真冬の寒さ、澄んだ夜空、海の潮の匂いといった身体的な経験の質を(再)共有することは難しい。
記録映像による舞台芸術作品の「完全な再現」は不可能だからこそ、何をその作品のエッセンスとして抽出して見せるのか、例えば効果的なカット割りやカメラワークを駆使した「映像バージョン」として再構築するのか、舞台図面や舞踊譜、構想ノート、衣装や美術といった資料的価値の高いものを展示するのか、当時の批評なども提示して外部からの複数の視線も織り交ぜるのか、といった多様な取捨選択や戦略が問われることになる。
その点で、本展示上映は、記録映像の抜粋も見せつつ、「展示バージョン」と言うべき、インスタレーション的な性格が強いものだった。会場入り口には、港から劇場まで海水を運ぶ道中の映像が流れ、半円形を描いて吊られた松本のテクストを読みながら歩を進めると、足元に置かれた金だらいがS字カーブを描いて誘導するように奥の暗がりへ続く。奥では、上演の記録映像に加えて、派生的につくられたハツシバの映像作品が流れている。また、ハンガーに掛けられた松本の衣装は、身体の「不在」を強調し、今年6月に逝去した松本の死を悼む装置としても機能する。とりわけ興味深かったのが、記録映像と対面するかたちで、3者による打ち合わせの音声記録が聞けたことだ。当初は「劇場内に水路をつくって水を流す」という案が、「人が人力で移すことで水を動かし、循環させていく」アイデアへと変わったことがわかる。過去の上演の記録映像を、その作品のコアが立ち上がる瞬間のやり取りを聞きながら見ること。上演の時に聞いた同じ声を、今は亡きものとして経験すること。舞台芸術のアーカイブの多様なあり方のひとつとして、「手触りのあるアーカイブ」という切り口を実感した機会になった。


展示風景
撮影:岩本順平

2016/10/12(高嶋慈)

岡山芸術交流2016

会期:2016/10/09~2016/11/27

岡山市内各所[岡山県]

岡山城、岡山県庁、林原美術館など、岡山市内中心部の8会場ほかで行なわれている大型国際展覧会「岡山芸術交流2016」。去る9月15日に珍しく大阪でも記者発表が行なわれたが、その席で強調されたのは、いま日本国内で流行っている地域アートとは一線を画したハイエンドな芸術祭を目指すことと、今回のための委嘱作品が多数あるということだった。実際に現場に出向いてみると、委嘱か否かは別にして、見応えのある作品がいくつもあった。筆者が特に気に入ったのは、岡山県天神山文化プラザで展示されているサイモン・フジワラのインスタレーションと、林原美術館で複数の作品が見られるピエール・ユイグだ。また、旧後楽館天神校舎跡地で地元の中学生や新聞社と協同した新作を発表した下道基行も印象に残った。その一方で難解な作品もいくつかあったが、主催者の心意気を評価する筆者としては、これで良いと思う。参加作家は31組。少なく見えるが、大規模なインスタレーションが多数を占めるので、むしろ適正と言える。また、会場間の距離がさほど離れていないため移動が楽で、頑張れば1日でコンプリートできるのも良いと思った。最後に、今回のアーティスティック・ディレクターを務めたのは、美術家のリアム・ギリック。彼が掲げたテーマは「開発」だが、その意図を展示品から読み取るのは、筆者の知識では難しかった。

2016/10/09(日)(小吹隆文)

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