artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

黄金町バザール2016 アジア的生活

会期:2016/10/01~2016/11/06

黄金町+日の出町など[神奈川県]

韓国、中国、タイなどからのアーティストも交えて40作家以上が参加。2つだけ書いておきたい。ひとつは、渡辺篤の《あなたの傷を教えて下さい。》。インターネットを通じて心の傷を募り、円形のコンクリート板にその傷についてのコメントを書いて割り、金継ぎで修復する(傷を癒す)。例えば「女の子に生まれてしまった」「評論家にレイプされた。君がTwitterで暴露しても無駄だよと言われた」「私は愛していない人と結婚した。お互いに愛し合っていないから、罪の意識もない」とか。これらの作品もいいけど、会場となった「チョンの間」の壁を斜めに横切る線や、床にまき散らしたコンクリート片といったインスタレーションがすばらしい。もうひとつは、岡田裕子の《Right to Dry》。黄金スタジオの通路に数百枚の洗濯物を干している。ただそれだけ。「幸福の黄色いハンカチ」ならぬ「幸福の洗濯物」。こういうの好きだ。

2016/10/02(日)(村田真)

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伊藤キム/フィジカルシアターカンパニーGERO『家族という名のゲーム』

会期:2016/10/01~2016/10/02

スパイラルホール[東京都]

伊藤キムの舞台という点では、予想通りの内容なのかもしれない。いまやほとんど使われなくなった名称である「コンテンポラリー・ダンス」の、日本における代表的な存在の一人が伊藤である。その特徴は日常性にある。今作では、その日常性が家庭の食卓という形であらわれている。四人の男女、彼らはときに父、母、娘、息子となる。散らばった日常の品々。それを手に取っては、その品物に関係ありそうでなさそうな言葉を口にする。日常性からつるっとすべり、はみ出る瞬間。ただし、それは日常に亀裂が走って真っ逆さまに落ちるといった事態というより(そうなれば舞踏になるかもしれない)、日常からずれて日常の重さから抜け落ちる瞬間なのだ。「回避」という言葉が浮かぶ。それは実に「伊藤キム」らしい。身体動作に起きるずれというよりは思考のずれにあえていえば伊藤キムのダンスはあり、それは「あれ、どうしてそうなるの?」といったずれの感覚として顕在化する。例えば小さな場面。着ぐるみを着た男に、女が不満を爆発させる(二人はつきあっているという設定でのこと)。爆発は増幅してゆく。着ぐるみに顔をうずめて女が話すほどにそうなる。そしてさらに彼女の声はくぐもる。その「ずれ」が「おかしい」という趣向なのだ。男は聞きとりにくいと愚痴をこぼす。女に対する男の愚痴は、観客の賛同が起こるというより、「不満」(内容)を「聞きとりにくい」(形式)にすり替える不誠実な態度として映る。日常性からの遊離が「空とぼけ」として起こるこの「ダンス」は、繰り返すが、舞踏のような非日常(異常なもの)との出会いを生むというよりも、「遊離してしまった自分」へと意識が向かうという意味で、ナルシスティックなものとなる。舞踏と比較する必要は必ずしもない。ただ、伊藤の行なう日常性とのナルシスティックな関わり方に、どんな価値をひとは見るのだろう。いかにも、これは日本の「コンテンポラリー・ダンス」だ。けれども、それでよいのか、という問いに現在の多くの日本のダンスは至っているのではなかったか。

2016/10/01(土)(木村覚)

立蔵葉子ほか『岸井戯曲を上演する。♯1』

会期:2016/09/24~2016/09/25

blanClass[神奈川県]

岸井大輔の戯曲を毎回一本選び、複数の上演者がそれを次々と上演する企画の第一弾(月一で1年続く予定)。取り上げられたのは「文(かきことば)」という短い作品。作品といっても叙述文で書かれたその内容は、口語文ではなく文語体で書かれた文でこそ戯曲は書かれるべきではないかとのメッセージ。さて、では「文(かきことば)」の言葉たちは台詞なのか、ト書きと解すべきものなのか、さもなければ、コンセプチュアルな仕掛けであり、ひとつのインストラクションと見るべきか。ジョン・ケージの『4分33秒』が楽譜というよりもプレイヤーへの指令であったように、これもひとつの指令か?ただ「これをしろ」と命じるわけではないので、頓知というか、禅問答というか、一個の解に収まらない問いであって、一種のゲームのごとき設えと見るべきか。観客は事前に戯曲を渡されている。だから、上演者のパフォーマンスは、観客には応答のゲームに映る?立蔵葉子は、「文(かきことば)」をそのまま戯曲として読んだ。読みながら、体がくねっと揺れたりする。揺れるルールがおそらくあって、そのルールには戯曲への応答が込められているのでは、と想像する。カゲヤマ気象台はパジャマ姿の二人が、ケンドリック・ラマーの曲「Alright」の英詞を自動翻訳にかけて出てきた日本語を読んだ。歌詞は書き言葉か? よく分からなかったが、パジャマの男がバグを含んだ自動翻訳の日本語を読みながら、役者が力を込めたり、抜いたりしているのは、どんな理屈からだろうとこの点にも謎が発生していた。ぼくには立蔵とカゲヤマ気象台の上演が戯曲への明確な応答に思えなかった。応答なのかもしれないが、どこにどう応答しているのかが判然としない。戯曲と上演が明確なポイントでつばぜり合いしているように感じられなかった。三組目の橋本匠はふんどし姿で、漢字の形をその由来について喋りながら漢字の形を体で表現する。これは(体が体現する)「文字を読む」という軸が明確で、身体を用いた上演とこの戯曲とが掛け合わされているのを感じられた。芳名帳に書かれた名前を悶絶ながら読み上げるシーンも印象的で、これによって戯曲と上演というレイヤーの上に、客席の人々というレイヤーが重ねられた。戯曲が上演に与える作用のみならず、演出が上演に与える作用もある。複数の上演者が連ねられることで、この日は演出に注目が集まった。とはいえ、うまく戯曲と上演がつばぜり合いしていないと(戯曲との連関が判然としない演出がなされていると)、お題への応答のゲームにならない。ゲームじゃなくても良い。良いけれども、ゲームの良さは誰が見てもどんな戦いがなされているかが分かることにあり、ゲーム化は観客の参加可能性を、民主化をもたらすだろう。その点の仕組みが気になった。次回以降の展開をフォローしたい。

2016/09/24(土)(木村覚)

劇研アクターズラボ+村川拓也 ベチパー『Fools speak while wise men listen』

会期:2016/09/23~2016/09/25

アトリエ劇研[京都府]

演出家・ドキュメンタリー映像作家の村川拓也はこれまで、観客の1人を「被介護者」役として舞台に上げて、本職の介護労働者が障害者介護をデモンストレーションする『ツァイトゲーバー』や、「出演者候補」に指示書を送り、要請に応じて現われた出演者(と「不在」の出演者)によって舞台上の出来事が進行する『エヴェレットゴーストラインズ』などの作品において、演劇の原理的枠組みを鋭く問い直してきた。本作『Fools speak while wise men listen』は、日本人と中国人の「対話」の体裁を取りつつ、「対話」の不均衡さを露わにしながら、「反復構造とズレ」によって「演劇と認知」の問題に言及し、モノローグ/ダイアローグという演劇の構造へと鋭く迫っていた(本作は来年に再演が予定されている。以下はネタバレを含むことをご了承願いたい)。
白線テープで床に印された矩形のフレームの中に、2本のマイクが置かれ、舞台奥のスピーカーとつながっている。舞台装置は極めてシンプルだ。開演前に(あるいはすでに上演は始まっているのか)、ボーイッシュな雰囲気の若い女性が客席に向かって、中国語とジェスチャーで「携帯の電源を切って下さい」といった前説を述べる。2本のマイクは、向かって左側が「Japanese」、右側が「Chinese」であることも伝えられる。前説を述べ終えると、彼女はそのまま舞台の壁際に留まり続け、舞台中央に囲われた「フレーム」の中で、日本人と中国人の「対話」が始まる。


ベチパー『Fools speak while wise men listen』(2016年9月)演出:村川拓也

女性ペア、男性ペア、もう1組の女性ペア、女性3人と男性1人。対話相手は固定されたまま、計4組の対話が(ほぼ同じ内容で)4セット繰り返される。「初めまして。お名前は何ですか?」と互いに名乗り合い、にこやかなムードで始まる会話は、全て日本語で交わされる。中国人たちは皆、流暢な日本語を話し、日本での居住年数が長いのだろうと思わせる。だが、「初対面」という設定、微妙に隔たった距離感、マイクの介在という間接性、といった仕掛けによって、相手との適切な距離感を計りかねている緊張感が微温的に漂っている。雑談めいた会話はそれぞれ、「結婚と国籍」「日本のフーゾク」「中国人観光客のマナー」「アベノミクスと安倍首相」「パンダ」というキーワードを巡るものだ。だが、例えば「安倍首相についてどう思うか」という中国人からの問いかけは、「生活が良くなった実感がないので支持しない」という答えによって経済問題にすり替えられ、安保法制や憲法改正といったきわどい話題に触れることは回避されてしまう。あるいは、「日本のフーゾク」について尋ねる中国人男性は、女性差別と一体化した民族差別を発言するが、対面する日本人男性は、彼の声が聞こえていないかのように無視し、黙ったままだ。
だが、こうした「日本」と「中国」のあいだに横たわる政治的緊張感や心理的な隔たり、隠れた差別意識は、あくまで本作の表層に過ぎない。本作は「日本と中国の対話」という体裁を通して、むしろ対話の場における不均衡さや強制力を露呈させる。通訳者を介さず、同一言語(日本語)の使用を課すという強制力が働くこの場では、関係性は圧倒的に不均衡なものとしてあるからだ。そして、所在なげにずっと壁際で佇む彼女。「対話」を形づくるフレームの「外部」に置かれ、対話の場から疎外された彼女の存在は、この白線で囲われた空間が、「日本人」「中国人」というナショナリスティックな枠組みにはめ込んで発言させる場であることを示す。それは、より抽象的には、国籍によってカテゴライズ/分断する認識の枠組みだ。「対話」シーンの切れ目のタイミングで、彼女はフレームの中に足を踏み入れてマイクを手に取るが、もじもじと躊躇ったまま何も話さない。ある時は「右側(=中国人)」のマイクを取り、次は「左側(=日本人)」のマイクに持ち替える姿は、「中国人として発言するのか」「日本人として発言するのか」という、2つのナショナルアイデンティティの選択の狭間で躊躇していることを示す。
そして本作のもう一つの真の主題は、「反復構造とズレ」がもたらす、「演劇(本物らしさ)は観客の認知によって決まる」というテーゼである。本作の基本的構造は、計4組のほぼ同じ対話が4セット繰り返される反復構造にあるが、反復される度に少しずつズレが侵入してくるのだ。会話のテンポ、発話の「間」の取り方、笑い声のトーン、声のボリューム、身振りの大きさなどが少しずつ変化を加えて「再生」されることで、「ごく自然に見える/演技としては控えめ/ぎこちない演技/不自然で違和感を感じる」という印象のグラデーションが発生する。それは、「演出家が俳優に対して、少しずつ注文や条件を変えながら、出力のチューニング調整を行なう稽古を見ているような感覚」だ。
そして、「演技のグラデーション」が虚構の枠組みを突き抜けて「リアルな心情の告白」の極へと一気に振り切れるのが、疎外されていた彼女の「独白」とその後に続く、最後の1セットである。あんなに躊躇っていた彼女がついにマイクを持ち、中国語と日本語を交互に交えながら、やや震えを帯びた声で観客に語りかける。中国での幸せな子供時代、迫害を受けて日本に渡ったこと、日本の学校でのいじめ、日本社会になじめない日々、それでも日本で生きていく決意をしたこと…。抽象化された詩的な語りだが、彼女自身の半生だろう(と思われる)。真偽は定かではない。村川の書いた「台本(フィクション)」かもしれない。しかし、「台詞」として固定された対話の反復・再生を経験した後では、彼女の語りは「今ここでのリアルな告白」として迫ってくる。前半の時間を通して「虚構」に染められた「ダイアローグ」の形式と対置された、「モノローグ」であることも大きい。
この「語り」を経由した後では、再開・再生される「対話」は、もはや同じものとして目に映らない。会話の「間」を長めに取り、身振りや声のトーンが抑制されることもあいまって、嘘臭さが抜けたように感じるのだ。そして出演者の一人は、今までの「対話の台本」には無かった個人的なことを語り始める。マイクを介さず、一歩相手の方へ踏み出すことで、その語りはより親密さや切実さを帯びる。だが、その虚飾のない切実さは、「モノローグ」の形式へと回収されてしまうことで、目の前に対面する相手には届かない。リアルで切実な語りであるからこそ、いっそう残酷さが際立つ(この、感情的な揺さぶりと論理的な形式の明瞭さとに引き裂かれる経験が、村川作品に通底する「残酷さ」である)。
このように本作は、「(不在の)演出家が俳優の演技をチューニング調整する稽古風景」それ自体を舞台上で「再現」することで、演劇を成立させる「本物らしさ」とは、見る側・受け手(観客)の認知の問題であることを鋭く照射していた。その「稽古風景」はまた、「日本と中国が困難な対話を重ねようと努力する練習風景」でもある。3日間の上演が終われば、舞台装置としての(多くを物語っていた)白線テープはきれいに剥がされて消えるだろう。しかし、私たちの意識の中の「白線テープ」が全て剥がされる時は来るのだろうか。

2016/09/24(土)(高嶋慈)

プレビュー:THE PLAY since 1967 まだ見ぬ流れの彼方へ

会期:2016/10/22~2017/01/15

国立国際美術館[大阪府]

1967年に結成され、関西を中心に約50年間も活動してきたアーティスト集団「プレイ」。何かをつくるのではなく、行為そのものを表現としてきた彼らの活動を振り返る。発泡スチロールの筏で川を下る、京都から大阪まで羊を連れて旅をする、山頂に約20メートルの三角塔を立てて雷が落ちるのを待ち続けるなど、彼らの活動はつねに美術の制度からはみ出てきた。本展では、そんなプレイの全貌を、印刷物、記録写真、記録映像、音声記録、原寸大資料、未公開資料などで明らかにする。なかでも原寸大資料が持つリアリティー、本展のための調査で見つかった未公開資料の数々は要注目だ。過去の活動を知る人はもちろん、プレイの存在を情報でしか知らない若い世代に是非見てもらいたい。

2016/09/20(火)(小吹隆文)