artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

フェスティバル/トーキョー16 ドキュントメント「となりの街の知らない踊り子」

会期:2016/12/01~2016/12/04

あうるすぽっと ホワイエ[東京都]

F/T2016のまちなかパフォーマンス・シリーズで、ドキュントメント「となり街の知らない踊り子」@あうるスポットホワイエ。北尾亘の激しく動き続けるダンスと、映像・テキスト演出の山本卓卓がぶつかりあう。劇場の手前になるホワイエの空間で、身体と投影された文字情報が対話するようなパフォーマンスを展開していた。

2016/12/03(土)(五十嵐太郎)

フェスティバル/トーキョー16 FM3「Buddha Boxing」

会期:2016/12/02~2017/12/03

あうるすぽっと ホワイエ[東京都]

中国の電子音楽ユニットによる演奏である。2人が座って向き合い、低い卓の上で経文を再生する小型ジュークボックス/ブッダ・マシーンを転用した機械を使う。だが、その配置や編成による音の出方など、じっと観察しても結局わからず、したがって結局はのんびりとアンビエントミュージックに浸る1時間となった。

2016/12/03(土)(五十嵐太郎)

「肉声」~ジャン・コクトー「声」より~

会期:2016/11/25~2016/11/27

草月ホール[東京都]

ジャン・コクトーの一人芝居に触発されつつ、舞台を戦時下のモダニズム住宅に変え、名だたる美術家(杉本博司)、小説家(平野啓一郎)、俳優(寺島しのぶ)、音楽家の各分野が交差する興味深い実験的な企画なのだが、演劇としてリアリティラインをどこに設定したか、ややわかりにくい台詞が多かったのが、どうしても気になった。

2016/11/26(土)(五十嵐太郎)

THE PLAY since 1967 まだ見ぬ流れの彼方へ

会期:2016/10/22~2016/01/15

国立国際美術館[大阪府]

金曜の夜は20時までやっているので最後に見に行く。エスカレーターで地下の展示室に降りると、入口に丸太を一辺20メートルの三角錐に組み上げた《雷》の一部が再現されている。1977年から10年間、毎年京都の鷲峰山・大峰山の山頂に設置し、雷が落ちるのを待つという「作品」だ。再現とはいえ実物を見るのは初めてだが、写真で見るよりはるかにデカイ。壁や天井に遮られた室内だからよけい大きく感じるのだろう。後に、ニューメキシコの平原に400本もの金属棒を立てて落雷を待つという、ウォルター・デ・マリアの《ライトニング・フィールド》を知ることになるが、どちらも同じ77年に始めたというのは偶然の一致か。いずれにせよ、これだけ見るとアースワークの集団かと勘違いされそうだが、むしろ毎年これを組み立てるという「行為」を重視していたようだ。例えば発泡スチロールで巨大な矢印型の筏をつくって川下りする《現代美術の流れ》にしろ、12匹の羊を連れて京都から神戸まで歩く《SHEEP:羊飼い》にしろ、自然を相手にはしているけれど、そこでモノとしての作品を残すのではなく、無意味な行為(ハプニングと呼んでいた)に賭けようとしているのがわかる。展示は、プロジェクトごとにベニヤ板のパネルを立て、その上に写真や資料やポスターなどを並べ、記録映像を流す方式。きっちりと区画・整理するのではなく、ざっくりとした見せ方がプレイらしい。

2016/11/25(金)(村田真)

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東京芸術祭2016 ワン・チョン『中年人』

会期:2016/11/18~2016/11/19

東京芸術劇場シアターウエスト[東京都]

めちゃめちゃ面白かった。出演者のオススメで観に行った東京芸術祭の一プログラム、アジア舞台芸術人材育成部門2016(のうちの国際共同制作ワークショップ上演会)のなかの一作。プロデューサーは宮城聰。「アジアの若い演劇人が出会う土俵(リング)」(宮城)に、アジアの若い演出家、役者、ダンサー、パフォーマーが集まり、クリエイションを展開するという企画。異なる国籍の演劇人が集まり、20分ほどの上演作品を作るのは、それだけで苦労を伴う活動だろう。けれども、異なる国籍の演劇人が集まれば自ずと面白い作品ができるなんてはずはなく、結局は個々の作家の力量にすべてはかかっている。その点で、ワン・チョンのチームは圧倒的だった。20分ほどの上演で行なうのはほぼひとつ、三人の男と一人の女がひたすらキスしまくるのだ。冒頭、男と男が道端でがんつけ合う。むき出しの感情が顔を近づける。一触即発!と思うと二人はキスしてしまう。「なに? これ!」の事態に観客は戸惑い、失笑。しかし、これは序曲。別の男二人が現れ、二人も友達の挨拶みたいにキスする。男と女も濃厚なキスを挨拶みたいにする。「キス」は演劇におけるありふれた仕草のひとつ。しかし、それは大抵「男女の宥和」や「クライマックス」「ハッピーエンド」の記号であって、キスそのものが取り上げられ、繰り返されることは珍しい。例外を探すなら、ピナ・バウシュのレパートリーにはありそうだ。それでいえば、かつて三浦大輔がほとんど「している」のではと思われる劇を作ったことも思い出す。性器を展示することよりも穏便な行為に思われるかもしれないが、「キス」は実際かなり効果的だ。男と男が、男と女が、おじさんと若者がむちゅむちゅやっていると、こちらの気持ちがムズムズしてくる。途中には、観客にキスの相手を求める場面があって、一人の巨体の男性が立候補したり、そればかりか、アフタートークの際には、演出家のチョンにキスしたいと舞台に上がる男性が出てきたりと、若干乱行的な状態に近づきもする。チャンが宗教家だったら、そうした社会的自制の解除を人心掌握に利用するのだろうが、これは演劇であり、架空の設定を用いて自分たちの生を振り返るという演劇らしい機能を十分に活かす作品だった。焦点はコミュニケーションにあった。コミュニケーションの微妙な軋轢や行き違いが、キスという手段のみで進められるとしたら? そもそも誰とでもキスする社会はユートピアか、デストピアか。始終爆笑しながら、観客はその架空の世界にのめり込む。最後に生きた犬が現れ、犬と人とのキスへと展開するとさらに大きな笑いに包まれた。「ジェンダー」のみならず人と動物にまでキスが拡大したわけだ。私たちはどこまでキスできるのか? これは比喩的で架空の(つまり演劇上の)問いではあるが、キスは私たちの肉体で行なう現実のものでもある。だから、私たちの現実に突きつけられた問いでもある。良い作品とはこういう作品だ。

2016/11/19(土)(木村覚)