artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

LISTEN リッスン

会期:2016/07/30~2016/09/02

第七藝術劇場[大阪府]

「聾者(ろう者)の音楽」を映像的に追究したドキュメンタリー映画。BGMや環境音も排した無音の映画であり、言語は手話と字幕のみ。手話は聾者にとっての言語だが、手指の動きに加えて、顔の表情、単語どうしの繋がりや間、テンポ、呼吸など複合的な要素が組み合わさることで、「声質」ならぬ「手質」が宿るのではないか。とりわけ、本作にも登場する「手話詩」(手話単語をベースに、ある単語の形から別の単語に変わるあいだに意味の連続性を持たせつつ、形の変化や拡張を加えたり、手型の位置や場所による押韻を行ない、視覚的に表現する)の表現者のように、熟達した聾者の手の動きには、意思伝達を超えた強弱・緩急などの抑揚や感情の揺らぎが胚胎し、「声」が「歌声」へと変化するように、音楽的な要素が存在するのではないか。そうした問題意識から、「聾者にとっての音楽」の映像化を目指す聾の映画監督・牧原依里が、聾の舞踏家・雫境(DAKEI)の協力とともに制作したのが本作。出演者15名は、日本手話を主たる言語とする聾者であり、舞踏家や「手話詩」の表現者、聾の劇団員から、バレエ経験者、舞台経験のない人までさまざまだ。ソロ、デュオ、複数人のアンサンブルの合間に、手話による彼らの語りが挿入される。「自分の中にずっと音楽があった」「手話そのものが心地よい音楽を奏でていると感じる時がある」「激しく木々を揺らす風を見ると、鳴っている音が分かる。夕陽が照らす光景を見て、イマジネーションの言葉が浮かび、私だけの歌をつくる」「見知らぬ人の発するオーラを見ると、自分の身体が突き動かされる」。
日常的に手話を使用する彼らの表現は、とりわけ指の動きの繊細さが際立つ。また、異なるシーンでも、「その人の身体の中にあるリズム」のストレートな表出によって、同一人物であると分かる。繊細な指先と全身で感情を表現する激しさの同居が圧倒的な、海辺の女性。花ひらくつぼみや風のそよぎを表現する少女。「手話詩」で「四季」の情景や移ろいを表現する男性。断片化された手話のコラージュを共鳴させ、「合奏」を紡ぐ6人の男女。心臓の鼓動のリズムを相手に渡し、呼吸を合わせながら変奏させていくカップル……。これらは、日本語の歌詞に手話を対応させた従来の「手話歌」のように、聴者にとっての音楽を置き換えたものではない点で、「聾者にとっての音楽とは何か」というアイデンティティの探求であると言える。
ただし、「無音の映像化」には両極面があるのではないか。生の舞台で見せるのではなく、「映像化」することのメリットとして、繊細な指先の動きや表情のクローズアップに加え、海辺や大樹など自然の波動を感じさせる風景を舞台装置として切り取ることが可能になる。一方で、「無音の映像」は聾者の知覚する世界そのままだろうか。ここには、彼らが「音楽のようなもの」を感じ、感情が動かされると語る、風の揺らぎや生身の肉体の発するオーラ、すなわち皮膚感覚の共振が欠けている。この映画を見る聴者は、「音のない世界」を疑似体験できても、聾者の知覚世界そのものを体験することはできない。接近しようとすればするほど、むしろ埋められない差や距離が露わになる。
音をシャットダウンすることで、むしろ際立つのは、運動の視覚性の純粋な抽出である。光が明滅するようにひらひらと舞う、素早い手の動き。空間のなかに裂け目や空隙を探しながら縫い合わせるように、新たな空間を切り開くように、何かに逆らって、あるいは身を委ねて流れるように、指先の震えが空気を震わせ微細な階調をつくり出していく。時間の展開のなかに、リフレインや変奏、アンサンブルの重層性が加わることで、無数の動きが引き出され、重ね合わせられていく。『LISTEN リッスン』を体験しているうちに感じたのは、「音(音楽)がない」のではなく、むしろ「音(音楽)が付けられていたら邪魔だ」という逆説的な確信である。
ここに至って、ダンスと音楽の同根性が開示される。ダンスは音楽であり、音楽はダンスである。あるグルーヴの胎動を感じれば、そこに「音楽」を感じうるし、何らかの情動的な要素が見る者に感じ取られることで、「身体を動かすこと」は「ダンス」と呼ばれるようになる。おそらく両者の根源は繋がっていて、耳で聴覚可能な要素で切り取れば「音楽」、身体の運動(フォルムとその変形)という視覚的要素から見れば「ダンス」と呼称されているにすぎない(従って、ダンスは「音楽」を内包しており、優れたダンサー/表現者の身体にはそのことが宿っている。たとえ微細な動きであっても、それは音の伝播のように空気を伝わって見る者の皮膚感覚を振動させ、思わず身体が動いたり、心が動かされるのだ)。
逆に言えば、本作は、無音=視覚性のみを切り取り、聴覚可能な「音」から「音楽」を切り離すことで、「音楽」の核を掴み出してみせると同時に、「ダンス」に内在する「音楽」との同根性を浮かび上がらせ、ダンスが純粋な身体の運動のみに完全には還元できないことを照射している。この地平においては、聾者/健常者という区別は存在しない。

2016/08/07(高嶋慈)

ヒトラー、最後の20000年~ほとんど、何もない~

会期:2016/07/24~2016/08/21

本多劇場[東京都]

KERAと古田新太が組んだ「ヒトラー、最後の20000年」を観劇。政治的な風刺というより、いやユダヤ人のネタを含めて、あまりに不謹慎でさえあるが、内容を説明しようにも、最初から最後まであまりに支離滅裂で、サブタイトルが示唆するように「ほとんど、何もない」。が、最後まで飽きさせず、笑いを誘う破壊力を放つ。見事な演技と脚本である。演劇でしか表現できない間の絶妙さも鍵なのだろう。

2016/08/04(木)(五十嵐太郎)

鈴木ユキオほか「公共ホール現代ダンス活性化事業」

会期:2016/08/01~2016/08/03

東京芸術劇場[東京都]

上演作品だけが舞台芸術批評の対象ではないはずだ。例えば、ワークショップ(以下WS)というものがある。批評の埒外とされがちだが、作品の内在分析にとどまらず、作家の狙う芸術と社会との関係性を批評しようとする際、WSはその重要な1項目となるのではないか。WSは、アーティストの芸術観や思想が凝縮された形で、しかも、一般の参加者にも理解できるような仕方に整理された上で表現される場である。そもそも、上演作品は観客を受動的にするのに対して、WSは観客を能動的な参加者にする。その点で、WSには観客のあり方(もちろん、それに基づいた観客とアーティストの関係)を更新する可能性が秘められてはいないか。ぼくは今後、機会を見てWSを見学あるいは参加し(あるいはBONUSで企画し)、批評に試みてみようと思う。以下は、その最初の試みである。
「ダン活」の全体研修会(アーティストプレゼンテーション)を見てきた。「ダン活」とは一般財団法人地域創造による「公共ホール現代ダンス活性化事業」のことである。地域の公共ホールにダンス作家を派遣して、公演を行なったり、WSを行なったり、WSを経た後地域住民と公演を行なったりする活動である。この日は、派遣登録した6組の作家がプレゼンテーションし、客席側の公共ホールの関係者たちと実際に体を動かした。作家は、鈴木ユキオ、田畑真希、赤丸急上昇、東野祥子、田村一行、セレノグラフィカ。WSというものは「動かす/動かされる」という権力関係の発生する場である。ダンスは自由で生き生きとした表現の場と見られる一方、動きを支配する教師側と支配される生徒側とに分かれ、生徒側に自由はないということが起きる。学ぶとはそういうものだと言う者もいるだろうし、生徒とは嬉々としてそうした関係の渦中で学ぶ者だと言うこともできよう。体を動かすだけで十分に快楽がある。すると、作家の促しに答えるだけで満足は得られる。ただし、WSが単に受講者に与えるだけではなく、受講者とともに作るものとするなら、この状況は受講者を受け身にしすぎている。興味深かったのは、鈴木ユキオと田村一行という舞踏をルーツに持つ二人が、ともに「動かされる」自分を意識して欲しいと受講者に促していたことだ。受け身である(リアクションの状態)とはどういうことなのか。さらに興味深かったのは田村が、ひとを構成するのは多様なアクションに対するリアクションではないか、社会との多様な刺激への応答こそ自分であると言えるのではないかという趣旨の発言をしていたことだ。ダンスが社会へ貫通していることを示すこうした言葉こそ、ダンスの作家は発明しなければならないはずだ。

2016/08/02(火)(木村覚)

プレビュー:S/N×ガールズ・アクティビズム パフォーマンス『S/N』記録映像上映&トーク

会期:2016/09/10~2016/09/11

同志社大学 寒梅館 クローバーホール[京都府]

7月、古橋悌二《LOVERS》の展示期間中に行なわれたダムタイプの作品上映会で、『S/N』(1994年初演)を見逃した方へ。ゲイや障碍者といったマイノリティの問題を扱っていると考えられることが多い『S/N』だが、記録映像の上映と合わせたトークでは、「女性のセックスワーカー」「パスポートコントロールを受ける日本人女性」が作中に登場することに焦点を当て、「女性」という視点から『S/N』を考える予定だという。弾丸のように繰り出されるテクストの投影、モノローグ/ダイアローグの挿入など、情報量の多さとあいまって、見る度に新たな思考を触発する『S/N』とともに拝聴したい。

2016/07/31(日)(高嶋慈)

渡邉尚×Juggling Unit ピントクル『持ち手』

会期:2016/07/29~2016/07/31

アトリエ劇研[京都府]

ジャグリングとダンスという異ジャンルを接触させることで、「身体と物との関係を再度問い直す」企画。2組のジャグラー+ダンサーによる、男女デュオ作品の2本立て公演が行なわれた。創作条件は、ジャグリング用の道具を使うことのみ。好対照な2作品が上演された。
ジャグラー・山下耕平とダンサー・川瀬亜衣による『ながい腕』は、「クラブ」と呼ばれるジャグリング用の道具(ボウリングのピンを細長くしたような形状)を用いて、ジャグラー/ダンサーそれぞれの動きをシンプルに対比的に見せていた。冒頭、慣れた手つきで、3本のクラブを次々と空中に投げ、キャッチを繰り返す山下。握ったクラブの感触を確かめ、ゆっくりと身体になじませるように動かす川瀬。特に、クラブを起点に身体を動かしながら、左右の手に持ち変えたり回転させるユニゾンのシーンでは、ダンス的な運動の中に両者の対比が際立つ。次の動きへの流れに無駄がなく、身体の動きのラインがクリアに見える川瀬に対して、山下の場合、クルクルと小気味よく回転するクラブの動きが前景化する。どちらも身体を使うが、身体の動きを見せる/モノを動かす(モノの動きを見せる)という、微妙な意識のズレが浮上する。
同じ道具を使いつつも平行線を見せるダンスとジャグリングだが、ふっと両者が接近する瞬間がある。ユニゾンによって運動の熱が伝播するかのように、山下がクラブを扱う手さばきをどんどん高速化させることで、前後左右に激しくドライブする身体が、モノの制御から半自律化した「ダンス的な動き」を描き始めるのだ。だが、ダンスへの接近は、制御可能な速度を超えた動きについていけず、「クラブを手から落とす」というアクシデントによって、何度も中断させられてしまう。
ダンスとジャグリングの関係を、平行線/接近と度重なる中断として見せていた本作には、やや物足りなさを感じた反面、より掘り下げればもっと面白くなる可能性を感じた。具体的なレベルでは、例えば、両手をクロスさせてクラブをキャッチするなど「左右の軸の交差」、放り投げたクラブを一回転してキャッチする際の「身体の回転軸」といった身体感覚はどう意識されているのか。ダンサーの意識との相違点はあるのか。抽象的なレベルでは、「身体のコントロール、訓練を通して規律化された動き、身体の矯正」といった観点から考えることが可能だろう。それは、「ダンス」へのさまざまな問いを誘発するに違いない。ダンサーは、身体のコントロールに向かうのか、制御を逃れたところに運動の自由さを見出そうとするのか。制御やコントロールを外れた動きは「ダンス」と言えるのか。モノ(もしくは他者)は、動きを誘発するのか抑制するのか。ある動きを「ダンス」と規定する文脈はどこにあるのか。ダンスが身体の訓練・矯正としての側面を持つならば、ダンスの内部からの自律的な要請(「振付」と呼称される)/外部から規定される振る舞い(法令や規則など明文化されたルール、ジェンダーや文化的慣習など社会的に形成された観念、スポーツの応援や軍事パレードなどにおける身体的同調性)とはどう異なるのか。そうしたさまざまな問いを喚起することで新たな対話が始まれば、ダンス/ジャグリングにとって刺激的な試みになるに違いない。

一方、渡邉尚と倉田翠の『ソラリス』では、ダンス/ジャグリングという区別はいったん括弧に入れられ、ジャグリング用の白いボールは道具としての役割から解放され、シーンによって様々な見え方や連想を誘っていた。四つん這いで動く2人は、ヒトから獣へと自在に変貌するが、4本の足は、大地を踏みしめるのではなく、床に転がった白いボールの上を飛び石のようにしか移動できない。それは、奇妙な野生の獣の習性を眺めているようだ。点々と転がる白いボールは、2匹の獣の足跡のようにも、口にくわえた獲物のようにも見える。そうした連想の自由さを支えるのが、2人の肉体の強靭さとしなやかさだ。とりわけ、ジャグリングとダンス、双方の経験を持つ渡邉の肉体は、驚異の柔軟性と軟体変化を見せる。
地を這う動物の水平的世界から、人間のもつ垂直的な構築性へ。動物への擬態によって表わされる攻撃性や防衛本能、縄張り意識から、共同作業へ。本作の流れはそう概観できるだろう。「持ち玉」として抱え込み、相手に投げつける白いボールは、領土の比喩であるとともに、相手を物理的に攻撃する弾丸となる。しかし相手を攻撃すればするほど、領土は縮小し、手持ちの物資は少なくなっていくという皮肉をはらむ。そうした対峙の関係は、終盤、2人が口と手を使ってボールを柱のように積み上げていくシーンにおいて、垂直的な祈りのような行為へと昇華されていた。

2016/07/31(日)(高嶋慈)