artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
さいたまトリエンナーレ2016

会期:2016/09/24~2016/12/11
さいたまトリエンナーレ[埼玉県]
◯◯トリエンナーレ(ビエンナーレ)が急増しているが見方がわからない。どうやっても、確保した時間内に展示のすべてを見きることはできない。映像作品が多いとなおさら、どこまで見たら見たことになるかわからない。ふと立ち止まったただの傍観者みたいにするほかないかとか、遠路はるばるやって来たのだから旅行客気分でいようかとか、いつまでもいわゆる「鑑賞者」の体裁を整えられず歯がゆい。とくに都市の場合、街中にすでに大量の情報が多層のレイヤーをなして存在しており、展示はそこに割り込む形になる。街にあふれるサインの方が刺激的で、アート鑑賞を気取るための静けさを獲得できない。都市にはレイヤーが多すぎるのだ。かたや、新潟や瀬戸内での展示は、レイヤーが乏しい。〈自然〉と〈人の営み〉と〈アート〉くらい。だから集中して見るし、結果として満足感が得られやすい。昨年、越後妻有アートトリエンナーレを大学生と見学旅行した際、ある学生が「スマホが繋がらなかったのが良かった」と言っていたのを思い出す。都市型のトリエンナーレはその点で不利だ。
さいたまトリエンナーレに行った。大宮区役所の岡田利規の展示、岩槻の旧民俗文化センター、武蔵浦和の旧部長公舎などを5時間くらいで巡った。都市型のトリエンナーレでしばしば起こる、会場エリアの地域性が反映されていないという批判には応答していて、どの作品もさいたまとその周辺を取り上げたものだった。岡田の作品は、役所職員のためのかつての厨房を劇場にし、かつてゴキブリやねずみの出た過去のその場の様子を台本化して役者が読み上げる、その様がカーテンをスクリーンにして映写された。あるいは岩槻ではアダム・マジャールが、駅のホームで電車を待つ人々を超低速の映像に収め展示した。「さいたま」を表象することは、越後妻有を表象するように「過疎」としてではないし、もちろん東京を表象するように「世界都市」としてでもない。同行したある学生が、この地域の特徴は「殺風景なところ」と称した。そう、まさに。行きの電車で見た高層マンションの群れ。「さいたまらしさ」とは、特徴のなさ、言い換えれば、日本の多くの街がそうであるような「のっぺらぼう」さなのだ。例えば、過疎地のトリエンナーレでは食が意外に重要なアイテムとなる。さいたまには食はあふれているが、ここでしか食べられないものは少ない(あるいは目に入りにくい)。とはいえ、多くの作家は「何か」を発見したくて掘り進む。その結果、縄文期に突き当たったのが高田安規子・政子《土地の記憶を辿って》。民家の障子などに、かつて住んでいただろう動物たちが描かれ、縄文期のこの場を想像させる。そうやって隠れたレイヤーを掘り起こす作業は確かにひとつのやり方だろう。でも、例えば縄文期というレイヤーは、さいたま以外のどの地域でも見出せるはずだ。
多数のレイヤーがありながら「のっぺらぼう」であるというさいたまのような地域の「地域アート」とは、過疎とも世界都市とも言い難い平均的な日本の暮らしを代表するものだし、その状況を批評すると結構興味深いものになりうるのではないか。けれども、市の事業としてある限り、どうしても「未来の発見!」のようなポジティヴなテーマを立てざるを得ず、結果「のっぺらぼう」というネガティヴな部分に向き合うことは難しくなる。しかし、ただの思いつきだが、あえて地元の悪口言い合うくらいのことをした方が、地元は盛り上がるかもしれない。本音を吐き出すことで、市民参加が促され、「未来の発見!」も進む、というものかもしれない。『翔んで埼玉』(魔夜峰央)の再ブームも記憶に新しい。そりゃあそんなことすれば、「ヘイトスピーチ?」との勘違いが起きたり、途端に騒がしい事態になることだろう。だからこそ秀逸な場のデザインが求められる。そういうところにアーティストの才が要請されるというものではないのかな。
2016/10/22(土)(木村覚)
六本木アートナイト2016

会期:2016/10/21~2016/10/23
昨年まで春に行なわれていたのに、今年は秋に開催。なにか深謀遠慮があるのか、単に準備が遅れただけなのか。調べてみたら、2020年の東京オリパラ関連の「スポーツ・文化・ワールド・フォーラム」に絡めるためらしい。文科省の主催なのできっとお金も出るのだろう。どうでもいいけど。さて、六本木ヒルズでは久保ガエタンの《Smoothie》が注目を集めていた。映像と回転する大きな箱からなる作品で、まず映像だけ見ると、ごく普通の室内風景が映し出されているが、いきなり服や日用品がポルターガイストみたいに舞い踊り始める。そのとき隣の箱は回転しているので、箱の内部が室内のように設定され、そこに固定したカメラが回転し始めた室内を撮影していることがわかる。アイデアとしては珍しくないけど、わかりやすくておもしろいので人気だ。回転ものでは、六本木駅前に設置された若木くるみの《車輪の人》も、場所が場所だけに注目を集めていた。ハムスターなどが遊ぶ回し車を拡大し、若木本人が走り続けるというパフォーマンスで、本当に昼間も夜中も走っていた。ごくろうさんだ。街なかでは、ビルの空き部屋を使ったイェッペ・ハインの《Continuity Inbetween》がすごい。直径10センチほどの穴をあけたふたつの壁を2、3メートル離して向かい合わせに立て、片方の穴からもう一方の穴へ水を飛ばすという作品で、水は放物線を描いて穴に吸い込まれていく。これはどこかで見たことあるけど、見事。屋外では、フィッシュリ&ヴァイスの映像作品《事の次第》をビルの壁に映し出し、駐車場でそれを見るというのもあった。夜中に見に行ったら大勢集まっていた。人気があるというより、みんな終電が終わってほかに行くとこないんじゃないか?
2016/10/22(土)(村田真)
サエボーグ「Pigpen」

会期:2016/10/07~2016/10/23
A/Dギャラリー[東京都]
ギャラリーの奥に全長10メートルはあろうかという巨大ブタが横たわっている。ツヤのいいラテックス製の薄ピンク色のお肌とつぶらな瞳が艶かしい。モニターには母ブタの尻から子ブタが産まれるシーンが映し出され、数匹の子ブタは乳を吸い、2匹の子ブタは(中に人が入って)観客に愛想を振りまいている。「六本木アートナイト」の中日なので人が多く、子ブタもやりがいがありそう。でもひとりの幼児が「こわいよ! こわいよ!」と泣き叫んだら、子ブタは土下座のポーズ。そこまでしなくてもいいのにと思ったが、四つんばいなので頭を下げれば土下座になってしまうのだ。どうでもいいけど。
2016/10/22(土)(村田真)
THE PLAY since 1967 まだ見ぬ流れの彼方へ

会期:2016/10/22~2017/01/15
国立国際美術館[大阪府]
1967年に結成され、関西を拠点に活動している美術家集団「プレイ(THE PLAY)」。彼らの特徴は、パーマネントな作品をつくることではなく、一時的なプロジェクトの計画、準備、実行、報告を作品とすることだ。例えば《現代美術の流れ》という作品は、発泡スチロールで矢印型のいかだをつくり、京都から大阪まで川を下った。また《雷》では、山頂に丸太で約20メートルの塔を立て、避雷針を設置して、雷が落ちるのを10年間待ち続けた。中心メンバーは池水慶一をはじめとする5人だが、これまでの活動にかかわった人数は100人を超えるという。彼らの作品は形として残らないため、展覧会では、印刷物、記録写真、映像などの資料をプロジェクトごとに紹介する形式がとられた。ただし、《雷》《現代美術の流れ》《IE:THE PLAY HAVE A HOUSE》など一部の作品は復元されていた。資料展示なので地味な展覧会かと思いきや、彼らの独創性や破天荒な活動ぶりがリアルに伝わってきて、めっぽう面白かった。プレイの活動のベースにあるのは「DO IT YOURSELF」の精神と「自由」への憧れではないだろうか。時代背景が異なる今、彼らの真似をしてもしようがないが、その精神のあり方には憧れを禁じ得ない。
2016/10/21(金)(小吹隆文)
冨士山アネット『Attack On Dance』

会期:2016/10/20~2016/10/23
KAAT神奈川芸術劇場[神奈川県]
どうして自分はダンスを志すようになったのかを、10人のダンサーが次々あらわれて語るところから舞台ははじまった。とはいえ、この舞台での見所は、彼らのダンスではない。彼らの存在を通して、ダンスとは何か、ダンサーとは誰か、こうしたダンサーを生み出す社会とはどんな社会かを浮き彫りにする。そう、ダンサーが登場する前に「What is Dance ?」といった言葉が、狂言回し役の長谷川寧から口にされるように、今作はダンスの分野では珍しくコンセプチュアルな作品である。近年の長谷川の興味関心は、コンセプチュアルにダンスを探求するところに向かっているようで、今年2月には横浜で『DANCE HOLE』という出演者は観客のみという異色の作品を上演してもいる(フライヤーには「本作は出演者の居ないダンス公演」と銘打たれていた。そこでは観客は闇から聞こえてくる長谷川の指示通り動くことで、自ら踊り、踊りながら観客役もこなすこととなった。)。冨士山アネットといえば「ダンス的演劇(テアタータンツ)」と称し、ダンスの観客のみならず演劇の観客の心もつかむポップなセンスが定評を得てきたカンパニーである。いわゆるダンス作品を精力的に制作してきた長谷川が「What is Dance ?」と立ち止まっている。その問いがそのまま舞台になっている。10人のダンサーに長谷川は禁欲を求める。彼らが自分のダンスを踊るのは最後の5分くらいだ。そこに至るまでの間、彼らは、稽古日数や師匠の数、どれだけお金を積まれたらダンスをやめるかなどの質問に答えてゆく。客席からは、高額な衣装代を惜しまぬダンサーにため息が漏れたり、ダンスへの偏愛に笑いが起きたりする。彼らが各自のダンスを踊り終えると、スクリーンに「ダンスは世界を変えるのか?」との問いが映り、次に「世界はダンスを変えるのか?」に変わる。興味深かったのは、スポーツと比較しつつ、スポーツも無意味な運動だがダンスはもっと無意味ではないか、ダンスは社会的な意義がある運動なのだろうかと、長谷川が問いかけるところだ。ダンス中毒者たちが舞台に展示され、その生き様が露出される。彼ら(自分)は一体何者なのか?彼ら(自分)を生んだ社会とは?長谷川のやるせない思い、不安や戸惑いが伝わってくる。ダンスへの愛ゆえの疑いが舞台を推進させる。舞台上の人間の実存が取り上げられるということで言えば捩子ぴじんの『モチベーション代行』(2010-)と重ねたくなる。そう思うと、もっとダンサー一人ひとりのダンスへの愛憎を醜いまでに浮き彫りにしても良いような気もしてくる。社会科学的なエスノグラフィカルな方法を導入してもよいだろうし、あるいは、ダンス中毒者の物語としてもっとドラマ性を帯びた舞台にしても良いのかもしれない。ダンサーたちを社会的な現場に連れて行き、その場を彼らがどのようにダンスによって変えるのか、またその場によってダンサーがどう変貌するのかといったドキュメンタリーもあり得そうだ。本上演は、2015年2月の初演を経て、北京、サンパウロと上演を重ねた上でのものだという。確かに、このフォーマットは、いろいろな地域のいろいろなダンサーに登場してもらうことで異なる上演が生まれるという巧みなアイディアを含んでいる。そのフォーマットが、より研究的なものなり、あるいはダンサーという実存の物語としてよりドラマ的に深まっていくとしたら、と想像してしまった。こうした活動を続けて行った先で長谷川が見つけるものに期待してみたい。
関連レビュー
冨士山アネット『DANCE HOLE』:artscapeレビュー|木村覚
2016/10/20(木)(木村覚)


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