artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN 篠田千明『ZOO』

会期:2016/11/11~2016/11/13

京都芸術センター講堂[京都府]

受付で荷物を預けると、会場となる講堂に入る。人工芝とその間には通路が。あちこちに棕櫚が置かれ、南国のムード? いや、ここは「動物園」なのだ。いわゆる客席はなく、観客は芝生にしゃがむか、立っているかすることになる。まずその空間に、めまいのような快楽を覚える。「動物園」は、いわゆる劇場と異なり、視線の誘導が単純な一方向ではない。観客はしばらくの間、あたりをうろうろし、自然を自由にぐるぐる回す。囲いにはヘッドマウントを付けた半裸の男が居る。男の見ている画像は近くのモニターが映し出している。パフォーマーはあと二人の女性。二人は床に寝そべり、自分の輪郭を床にトレースする。そんなところから、舞台は始まった。とはいえ、本物の動物園がそうであるように、物語の筋のようなものはない。観劇という形態が生き物の観察へと変換される。旭山動物園のペンギンの行進を模した、アナウンス音声も盛り込んでのシーンなどが設けられることで、オルタナティヴな演劇へと篠田は観客を導く。それは「人間を観察する」演劇であり、言い換えれば「人間を展示する」演劇だ。しかも、人間が人間を観察する/展示するという対等な次元を超えており、非人間が観察するための展示になっている。自ずとそれは人間じゃないものとして人間を展示することにもなる。例えば、エサが配られると、ヘッドマウントの男(前が見えない)に観客は餌付けを行なう。これまで演劇とは、人間が人間に向けて行なう何かであった。『ZOO』は、そういう「演劇」をやめてみるレッスンみたいなものだった。最後のシーン。薄暗闇で、三人が聞き取れない言語で会話をする。まるで、密林の山奥で文明以前の暮らしを覗くような体験。世界から取り残され、心もとない気持ちにさせられるのは、三人ではなく、観客のぼくたちだ。それはまるで宇宙から地球を見つめるような寂しさだ。『ZOO』は、そんな孤独な視点を展示した作品だった。

公式サイト:KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2016 AUTUMN

関連フォーカス

舞台芸術を支えるローカルな土壌と世界的同時代状況への批評性──KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2016 AUTUMN|高嶋慈:artscapeフォーカス

2016/11/11(金)(木村覚)

頭と口「WHITEST」

会期:2016/11/05~2016/11/06

KAAT 神奈川芸術劇場[神奈川県]

ジャグリング公演というので、大道芸の好きな息子と行ってみる。でも想像していたものとずいぶん違って、たしかにジャグリングの要素もあるけど、舞踏的でもあれば新体操っぽくもあるし、あまつさえカーリングの要素まで入っていて、おもしろいといえばおもしろいのだが、ジャグリングとして見ても舞踏として見ても物足りなさが残る。息子は満足しなかった模様。

2016/11/06(日)(村田真)

フェスティバル/トーキョー16 「x / groove space」

会期:2016/11/03~2016/11/06

東京芸術劇場 シアターイースト[東京都]

客席と舞台の区別がまったくなく、観衆巻き込まれ型のパフォーマンスである。観衆の隙間を狙って動くダンサーは、都市の雑踏で普段われわれがやっていることの誇張のようにも思われた。後半は紙吹雪の乱舞から、みんなの掃除まで自ずと参加する流れになる。蛍光灯でノイズを出す伊東篤宏の音や、独特な舞台美術もよかった。

2016/11/05(土)(五十嵐太郎)

KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN 松根充和『踊れ、入国したければ!』

会期:2016/11/03~2016/11/06

京都芸術センター[京都府]

松根充和の『踊れ、入国したければ!』は、アメリカ国籍のダンサーが、「アブドゥル=ラヒーム」というイスラム系の名前を理由にイスラエルの空港の入国審査で止められ、ダンサーであることの証明として「その場で踊ること」を強要された実話に基づくパフォーマンス。舞台(フィクション)と客席(現実)を隔てる「第4の壁」は、上演開始とともに早々に取り払われ、松根は「松根充和」という個人としてそこに立ち、観客に向けてフランクに語りかける。偶然、ネットのニュースで事件の記事を見つけたこと、このダンサーの所属する「アルヴィン・エイリー・アメリカン・ダンスシアター」は1958年に創設された名門であり、ゴスペルやブルースをモダンダンスと融合させ、当時の黒人公民権運動とともに黒人の自由を訴えるものであったこと……。ここで突きつけられるのは、自由と尊厳を勝ち取るための表現だったダンスが、人種差別の下に管理や強制の対象になってしまうという皮肉な事実だ。松根は「DVDを見て習得した」このダンスカンパニーの代表作の1シーンを、自らの肉体を駆使して実演してみせる。踊ることの自由や解放が、ハードな身体訓練を経て渾身の力を振り絞って踊ることの肉体的苦痛へと変容し、私たち観客はいつしか、踊りを強要した入国審査官の立場に立たされていることの気まずさを味わう。


左:© Michikazu Matsune 右:撮影:守屋友樹

一方で松根は、当の事件に関するドキュメンタリー的要素を一切不在にしたまま、「情報」の背後にあるものへと想像力を向けさせようとする。彼はどんなダンスをどのように踊ったのか。入国審査官はどんな反応を見せたのか。彼らが笑顔で拍手を捧げたことはありえないだろうか。松根自身による「ダンスの実演」においても観客は、「本来は群舞のシーンであり、周囲で踊る他の8人のダンサーがいること」を想像しながら見るように促される。「想像すること」は硬直化した現実を揺るがす武器となる。イントロダクションで、松根が「眉毛を顔から消してください」「眉毛を口ヒゲの位置に下げてください」と観客に課す。それは、作品中で、松根自身が「剃った眉毛を口ヒゲとして貼り付けた」顔写真を抗議者のように掲げ、それが実際に証明写真として認可されたパスポート(!)を見せるシーンにおいて、「見知らぬ私」として固定化されたアイデンティティを解除するエクササイズであったことが了解される。
終盤、松根は字幕を通して語りかける。「子どもの頃、海を見るのが好きだった。(……)世界を自由に旅することを夢見た。僕はうまく踊れていますか? 入国審査官たちは入国を認めてくれるだろうか? 僕は、水平線の向こう側まで行けるでしょうか?」それは、くだんのダンサーの立場を自らの身に引き受けながら、ラディカルな問いかけと想像力をもって、あらゆる物理的/想像的なボーダーを越えていこうとする強い意志の宣言である。
また、上演会場内では松根による企画展『世界の向こう側へ』が開催され、「境界」「越境」をテーマとした国内外の美術作家8名(榎忠、ムラット・ゴック、アルド・ジアノッティ、マレーネ・ハウスエッガー、レオポルド・ケスラー、ミヤギフトシ、パトリシア・リード、ジュン・ヤン)の作品が展示された。なかでも、トルコとシリアの国境線のフェンスを切り取り、ハンモックを吊るして寝そべる命がけのパフォーマンスを敢行したムラット・ゴックの作品は、自らの肉体的駆使とユーモアによってオルタナティブな想像の回路を提示する姿勢において、松根作品と通底していた。

公式サイト:KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2016 AUTUMN

関連フォーカス

舞台芸術を支えるローカルな土壌と世界的同時代状況への批評性──KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2016 AUTUMN|高嶋慈:artscapeフォーカス

関連レビュー

古典のラディカルな読み替えと「通過」の分水嶺──木ノ下歌舞伎『勧進帳』

2016/11/04(金)(高嶋慈)

KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN 木ノ下歌舞伎『勧進帳』

会期:2016/11/03~2016/11/06

京都芸術劇場 春秋座[京都府]

現代演劇の演出家とタッグを組んで歌舞伎の古典演目を上演する木ノ下歌舞伎は、演出に杉原邦生を迎え、主君に対する弁慶の忠義の物語として知られる『勧進帳』を、現代における複数の境界をめぐる物語として読み直した。平家を倒すも、兄・頼朝に謀叛の疑いをかけられ追われる身となった義経一行は、山伏に変装して関所を越えようとする。義経一行ではないかと疑う関守の富樫に対し、機転を利かせた弁慶は、「本物の山伏」の証明として、ニセの巻物を「勧進帳」に見せかけて暗唱し、難を逃れる。だが、強力ごうりき(荷物を運ぶ従者)に変装した義経が怪しいと疑われ、弁慶は疑いを晴らすために主君を打ち、その忠義に打たれた富樫が通行を許す、というのが『勧進帳』の粗筋だ。


撮影:井上嘉和

だが木ノ下版『勧進帳』は、戦略的なキャスティングによって、批評的なエッジが際立つものとなった。弁慶には巨漢のアメリカ人俳優を、義経には性別適合手術を受けて「女性」となった俳優を配役。実際の歌舞伎では女形が演じることの多い義経だが、発声や容姿は両性具有的な存在感を放ち、特に「関西弁をしゃべるガイジン」が演じる弁慶は、標準語で話す一行の中でひときわ異質さを際立たせる。ここでは、セリフとしては一切明示されないものの、俳優の身体的条件が(日本)社会の中でのマイノリティを体現し、それゆえ彼らは「通過」を許されず「排除」の対象と見なされるのだ。

加えて秀逸なのが、義経の部下/富樫の部下を、同じ4人の俳優たちが場面ごとに入れ替わって演じる仕掛けである。役が固定されず流動化することで、状況次第で排除する側/排除される側のどちら側にもなりうることを示唆する。また、彼らの衣装が警備員や特殊部隊を思わせることも、ここでの「関所」が現代的な状況として敷衍されるものであり、国境線の通過を許可/拒否する入国審査や検問所、そこで人種や国籍などの差異を根拠として排除が正当化されることを強く示している(このテーマは、同じく「KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN」で上演された松根充和『踊れ、入国したければ!』と共通するものであった)。
だからこそ、「和気あいあいとした義経一行に憧れるも、コミュニケーションが苦手でうまくなじめず、疎外感とともに一人取り残される富樫」をやや感傷的に描くラストの落としどころは、作品の持つ批評的な方向性から浮いている感じがして惜しまれた。「現代の若者像の等身大の日常」へ収束してしまったように感じられ、テーマ性への掘り下げがあと一歩欲しいと思わせた。

公式サイト:KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2016 AUTUMN

関連フォーカス

舞台芸術を支えるローカルな土壌と世界的同時代状況への批評性──KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2016 AUTUMN|高嶋慈:artscapeフォーカス

関連レビュー

「境界」と「越境」をめぐるイマジナリー──松根充和『踊れ、入国したければ!』

2016/11/03(木)(高嶋慈)