artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

神村恵+津田道子『知らせ』

会期:2016/03/04

森下スタジオ スタジオS[東京都]

振付家・ダンサーの神村恵と映像を用いた制作に取り組んでいる津田道子とが共作したパフォーマンス作品。とても刺激的な舞台だった。なにより刺激的だったのは、2人が喋りながらパフォーマンスを行なうというところだ。普通、ダンスの舞台でダンサーは喋らない。たいていの場合、ダンサーは自分に集中しており、その集中の焦点を観客は探り探り鑑賞する。そういうものだ。それが今回の神村は、津田と終始対話をしながら、舞台を構成してゆくのだ。躊躇なく津田は、踊る神村に話しかける。「いま神村さんどんなこと考えているんですか」など、と。すると神村は、踊りながら、自分の現状を言葉にしていく。津田の言葉はもちろん、神村の言葉も一種の批評的な営為といえるだろう。批評が舞台上演という層の上に乗っているというよりは、舞台へと流し込まれてゆく。「ダンスって演劇的な記号性と違って、日常とも少し違って」などと(正確にこう言っていたわけではないけれど)神村は口にしながら、踊る。観客はその様を、笑いながら見る。このメタ・レヴェルが介入する、そのことについ笑ってしまうのだ。これに似たものといえば、あれだ、コントだ。コントは知的だ。コントはドラマと違って、ある役柄を演じながら、その役柄にちゃちゃを入れる視点を許す。コントとは異なり、出来事が「スペクタクル」化するとき、たいていその出来事はこうした知性の介入を許さない。神村と津田のパフォーマンスのなかにも笑いの知的要素、例えば風刺やパロディの要素が盛り込まれてはいる。例えば、何もはめ込まれていない額縁を取り出して、神村は舞台のあちこちにあてがってみる。そうすることで、神村は映像に取り組む津田の行為を「こういうこと?」と、反省してみる。しかし、当然だけれども、2人の目的は観客を笑わせることではない。だから互いが互いに向けるメタ・レヴェルのコメントは、単に過剰なデフォルメを生むためではなくて、2人の芸術的行為を観察し、考えることに差し向けられている。ダンスの上演でしばしば感じることがある。ダンサーも観客も上演のさなかでは、黙っているものだが、この(約束事の)関係性でよいのか、少なくともそれだけでよいのか、と。この関係が当然の設定であると考えているあいだは、しばしば、ダンスは「不思議ちゃん」の行ないであることを強いられる。無言の微笑を投げかけ、投げかけられた者たちのあいだで展開するのは、微笑の意味・ニュアンスを探るコミュニケーションだろう。そんな19世紀のロマンチック・バレエの頃から相変わらずの、踊り子と観客との疑似恋愛的な関係性とは別の空間があってもよい。言葉あるいは知性が介入して(見る者と見られる者との逢瀬が邪魔されては)は、ダンスは「パフォーマンス」と呼ばざるを得なくなるかもしれないが、それでも構わない。ダンスと映像というメディアへ向けられたメタ・レヴェルの導入は、二つのジャンルの形式性を探る、知的探究に満ちた、それゆえにとても快楽のある(前述した観客の笑い声は快楽を得ている証拠だろう)、稀有な類のパフォーマンス/ダンス公演を生み出していた。

2016/03/04(金)(木村覚)

プレビュー:イデビアン・クルー『ハウリング』

会期:2016/03/18~2016/03/20

世田谷パブリックシアター[東京都]

井手茂太率いるイデビアン・クルーの新作。結成から25年目を迎えるというのだが、井手さんのポップかつひねりの効いたダンスは、「日本のコンテンポラリー・ダンス」というものの真ん中に据えるべきものだと、筆者はかねてから考えてきた。難しい振付ではない。誰でも踊れそうな踊りだし、事実、子ども番組やポップソングのPVでも井手さんのダンスを見ることができる。はっきりとそう意識しているか否かは別として、井手さんのダンスは世間に深く浸透しているのだ。だからといって、単なるポップな踊りとも違って「ひねり」があり、そのねじれをほぐしていくと「日本社会」や「人生」といった大きなテーマが隠れていたりする。それもそうだから、なによりすごいと思わされるのは、すでにダンスはどこから生まれるのか、なぜ人は踊るのかという問いに、ちゃんと答えながら踊りが存在しているところだ。まだ未見の方は、今回のチャンスをお見逃しなく。

2016/02/29(月)(木村覚)

劇的舞踊「カルメン」再演

会期:2016/02/19~2016/02/21

KAAT神奈川芸術劇場[神奈川県]

ビゼーの音楽を再構成しつつ、四つん這いや五本指の足をフル活用する身体の動きによって、古典的なバレエを解体しながら、奔放なジプシーの情熱を表現する。今回は言葉の語り手として、学者の役も一応登場するが、ダンスだけでも十分に人間の複雑な関係が表現されているのに感心させられる。壁設計に田根剛の名前を見つけた。次の作品でも共同するようだ。

2016/02/21(日)(五十嵐太郎)

『赤レンガダンスクロッシング for Ko Murobushi』(「〈外〉の千夜一夜 Vol. 2」)

会期:2016/02/18~2016/02/22

横浜赤レンガ倉庫1号館[神奈川県]

昨年初夏に逝去された室伏鴻がオーガナイズする予定だったイベントの一部を、桜井圭介と大谷能生のキュレーションで実現したのが、この公演。「ダンスクロッシング」の名称は桜井圭介がおもに吾妻橋のアサヒ・アートスクエアを会場に行なってきたタイトルを踏襲している。まるでコンピレーションアルバムのように、多数のアーティストの上演を一夜に収めるこのイベントらしく、今回も前半後半(をレコード盤の言い方を模してSIDE AとSIDE Bと呼び)に分かれ、毎夜7組(全9組)がパフォーマンスを行なった。レコード盤と違うのは、上演時間が予定をはみ出しトータルで4時間に及んだこと。その理由は推測するに、多くの上演が作品というよりセッションだったことにありそうだ。当日のパンフレットには、アーティストの名前が列挙されているが、作品タイトルは(わずかな例外を除き)記されていない。この場は、なるほどオマージュ対象の室伏のパフォーマンスに似て、アーティストの力量がダイレクトに発揮され、ぶつかり合う場であった。空間現代はucnvの動画(まるで油絵の具で描かれたような室伏の映像がスクラッチされる)の前で演奏し、岡田利規は旅についてのエッセイを朗読し、捩子ぴじんは安野太郎の楽器装置の前で踊った。ラッパーのJUBEと山川冬樹と大谷能生のセッションは圧巻だったが、力と力がぶつかり合えばそれだけ、室伏鴻のソロ・パフォーマンスとの違いに敏感になった。いや、室伏もしばしばセッションのパフォーマンスを行なった。そんな場で、セッション相手に優しくなる室伏にいつも不満だった。そう、セッションは人間的な部分が如実にあらわれるぶん、ソロの室伏が持っている構造的な側面、構造を揺るがすことでダイナミックな時間を生むといった方法的側面が消えてしまうのだった。方法的な衝撃が訪れないまま、激しいぶつかり合いが続いてゆく。core of bellsは、彼ららしい寸劇で、さりげなく「4’33”」の上演を行なった。観客が怒り出すのではないかとひやひやするくらい、無為の沈黙が続いた。こういう方法的なトライアルが心に残っている(彼らの上演にはタイトルがあった。『遊戯の終わり』)。ところで、このイベントで一番観客の心をざわざわさせたのは、間違いなく、客入れや幕間に流れたSEALDsや(おそらく)ECDのデモ中の音源だった。「ア・ベ・ハ・ヤ・メ・ロ」などのシュプレヒコールは、音楽にも聞こえるが、音楽的な表現という範疇をはみ出し、社会へと放り出された叫びだ。このイベントは見方を変えれば、この幕間のコールとその前後のアーティストの表現とがSIDEを交替し続けたものと、解釈することができる。表現において作家は自分自身の個の才能を発揮しようとする、そのぶん、内向きだ。「ア・ベ・ハ・ヤ・メ・ロ」のコールは、それを始めたのが誰かもわからない、匿名の抑揚であり、だから社会へと顔を向けている。どちらを抜きにしても、今日において「パフォーマンス」を語ることは難しい。そうした現状を明示したところが、筆者が見るに、このイベントの最大の成果だろう。そうか、室伏はSEALDsを知らぬまま逝去したのだった。でも、おそらく、たいして興味を示さなかっただろう。室伏はローカルにこだわらないノマドを志向したダンサーだったから。そう思うと、室伏という存在の特異性ばかりが、際立ってくる。

2016/02/21(日)(木村覚)

大森靖子ワンマンライブ「HELLO WORLD! MYNO. IS ZERO」

会期:2016/02/18

赤坂BLITZ[東京都]

考えてみると、彼女が歌うのを生で見るのは三度目である。おそろしく研ぎ澄まされた前衛でもなく、マーケティングの戦略的なキャラ造形でもない。超雑食的なアヴァンギャルドとでもいうのだろうか。現代のつぶやきを電波的に受信する強烈な歌詞が響く。そしてアンコール後のひとりの弾き語りがやはり一番すごかった。

2016/02/18(木)(五十嵐太郎)