artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
足立智美×contact Gonzo「てすらんばしり」
会期:2016/03/26~2016/03/27
京都府立府民ホール“アルティ”[京都府]
「KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRING」公式プログラム観劇7本目。
ヴォイスパフォーマー・作曲家の足立智美×contact Gonzo×ワークショップ参加者の子どもたち、という異色の組み合わせ。contact Gonzo×子どもたち、足立智美×子どもたち、そして足立智美×contact Gonzoという3項の組み合わせが、身体と音、ルールと即興、遊戯と真剣性、演出と逸脱、予定と不調和、軽やかさと過激さのあいだを行き来しながら繰り広げられた。また、「身体と音」をめぐるさまざまな位相─接触や衝突による身体そのものが出す音、声、それらの電気的な変換と増幅─が全編を通して主題化されていた。
会場の京都府立府民ホール“アルティ”は、通常は演劇やダンス、音楽コンサートの会場としてプロセニアム式の舞台を備えているが、舞台が取り払われ、剥き出しになった更地の空間が出現したことにまず驚く。観客は周囲を取り囲んで座り、闘技場のような楕円形の空間で起こる出来事を見つめる。足立智美が登場し、壁にプロジェクションされた、殴り書きのようなカラフルな図形や線描について説明する。これらは子どもたちとのワークショップでつくった図形楽譜であり、日用品や声を使って出したさまざまな音を図形化したものだという。説明を続ける足立に、contact Gonzoのメンバーが突然、体当たりをかまし、そのまま乱闘へ。演出なのか偶然なのか判然としない、先の読めない展開が続く。予測不可能な、即興的な身体のぶつかり合い。そのスリリングな応酬と身体のぶつかる鈍い音を、間近で見つめること。身の内に、不可解な衝動が熾火のようにうずき出す。さらに、パフォーマーの身体にはマイクが取り付けられており、拾った音が変調・加工されて発せられる。肉体の接触と同期して響く、鉄パイプで殴ったような金属音や電子音。それらの音は、肉体どうしがぶつかり合う衝撃の強さを、音響的に増幅する。

足立智美×contact Gonzo「てすらんばしり」
Photo: Yoshikazu Inoue
しかし、暴力すれすれの肉体の衝突と高まるスピード感を体感するカタルシスは、あっけなく崩壊する。偶然にも(?)、客席からもれた、怖がる赤ん坊の泣き声。観客の笑い。そして、一陣の風のように舞台上を駆けぬける子どもたち。10人ほどの子どもたちは、contact Gonzoのメンバーと身体の応酬を繰り広げた後、彼らだけで「子ども版」contact Gonzoをプレイする。無邪気で真剣なその遊戯は、信頼と承認と痛みの共有と他者への開かれという、contact Gonzoの(技法でなく)思考の核をつかみ出して見せていた。相手も肉体を備えた存在であることの承認、その承認を自らの肉体を差し出すことによって得ること、痛みも含めて相手との関係性の中で起きたことを無条件に受け入れること。
そして足立智美×contact Gonzoとなった終盤は、テスラコイルと台車という2つの装置を駆使した圧巻のパフォーマンスが繰り広げられた。テスラコイルとは、放電によって稲妻を発生させる共振型変圧器である。その真下に、ヘルメットを被って立つcontact Gonzoメンバーたちは、足立の乗った台車にロープを付けて引っ張り、大きな円を描いてぐるぐると回転させる。足立が変幻自在に操るヴォイスパフォーマンスは、不可解な言語を、目まぐるしく音程を変化させながら、狂った再生機のように超高速で繰り出してみせる。その声の高低に合わせて、テスラコイルの放電がコントロールされており、激しい放電音それ自体が、太く鋭い金管楽器のように轟音の音程を奏でる。一方、頭上で炸裂する放電の圧力と音の緊張感がcontact Gonzoメンバーの身体に負荷をかけ続け、足立の乗る台車の遠心力を加速させ、ヴォイスパフォーマンスをヒートアップさせていく。身体と声、それぞれのパフォーマンスが互いにフィードバックし合い、密度と緊張感を極限まで高めていく。一見、無意味でナンセンスな危険な「遊び」に、真剣に全力で身を投じるとき、拘束や負荷の中に浮上する、コントロールや表象の操作を離れた身体。それが何ものかへの抵抗として切実に感じられる限り、私たちは彼らのパフォーマンスに何度でも魅了されるだろう。
足立智美×contact Gonzo「てすらんばしり」
Photo: Yoshikazu Inoue
2016/03/26(土)(高嶋慈)
さいたまトリエンナーレ2016 記者発表会

会期:2016/03/25
日本外国特派員協会[東京都]
この秋さいたま市で開かれる「さいたまトリエンナーレ」の概要発表。ディレクターは芹沢高志で、テーマは「未来の発見!」、おもなアーティストは、秋山さやか、チェ・ジョンファ、日比野克彦、磯辺行久、目、西尾美也、野口里佳、大友良英、小沢剛、ソ・ミンジョン、アピチャッポン・ウィーラセタクンら約40組。ま、要するに各地に乱立するトリエンナーレとかわりばえしないということだ。もちろん展覧会の外枠はかわりばえしなくても、場所が変われば作品も変わる。その意味で、各アーティストが「さいたま」でどれだけモチベーションを高められるかが見どころだ。会期は9月24日から12月11日まで。場所は与野本町駅から大宮駅周辺、武蔵浦和駅から中浦和駅周辺、岩槻駅周辺の3エリア。
2016/03/25(金)(村田真)
KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRING ショーケース「Forecast」国枝かつらプログラム

会期:2016/03/20~2016/03/21
京都芸術センター フリースペース[京都府]
「KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRING」公式プログラムとは異なる視点から舞台表現を紹介することを目的に、外部キュレーターを招聘し、ショーケース形式で新進作家を紹介する「Forecast」。丸亀市猪熊弦一郎現代美術館学芸員、国枝かつらによるプログラムでは、「声と身体」に焦点をあてた作家3名が選出された。
中でも出色だったのが、梅田哲也の「COMPOSITE」。フィリピン山岳地帯の村の子どもたちと2014年に制作した作品が、再構築されて上演された。声と身体という最小限の要素を用いて、ルールの設定に即興を組み込むことで、共鳴と不調和が織り成す豊穣で示唆的な世界をつくり上げている。
6人の男女が輪をつくり、「アレアレウッウッ」という独特の掛け声を発しながら、腕や肩や太ももを叩き、足踏みを鳴らして、一定のリズムを反復する。全員が同じリズムパターンではなく、向き合った2組ごとに三つのパターンが掛け合わされる。リズムが途切れると、輪を左周りに回転させ、少しリズムパターンを変化させて、掛け声や手足を叩く音を繰り返す。原始的な儀式のような光景だ。構成要素はミニマルだが、パターンの選択と順列、声の高低、身体を叩く部位に関する複数のルールがおそらく設定されているのだろう。単純な要素の反復とズレによって多様なパターンが生成され、声と身体の音が折り重なった音楽を立ち上げていく。パフォーマーたちは皆、目をつぶっており、それぞれに課せられたルールを順守しようと内側への集中を高めるとともに、外部の音へと聴覚を研ぎ澄ましているように見える。
しばらくすると、客席から6人の子どもたちが飛び出し、もうひとつの輪をつくって同じような掛け合いを始める。しかしお互いの発するリズムがズレているため、二つの輪は完全には同期せず、不協和音が波紋のように広がっていく。そのうち、別の大人の男女6名が舞台上に加わり、単調な節回しのメロディを歌いながら、一歩ずつ前進と後退を繰り返し始める。第三勢力の登場だ。この第三勢力は、輪をつくっていた二つのグループにはない「能力」を有しており、1)(おそらくルールに従って)一歩ごとに移動できる、2)移動先で接触した相手を同じメロディに吸収することができる。こうして、身体の接触を契機として、集団内で共有されていた「ルールの順守」にほころびが現われ、徐々に崩壊していく。掛け声や足踏みを反復していた輪のパフォーマーたちは、ひとり、またひとりと単調な節回しのメロディを歌い、輪から外れてバラバラな方向へ歩き始める。大人の輪も子どもだけの輪も解体し、混ざり合い、輪郭が溶け合っていく。古いルールの崩壊と新たなルールの浸食、ひとつの共同体の解体と融合のはざまに出現する、カオティックな音響世界。
そして暗転と一瞬の静寂後、灯りに照らされた空間には、全員が同じ単一のメロディを歌う姿が出現した。ノイズは排除され、「美しく」調和した音楽だけがそこにある。ただし目を閉じたまま、お互いがどこにいるかも分からない暗闇の中、バラバラな方向への一進一退を繰り返しながら。それは他者への共鳴や共感が浸透した世界なのか、それとも個々はバラバラに分断されたまま、支配的な単一の旋律が全体に波及し飲み込み覆っていく過程の恐るべき出現なのか。
ショーケース「Forecast」国枝かつらプログラム/梅田哲也「COMPOSITE」
Photo: Tetsuya Hayashiguchi
2016/03/21(月)(高嶋慈)
プレビュー:福留麻里企画ダンス公演『動きの幽霊』『あさっての東京』

会期:2016/04/08~2016/04/10
STスポット[東京都]
4月は今月のレビューでも取り上げた、福留麻里と神村恵に注目したい。STスポットで福留麻里の新作二本が上演される。『動きの幽霊』は時間がテーマで、過去とは本当に存在しているのか?見ていたものは本当に存在していたのか?と問う。福留本人に本作のことを聞くと、「3.11」以後の自分たちの地盤や自分自身が不確定になってしまったという気持ちが、背景にあるのだという。「自分がなにからできているのか」が知りたくなったというのだ。それでベースが「ラブストーリー」であるというのが謎といえば謎だが、福留曰く「案外ベタで攻めている」とのこと。つまり、スリリングな方法が展開されていつつもポップな作品に仕上がりそうだ。もう一本の『あさっての東京』は、神村との共作。これも時間がテーマで、それはタイムマシンと関連しているらしい。どちらも、今日的なダンスを目にする絶好の機会になるに違いない。
2016/03/21(月)(木村覚)
トリシャ・ブラウン・ダンスカンパニー「Trisha Brown: In Plain Site」
会期:2016/03/19~2016/03/21
京都国立近代美術館 1階ロビー[京都府]
「KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRING」公式プログラム観劇6本目。
トリシャ・ブラウンの初期作品群をオムニバス形式で上演する本作。(90年代に発表された1作品を除き)1973年~1983年の約10年間のエッセンスを凝縮したプログラムが、京都国立近代美術館の1階ロビーにて上演された。数分~10分ほどの小作品が計13個、吹き抜けの階段や天上高のあるロビー、10mほどの壁など、開放感ある空間の中で移動しながら上演される。客席はなく、観客もまた移動しながら鑑賞する。
白が基調の空間に、白に統一された衣装のダンサーたちは、ニュートラルで幾何学的に構成された振付を淡々と繰り返す。だが、水平/垂直、直角や斜線、並列の正面性/向き合った左右対称性など身体の向きの変化、フォーメーションの変化、空間との関係性など、さまざまなバリエーションを加算的に加えていくことで、運動の見え方は複雑に変化する。また、幾何学的に分節化された単位の反復がズレをはらむことで、ダンサーの従事する運動そのものは変化しなくても、観客の知覚の方が変容する。ミニマルで抑制の効いた振付と構成の明晰さが、そのことをより際立たせる。一方で、45度に傾けた棒の角度をキープしながら、頭や爪先など支える身体部位を入れ替える、横倒しにしたダンサーの身体を数人で支えながら、壁=90度回転した床であるかのように歩かせるなど、空間を身体で測定していくような試みもなされる。作品はいずれも、数理的な構成や幾何学的な厳格性において徹底しているが、同時にユーモアをたたえ、ボーカル入りの楽曲の使用とあいまって、とても軽やかだ。
(メディウムとしての)身体の即物性、分節化された単位への還元、単位の反復とズレによる知覚の変容など、ミニマル・アートとの共通性。制度的空間であると同時に物理的スケールに規定されたミュージアムの空間、その中で特権的な眼差しとして振る舞いながらも、身体的存在であることから逃れられない私たち観客。そして、通常は「物質的」存在である芸術作品を収集・保存・展示する美術館において、テンポラルでエフェメラルな「舞台芸術」の「再演」を行なうこと。本作の上演は、約30~40年前のブラウンの諸作品の単なる回顧にとどまらず、生成された時空間の限定性から切り離されたかたちで「作品」を収集・提示する「美術館」の制度性を浮き彫りにするとともに、再生装置としての可能性をも示唆する。「美術館」の空間で上演されることの(複数の)意義が、十分に感じられた公演であった。
トリシャ・ブラウン・ダンスカンパニー「Wall Walk(from Set and Reset, 1983) 」
レンバッハハウス(ミュンヘン)、ダン・フレヴィンギャラリー 2014
(c)
Städtische Galerie im Lenbachhaus und Kunstbau München
2016/03/20(日)(高嶋慈)


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