artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

アイアン・メイデン

会期:2016/04/20~2016/04/21

両国国技館[東京都]

最近ここで相撲を見たばかりなので、靴を脱いでの升席など、不思議な雰囲気である。久しぶりに見たアイアン・メイデンだが、年齢をあまり感じさせないパフォーマンスだった。世界ツアーゆえに、最新の技術に頼らず、世界各地の施設のスペックに関係なく対応できる幕を採用することで、簡単に背景を変化させるローテクなシステムや、ハイライトで突然登場する巨大空気人形のエディなど、なるほどの演出である。

2016/04/20(水)(五十嵐太郎)

神村恵・福留麻里「あさっての東京」

会期:2016/04/08~2016/04/10

STスポット[神奈川県]

神村恵と福留麻里が構成・演出・振付の一作。言葉と身体動作の関係がとても興味深い作品だった。冒頭、二人が並び立ち、次に神村一人が残ると、手にした「い・ろ・は・す」を指して「これやります」と一言。「い・ろ・は・す」を床に置くと、「い・ろ・は・す」を模倣し始めた。今度は福留が「これやります」と別のものを指して模倣を始める。その模倣に時間の要素が加わる。「これの10分後をやります」。ある時は、突然、最前列の観客を手招きし、椅子に座らせて、その観客の「60年後をやります」と口にし、福留は老いた体を「模倣」して見せた。「10分前をやります」とか「1年後をやります」とか、時間に関連する言葉が発せられると、観客はおのずとなんとなくそれはこういうものかなと曖昧なイメージを思い浮かべてしまう。神村や福留は、その言葉を発した後、ポーズをとったり、小さく動いたりする、すると観客は自分が思い浮かべたイメージと目の前の身体とを並べたり比べたりすることになる。普通、ダンス上演には言葉は持ち込まれない。そして、動作は抽象的であることが多い。観客は目の前の動作がダンサー(振付家)のどんな意図に動機づけられているのかを探りながらも、しばしば探りきれずに抽象的な動作を見ることになる。ときに観客は動作に潜む真意を追いかけづらくなる。それに対して、今作での言葉は、観客と神村・福留の二人を結ぶひとつの場になっていた。もちろんここでの言葉と身体の関係は、言葉が答えで身体がその答えに迫る、といった単調なものではない。もっと謎めいていて、その分豊かなものになっている。これは少しだけものまね芸に似ている。ものまね芸も最初に模倣する対象を伝え、次に模倣を実演するから。模倣対象のイメージと模倣した内容が一致することよりもむしろずれていることで、観客は笑う。この構造に近いとも言えるが、二人は笑いを求めているわけではなく(観客はときに大いに笑ったが)、置かれた言葉から喚起されたイメージと目の前の身体動作との距離を測ることが遊びとして用意されているようだった。観客の心の動きを「言葉」が置かれることで、いわば「振り付ける」作品だったといえるのかもしれない。

2016/04/08(金)(木村覚)

Q「ふくらはぎにおQをすえる~シャルピー編~」蒼いものかvol.3

会期:2016/04/08~2016/04/10

pool桜台[東京都]

市原佐都子が主宰するQの新作上演。その前半。タイ人ということなのだろうか、東南アジア系の女性に扮した女の子がコミカルなポーズを交えながら観客に向けてしゃべりまくる。それが一言も分からない。おそらく食堂で働いていて、客とのいさかいを話題にしているようだ。動作のリズムだけではなく、言葉もリズミカルなので、細部が分からなくとも見入ってしまう。そもそも女の子がしゃべっている言葉は、ぼくが理解できないというよりは、市原が自由に創作したデタラメ語だろう。そうなると、この言語を理解できる人は一人もいないわけだ。誰一人として理解できない言葉で突き進んでいく演劇。まずこれに驚いた。徹底して観客に媚びない舞台はQの専売特許だけれど、観客が分からないなりに分かった気になる状態に陥るのも織り込み済みで、さて、この「分からないなりに分かる」という「間違いながら突き進むしかないコミュニケーション」という事態こそ、Qが前提にしている誠実な人間と人間の関係ということなのだろう。後半、もう一人の女(日本人)が入ってきて、ことは重層化する。アパレル関係の仕事で東南アジアに来ている潔癖症の彼女は、アジアの食べ物が口に合わないし、食堂の女の子が動物に見えてしまう。異文化との接触から起こる女の子の変容が丁寧に描かれる。生理的な身体レヴェルの反応をベースに、「今日の日本女性」の感性にデリケートに迫る力量は、今回も素晴らしかった。

2016/04/08(金)(木村覚)

ボリス・シャルマッツ / ミュゼ・ドゥ・ラ・ダンス「喰う」

会期:2016/03/26~2016/03/27

京都芸術劇場 春秋座[京都府]

「KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRING」公式プログラム観劇8本目。
ほぼ剥き出しで何もない舞台空間上に、13人のダンサーたちが点在する。年齢、性別、肌の色、体型もさまざまなダンサーたち。舞台と客席の垣根はなく、観客はダンサーと共有した空間内を自由に移動しながら、鑑賞する。原題の「manger」は「食べる」を意味し、「美術館の中でダンサーの身体を見せる」というコンセプトで始まった「ミュゼ・ドゥ・ラ・ダンス」の名前がクレジットされているように、本作は「食べる行為に没頭する人間の身体を見る」体験を軸としながら、さまざまな連想や思索を喚起させ、荘厳な美しさと挑発性をたたえた作品だった。
A4ほどの大きさの白い紙を手にして立つダンサーたち。彼らはおもむろに、紙の端から食べ始めたり、小さくちぎって口にしたり、くしゃくしゃに丸めて飲み込み始める。無心に食べ続ける者、吐き出した白い塊を何度も飲み込もうとする者、床に横たわったり座り込んで咀嚼する者……。動物のような鳴き声がどこかから聴こえる。憑りつかれたように、食べる行為を止めないダンサーたち。自分の手足を舐めたり、まくり上げた服を噛み始める者もいる。やがて彼らはトランス状態に陥ったかのように、目を閉じたまま手足を軽く揺らし、ハミングのような音を口から漏らし始める。その音は離れたダンサーどうしの間に伝播し、音の共振を生み、やがてオーガニックな歌唱のハーモニーを形成していく。


ボリス・シャルマッツ / ミュゼ・ドゥ・ラ・ダンス「喰う」
Photo: Yuki Moriya

「食べる」「舐める」「吐く」、「歌う」、「声を出す」。内部への摂取と外部への表出。「口」のさまざまな運動に従事するダンサーたちは、孤独な行為と集団的な共振のあいだを行き来する。静かな時間と全体が活性化する時間。観客もまた、ダンサーの動きの動/静や時間の活性化の度合いに応じて、一カ所に留まった注視を迫られ、あるいは運動体としてかき混ぜられる。そこで目撃するのは、「何かを食べる」というシンプルな動作が引き起こす、身体の変容だ。食べることへの欲望と、それが度を越したときの不快感。もはや立ち上がれず、地べたを這うような鈍い動き。痙攣したような身体。忘我のトランス。ぶつかった身体どうしが折り重なり、激しい愛撫なのか相手を力で支配しようとする欲望なのか定かでないコンタクトを繰り広げる。特権的な中心が無いなか、ひとつの声が全体に波及し、共鳴し、哀悼を捧げるような聖歌のハーモニー、楽しげなポップソング、クラブで踊っているようなノリのダンス、それぞれの言語で口々に語りかける行為を発生させる。床に身を横たえながらも何かを語りかけ、白紙の紙を掲げる人は、デモの痛ましい犠牲者の姿に重なる。また、複数の声部が重なり合って、レクイエムのような合唱を響かせるシーンでは、自らの身体をかき抱くようなダンサーの身振り、すすり泣きのような声、暗めに落とされた照明効果とあいまって、感情的な強度が極限まで高まり、激しく感情を揺さぶられた。
食べることの快楽と嫌悪。宗教的恍惚感と、ビートにノったダンスやドラッグ摂取によるトランス。政治的抗議と犠牲者への哀悼。個人と集団。拒食症や過食症といった病。ダンサーたちが口にする「白紙」が抽象的な存在であるからこそ、宗教的な恍惚感、クラブや祝祭などの非日常的な空間、ドラッグの摂取によるトランス、デモの一体感などの、むしろ同質性こそが浮上して見えてくる。とりわけ、聖歌のような歌唱や、「食べる」儀式で共同体が形成されることには、西欧社会の根底にあるキリスト教への含意が強く感じられた。「血と肉」の共有、ビート音楽、覚醒物質、イデオロギー。摂取するものこそ違えど、体内に取り込むことで「一体感」を醸成するさまざまなものへの示唆が、「白紙」に込められている。そして、共鳴するハーモニーの美しさと、共鳴体の一部に取り込まれてしまうこと。ダンサーとの身体的な近さもあいまって、感情的な共振作用が非常に強いと同時に、「入退場不可」という密閉された空間の中、エモーショナルな空気の集団的感染力に自身の身をさらし、「観客」であることを手放させる危うい危険性もはらんだ作品でもある。私たちの身体と感情はそれほど脆く、集団的な伝播作用を受けやすいものであり、そこでは宗教的な恍惚、ドラッグやクラブで踊ることの快楽、政治的抗議、といった「正しさ」の判断や倫理はもはや関係ないのだ。
ただし最後に、本作が提起する問題のうち、「拒食症や過食症」と女性の身体についての疑問を記しておく。「食べること」への脅迫的な衝動や吐いては食べる動作の反復は、明らかに拒食症や過食症の問題を示し、「ダンサーの身体」へ向けられる社会的期待を露わにする。それが感取されやすいように、ガリガリに痩せた女性と、豊満な体型の女性の出演者が登場し、体型的なコントラストを形成していた。だが、そうした「出演者の選別の意図」は、一様に引き締まった体型の男性出演者には見られなかった。ここには、女性の身体と「美」や「健康」の基準をめぐる問題が、なお根深く横たわっている。

ボリス・シャルマッツ / ミュゼ・ドゥ・ラ・ダンス「喰う」
Photo: Yuki Moriya

2016/03/26(土)(高嶋慈)

マヌエラ・インファンテ / テアトロ・デ・チレ「動物園」

会期:2016/03/25~2016/03/27

京都芸術センター 講堂[京都府]

「KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRING」公式プログラム観劇9本目。
1990年までピノチェト独裁が続いた南米チリで、「ポスト独裁主義世代」を代表する新鋭、マヌエラ・インファンテと、彼女が主宰する演劇グループ「テアトロ・デ・チレ」による演劇作品。ユーモアに富みながら、知的な批判性が冴えわたり、多岐にわたる問題群を提起する。支配的な言語と権力、科学とフィクションの境界、西洋近代的な知と帝国主義、文化の「保護」に内在する支配/被支配関係、「異民族の展示」という負の歴史、西欧/非西欧の非対称性、眼差す行為と倫理性、他者の「模倣」、ポスト植民地国のアイデンティティ、「演じること」とアイデンティティの決定不可能性、翻訳の(不)可能性……。
「動物園」は、「絶滅したと思われていた原住民の生き残り2名を発見した」文化人類学者によるレクチャーという形式で展開する。学者たちは、モニターで写真や映像、グラフなどを見せ、ダーウィンの『進化論』を引用しながら、スペインの入植以降、迫害と抑圧を受けて減少の一途をたどってきた原住民インディオの歴史について、観客に語りかける。スペイン語で語る学者の言葉は、日本語字幕で表示されるが、PCで字幕を操作する女性も舞台端に姿を現わしており、通常の外国語上演においては透明な媒体であるはずの「字幕」の存在感をアピールし、「話者はいったい誰か」という問いを提示するとともに、この「レクチャー」自体の虚構性を露呈させる。
どこまでが本当かフィクションか曖昧なレクチャーに続いて、「原住民の生き残り2名」が連れて来られる。彼らがフルフェイスのヘルメットを被せられているのも、「発見」後は秘密裏に研究室に隔離されていたのも、文化の純粋性の「保護」のためであると説明される。(異)文化の「保護」に潜む支配関係と、隔離や監視というかたちを取ったその発動。続けて、原住民との「ファーストコンタクト」の経緯、「トゥソイヨ」という彼らの名前、口頭伝承のみで文字言語を持たないこと、習慣的言動や身体的特徴などが、「証拠映像」を用いてレクチャーされていく。だが、「証拠映像」の存在は、逆説的にレクチャーの胡散臭さを強調し、モニターはたびたび「故障」する。接触不良を起こしたモニターに映るカラーバーに反応し、謎の踊りと歌を儀式めいた所作で行なう原住民たち。彼らは、大音響で流されるポップソングやノイズにパニック状態を起こし、舞台裏へ退場させられてしまう。そして、身体的にも非力で、技術的発展や防衛本能を持たないとされる彼らは、「他者を模倣する文化」によって今日まで生き延びてきたことが、生存の重要な秘密として告げられる……。
だがここで、「退場」した原住民が白衣を着て現われ、PCを無言で操作すると、字幕が次のように告げ始める。「「トゥソイヨ(Tu soy yo)」とは、スペイン語で「あなたは私」を意味します。私は本当は文化人類学部の教授です。ご覧の通り、彼らはほぼ完全に姿を消してしまいました」。つまり、「模倣の文化」によって生き延びてきた原住民たちは、自分たちを観察していた文化人類学者の言動を「コピー」することで、観察者と被観察者の立場を入れ替え、優位関係を逆転させてしまっていたのだ。「動物園」とは、観察者の振る舞いそれ自体を、研究室という彼らにとっての「自然環境」において「観察」する、という非肉な装置に他ならない。
この痛快などんでん返しは、真実を告げるというより、むしろ真偽の境界を曖昧な決定不可能性のうちに宙吊りにしてしまう。いかにも学者然としてレクチャーを行なっていたのが、実は原住民による「演技」なのであれば、その時「原住民」役を演じていたのは、「本物の」学者ということになる。「これは演劇である」と了解済みで見ていたことが、二重の意味で「演じられていた」という、虚構の二重性。そこでは、言語によって規定されるアイデンティティもまた、確固なものではなく、容易く溶解・反転してしまう。「トゥソイヨ」という固有名それ自体が、自/他の区別の溶解、アイデンティティの決定不可能性を名指しているのだ。このシンプルな一文にはまた、西欧と植民地をめぐる権力関係とその転倒、そして両者のいびつな鏡像関係が書き込まれている。「あなたは私」という文は、植民地に対して同化・馴化を要請する命法であるとともに、優位的文化のコピーによってアイデンティティを内部から撹乱し書き替える「擬態」の戦略(ホミ・K・バーバ)でもある。そしてこのトリックが、「スペイン語圏以外の観客」に対してのみ有効に発動することを考えるとき、そこにはまた、字幕という補助装置に頼らざるを得ない「外国語の上演」「国際演劇祭」における翻訳の(不)可能性についての問いも横たわっている。

上:マヌエラ・インファンテ / テアトロ・デ・チレ「動物園」2014
(c) Valentino Zald var


下:マヌエラ・インファンテ/テアトロ・デ・チレ「動物園」
Photo: Yoshikazu Inoue

2016/03/26(土)(高嶋慈)