artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

マンスリープロジェクト リーディング公演「門」別役実作

会期:2016/07/24~2016/07/25

新国立劇場小劇場[東京都]

主に欠勤中の公務員と靴みがきの門番によるシンプルな設定から始まり、会話が続くなかで両者の立場と状況が変容し、だんだん物語がねじまがっていく、別役実の作品らしい展開だ。最後になって、カフカの小説「門」ともオーバーラップしていく。朗読劇ながら、ミニマムな舞台美術も効果的だった。

2016/07/24(日)(五十嵐太郎)

プレビュー:あいちトリエンナーレ2016 虹のキャラヴァンサライ

会期:2016/08/11~2016/10/23

愛知芸術センター、名古屋市美術館、名古屋市内のまちなか、豊橋市内のまちなか、岡崎市内のまちなか[愛知県]

3年に1度、愛知県で開催される現代アートの祭典。3回目の今回は芸術監督に港千尋を迎え、「虹のキャラヴァンサライ 創造する人間の旅」をテーマに、国内外100組以上のアーティストによる国際展、映像プログラム、パフォーミングアーツなどが繰り広げられる。またプロデュースオペラ「魔笛」の公演も行なわれる。テーマの詳細は公式サイトで調べてもらうとして、今回の大きな特徴は、豊橋市が会場に加わりますます規模が拡大したこと、キュレーターにブラジル拠点のダニエラ・カストロとトルコ拠点のゼイネップ・オズらを招聘し、参加アーティストの出身国・地域が増えたことなど、拡大と多様化を推し進めたことが挙げられる。この巨大プロジェクトを、港を中心としたチームがどのようにハンドリングしていくかに注目したい。個人的には、豊橋市が会場に加わることを歓迎しつつ、酷暑の時期に取材量が増えることにビビっているというのが正直なところ。前回は1泊2日で名古屋市と岡崎市を巡ったが、今回は1日1市ずつ3回に分けて取材しようかなと思っている。

2016/07/20(水)(小吹隆文)

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新聞家『帰る』

会期:2016/07/08~2016/07/10

NICA|Nihonbashi Institute of Contemporary Arts[東京都]

今作は「座る」作品だった。男女二人、向かい合わず、どちらも観客に顔を向けて座る。メロン(美術担当の川内理香子によって毎回異なる果物が用意されたという)が切られ、二人は食べながら話をする。対話というのではない。二人は交代で独り言のように話す。台詞は前回ほどではないけれども、耳に残りにくい。二人の言葉は、不安や、誠実さをめぐって、具体的には、傾いでしまったマンションとそこからの退去をめぐって紡がれている。言葉、その発話、食べること、座ること、また二人が横に並ぶこと。これらのどれもが等距離で並ぶ。「演劇」がしばしば演劇的身体の構築にその他のすべての要素を従属させてしまうのに比べると、新聞家の舞台はすべての要素が並立している。といいつつ、これはじゃあ「舞台」なのか。そもそも「演劇」なのかと問いたくもなってくる。観客は、ぼーっとしてくる。眠いわけではない。一般的な「演劇」のように一方向に収斂していない分、観客は集中力を求められ、いつか「苦い」ような顔になってしまう。(この状態をダンス史で形容するならば、イヴォンヌ・レイナーの「トリオA」みたいだと言ってみたくなる。レイナーはこの作品を観客に見ることの難しさに気づいてもらうために作ったという)換言すれば、いかに既存の演劇が「演劇」であることに縛られているかが新聞家を見ていると分かる。「ファッション・デザイナーではないひとが作る洋服」のように、洋服ではあるにはあるが「洋服らしさ」に縛られていない何かに身を包まれる。そんな風に、新聞家の演劇には「演劇」が引き算されている。この大胆なマイナスが、この作品を文学にも、朗唱にも、食事会にも、絵画にもする。ぼくにはこの作品は絵画的だった。果物を食べる男の肖像画と女の肖像画を二枚、50分かけて見続ける、そんな絵画的質を伴う鑑賞だった。ほとんど動かず座り続ける役者たち。目は自ずと凝視に変わり、細かい仕掛けに目を奪われる絵画鑑賞のよう。しかし、絵画が空間に質を閉じ込めたのに対してここでは質は時間のうちに閉じ込められている。要素の「並立」が生む、独自の演劇は、「演劇」よりもネット的情報需要に似ている。(この感じに似たものをあえて探すならば、core of bellsの「デトロイトテクノ人形」に似ている)多種類の情報ソースがどれもヒエラルキーなしに目や耳に飛び込んでくる状態。そこには「演劇的身体」に相当する「身体」は特にない。そんな「身体」を探そうとすると、途端に本作が「抜け殻」に思えてくる。抜け殻が初めて与える何か、それこそ新聞家が提示する演劇なのだ。アフタートークから類推するに、村社祐太朗はその「何か」に「愛」を見ているようだ。ヒエラルキーの支配を停止して初めて生じる見ること聞くこと。そこには対象への愛を生む余地がある。複雑で「モダン」な経路をくぐって実は愛へと達するのが新聞家なのだ。

2016/07/10(日)(木村覚)

enra単独公演PROXIMA仙台公演

会期:2016/07/10

電力ホール[宮城県]

各メンバーがそれぞれに専門をもち、コマ回し、バレエ、新体操、武術、パントマイムなどを担当し、背後のCG映像と連動しながら、複合的なダンスを行なう。エンターテイメントとしては十分楽しめるが、最先端ではない(先端風だけど)。あまりにも内容が断片化されすぎていることや、大きい舞台であっても、結局は彼らの動きが小さいスクリーンに縛られすぎていることが気になった。

2016/07/10(日)(五十嵐太郎)

Noism劇的舞踊Vol.3「ラ・バヤデール─幻の国」

会期:2016/07/01~2016/07/03

KATT神奈川芸術劇場[神奈川県]

NOISM「ラ・バヤデール」@KAAT。平田オリザが参加したことによって、満州を想起させる政治的な設定が与えられたことよりも、イッセイ・ミヤケの衣装、各民族を表現する色彩、力強いカルメンに続く田根剛の空間デザイン(柱群のフォーメーションが変化することで場面の変化を表現し、最後は傾けて廃墟感を演出したり、舞台の左右でクロスする橋掛りを設けた)などの審美的な印象が残った。特に後半のアヘンによる幻想的な集団舞踏の場面が息をのむような美しさで、圧巻である。

2016/07/03(日)(五十嵐太郎)