artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

あわれ彼女は娼婦

会期:2016/06/08~2016/06/26

新国立劇場 中劇場[東京都]

栗山民也の演出による17世紀の戯曲「あわれ彼女は娼婦」@新国立劇場。アナベラ(蒼井優)と兄(浦井健治)の近親相姦がもたらす悲劇と狂気の作品である。脇役それぞれの愛憎の物語も、これに絡んでいく。壊れた額縁の向こうの舞台の床に、傾いた巨大な赤い十字架がセットとして設えられ、それが全場面を通じて効果的に用いられる。シンプルだが、シンボリックな舞台美術。これは上階の席の方がよく見えるかもしれない。

2016/06/16(木)(五十嵐太郎)

プレビュー:新聞家『帰る』

会期:2016/07/08~2016/07/11

NICA (Nihonbashi Institute of Contemporary Arts)[東京都]

昨年の1月から新聞家を見ている。作家の村社祐太朗のことは「モダニスト」と思っている。「方法意識が高い」といった程度の意味だが、その徹底ぶりはそんな大仰な呼び名をつい用いたくなるほど。役者が立ち、声を発し、やがて歩いて出て行くまでを、可能な限り「たまたまそうした」という程度の振る舞いにはならないよう村社は強く念じている。そう見える。とはいえ、張り詰めた舞台には、実は滑稽さがつきもの。「なぜ声が出るのか」への考察が深まると、声が出ることと出ないこととの間の薄皮一枚が気になってくる。薄いが皮には厚みがあって、そのありさまがほどかれると、ときに悶絶を禁じ得ぬほどおかしい。今回の上演に際してウェブ上で公開している「『帰る』に寄せて2 「単純化」」でも、そんな「薄皮」を村社は話題にしている。こういう些細すぎて、吹けば飛ぶような何かが人のうちにあるということを、そっと確認するように客に耳打ちしてくれるのが演劇というものならば、そしてその演劇に期待して、そう多くはないが、きちんと適度な数の人たちが客席を埋めるのならば、演劇には今日も存在意義があるように思う。あと、いつも会場を吟味して、美術の作家と共作して、毎度異なる方法上のチャレンジをちゃんとやっているのが素晴らしい。「演劇」をテンプレートとして全く捉えていない。だから見ていられるのだ。

関連レビュー

新聞家『スカイプで別館と繋がって』:artscapeレビュー|美術館・アート情報 artscape
新聞家『川のもつれホー』:artscapeレビュー|美術館・アート情報 artscape

2016/06/13(月)(木村覚)

したため#4『文字移植』

会期:2016/06/10~2016/06/13

アトリエ劇研[京都府]

スゥーッと息を吸い込む音が、暗闇に響く。肺に息を吹き込む、発語の準備。闇の中から、口々に声が響いてくる。一つひとつの単語は日本語でありながら、順序の整合性を欠き、分裂した文章として差し出される。「において、約、九割、犠牲者の、ほとんど、いつも、地面に、横たわる者、としての……」。本公演は、ドイツを拠点に、日本語とドイツ語の両方で執筆活動を行なう作家・多和田葉子の初期作品『文字移植』(1993、『アルファベットの傷口』より改題)を、「演劇」として俳優の発話する身体に「移植」する試みである。

多和田の『文字移植』の特異な点は、ある小説を「翻訳」するために、カナリア諸島の島に滞在した翻訳家(「わたし」)の視点から綴られる文章に、「翻訳」中の文章がたびたび挿入されるという二重構造である。かつ、「翻訳」中の文章は、原文のドイツ語の語順のまま、読点で区切って並べられ、日本語の安定した文法構造をかき乱す(一方、「わたし」視点の地の文には読点がいっさいないというねじれや圧迫感を抱えている)。「翻訳」という行為がはらむ力学や摩擦は、身体的な違和感となって翻訳する「わたし」の身体を脅かし、肌のアレルギー症状や奇妙な痛みとして感覚される。さらに、キリスト教徒に征服された島の歴史、バナナ農園、聖ゲオルクのドラゴン退治を扱った原文の小説など、『文字移植』には、ポストコロニアルと男性中心主義への批評が何重ものメタファーよって仕掛けられている。この多層的な小説を、どう演劇へと「移植」するのか。

本作が秀逸なのは、まず、美術作家・林葵衣による舞台美術である。林はこれまで、「声を保存する」というコンセプトの下、唇に絵具を付けて支持体に押し付け、発語した時の唇の形を魚拓のように写し取る作品をつくってきた。それは、発語された途端に消え去る声という儚く非物質的な存在を、唇の形の痕跡として変換・可視化する試みであり、それ自体ひとつの「移植」である。本公演では、4人の俳優と観客席を隔てて、4枚の透明なアクリル板が吊るされた。この装置は、舞台の進展とともに、複数の意味へと変容していく。それは、「わたし」が外を眺める「窓」であり、静止した俳優の身体を「肖像画」として切り取るフレームであり、ドアやバナナ園の壁など物質的な境界であるとともに、心理的な障壁にも変貌する。さらに、俳優たちは白い口紅を唇に塗ると、一音ずつ発語しながら、唇を透明な板に押し付けていく。 白い吐息のようにも見えるそれは、しかし息や声のようには消滅せず、時間の進展とともに、読めない波形の文字のように蓄積されていく。ここで、アクリル板は、発語された音の痕跡を残す透明な支持体であるとともに、擬似的な「鏡」の役割を果たす(実際に、光の反映によって観客の姿を映し出し、舞台上に取り込みさえする)。

異言語との接触がもたらす、テクストの構造的分裂。「わたし」もまた内部に分裂を抱え、それは4人の俳優の発語によって分担/分断されるモノローグによって加速される。異物として体内に侵入する異言語、言語からの物質的抵抗を受けた身体。それは滑らかな発語を妨げ、俳優の身体を硬直させる。「い、け、に、え、」と発音する唇が、アクリル板に押し付けられる。だが、「いけにえ」「犠牲者」とはいったい誰なのか。

ここで示唆的なのが、「バナナ」に込められたメタファーの重層性である。実物のバナナを用いた演出は、様々な連想を呼び起こす装置として機能していた。それは、かつてキリスト教徒の支配を受けた島において、ポストコロニアルな経済構造の中での外貨獲得のための「商品」であり、ドラゴン=異教徒を退治する「聖ゲオルク」が振り回す武器であり、彼が象徴する男性中心的なキリスト教西洋社会の支配原理の攻撃性であり、さらに、男性器を思わせるバナナの形状は、「わたし」を脅かす男性たちの代替物となる。


撮影:前谷開

「犠牲者」という単語は、ドイツ語では「O」の字で始まる(Opfer)。紙面を蝕む、「O」のかたち。それは、空虚な穴であり、犠牲者が沈黙の叫びをあげる口のかたちなのかもしれない。ドイツ語から日本語へ、書かれたテクストから生身の身体が発語する演劇へ、エフェメラルな音声から物質的な痕跡へ。何重もの「移植」が行なわれる本公演では、冒頭と終盤、この「O」の発語をめぐって、テクストへの介入と音声的な解体が企てられていた。「海は遠おぉぉぉぉーい」と異常に引き延ばされる母音。それは、「日本語」の中に「ドイツ語」の断片を暴力的に接続させ、意味を撹乱させるとともに、「わたし」が脱出を企てる海の、海鳴りの轟きをも連想させる。俳優の身体表現と声、舞台装置によって、テクストの密度が音響的・立体的に立ち上がり、「テクストは平面ではない」ことが身体的に了解された、優れた公演だった。

2016/06/12(日)(高嶋慈)

山縣太一(作・演出・振付)『ドッグマンノーライフ』

会期:2016/06/01~2016/06/13

STスポット[神奈川県]

昨年は『海底で履く靴には紐が無い』が大谷能生主演で話題となった山縣太一の新しい演劇の試み、今作はその第二弾となる。外に家内を働きに行かせて、代わりに引きこもり生活をしている「室内犬」が大谷の役。舞台脇に箱が横並びになってその中で暮らしている。引きこもりで人間以下になった男と働く女が最終的に対比されてゆくのだが、今回の演出はその話に一切のユーモアを盛り込まない。脚本の言葉遊びは今作でも端々に出てくるのだが、リズムを外し、のっぺりと小声で発生されるのでそれが見事なくらい笑えない。特に前半は蛍光灯の明かりで進行するし、役者たちは常に揺れ、痙攣し続けているし、犬はいるしで、絶望的なくらい暗く不穏だ。中盤で役者たちが舞台上に増えてゆき、ほぼ対話はなく、しかし、互いの動作で接触が起こり、揺れが甚だしくなるシーンがある。ストーリーはほとんどないのに、音響も煽っていないのに、狂気のようなテンションで一瞬クライマックスがやってきた。それではっとわかった。これは人間以下の「アンダークラウンド」つまりアングラな人間存在を扱う、その点で舞踏に似た(そう思うと「ドッグマン」は土方巽の「犬の静脈に嫉妬することから」との連関を、「ノーライフ」は「踊りとは命がけで突っ立った死体である」との連関を想像させられてしまう)、しかし、舞踏の様式性とは無縁の、一種のダンス作品だ。終幕の場面では、中央に大谷が立ち、外に出た家内と外に出るのをやめた自分の逆転を語る後ろで、三人の女が並んで、息を止めては我慢ができなくなると数歩進んで男の前で息を吸うという一種の「タスク」を続けている。本当にダンス的だと思う反面、そこに至るまで、舞台にはセリフの言葉が敷き詰められてきており、言葉が緻密にその場を制御してきたことにも気づかされる。そうであるならこれは演劇か。舞踏の様式性とは異なると書いたが、この舞台は他のどんな様式性とも類似しない。この世に一匹だけで立っている獣のように、空前絶後の舞台。そういう舞台を作者や観客はいま願望しているのだろうか。いや、そんなこととは関係なく突っ立っている、そんな舞台なのだ。

2016/06/05(日)(木村覚)

パーマ屋スミレ

会期:2016/05/17~2016/06/05

新国立劇場 小劇場 THE PIT[東京都]

鄭義信「パーマ屋スミレ」@新国立劇場。在日コリアンをめぐる三部作のラストを飾るものだ。高度経済期に男たちは炭鉱事故の後遺症や産業の衰退に苦しみ(理想の社会を求めて、北朝鮮に向かうものもいる)、一方、南果歩ら演じる三姉妹の女たちは厳しい暮らしのなかでも、たくましく生きようとする。最初、3時間弱は長いと思ったが、この尺でないと表現できない時間の流れと町の記憶を感じさせる作品だった。

2016/06/04(土)(五十嵐太郎)