artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

ハイバイ「おとこたち」

会期:2016/05/14~2016/05/15

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

残業漬けのブラック企業を辞め、紹介予定派遣で「クレーム処理」に従事する独身男性。正社員で出世も家庭も順調に見える既婚男性。性欲を持て余し、不倫に走るアルバイト男性。酒乱が原因で、TVスターから転落する男性。「おとこたち」では、高校の同級生だった4人がカラオケや居酒屋に集って近況報告し合うという形をとりながら、24歳から82歳までの四者四様の人生が、約2時間に圧縮して語られる。「笑えない」現実が、ギャグ混じりのハイスピードで次々と繰り出されていく。格差社会、クレーム処理の過酷さ、ゆとり世代の部下と通じないコミュニケーション、不倫、アルコールや新興宗教への依存、家庭内暴力、家庭での疎外感、定年退職後の燃え尽き症候群、家族のガン闘病、そして痴呆……。
だが、本作を観劇して気になったのは、そうした「(男性視点による)現代社会問題の羅列」ではない。そこに既視感はあっても、リアルな感触が立ち上がることはなく、「ヒト科オトコ類による、性欲期から死期までの大河ドラマ」とチラシには謳われているものの、むしろ時間的厚みの欠如こそが本作の根幹にあると思われる。本作を特徴づけるのは、「リアルな現代社会問題の提示」よりも、1)「(肯定的な)自己イメージによって外見が規定される、ゲームの仮想空間的な全能感」、2)「無時間性、時間の遠近感の喪失」、3)「カラオケルームという没入空間」である。
まず1)について。「30~40代の俳優が、老けメイクに頼らずに、60代、70代、80代を演じる」という演技設計は、「82歳という実年齢/まだ40歳そこそこの若さだという思い込みのギャップ」という、痴呆による時間感覚の混乱や現実認識のズレを表わすためのトリックとして効果的に機能する。冒頭、30~40代の「外見」に見合った言動をとる主人公は、自分は「まだ40代そこそこ」だと信じて疑わず、「あなたは82歳ですよ」と言う周囲の介護職員との会話が噛み合わない。そこへ「よう!」と現われる友人。彼もまた若くはつらつとした姿で、次々と集まった4人はカラオケではしゃぎ、近況報告が再現ドラマ風に演じられ、デジタル数字でカウントされる年齢とともに、どんどん年を取っていく。だがここで奇妙なのは、時間的厚みがなく、どの年齢を切り取っても「鬱屈した平成の今」の断面が金太郎飴のように現われることだ。(本作の初演は2014年だが)、2016年を「82歳の現在」とするならば、彼は1934年生まれであり、戦前に少年期を過ごし、30~40代は高度経済成長期の真っ只中、バブルを経て不況に差しかかった頃に退職という人生を送るはずだ。しかし本作からは、彼らを取り巻く社会や時代の変化、年月の厚みは見えてこない。彼らはスタート地点からすでに「格差社会を生きる平成の20代」であり、「平成」の父親の悲哀や老いの問題が、時間の遠近感を喪失したまま、次々と貼り付けられていくのだ。
このような、2)「無時間性、時間の遠近感の喪失」と、デジタル数字の表示に従ってステータスが変わるように年齢がスイッチする感覚は、どこかゲームの仮想空間を思わせる。その象徴的装置が、3)「カラオケルームという没入空間」であるだろう。高速で「人生」を振り返ったあと、前かがみの姿勢で記憶も足取りもおぼつかない「82歳」であることを再度突きつけられる主人公。だが、冒頭のシーンが反復され、「よう!」と再び友人が現われると、たちまち空間はカラオケルームへと変貌する。「追い駆けて 追い駆けても つかめないものばかりさ」というサビの歌詞の、CHAGE&ASKAのヒット曲「太陽と埃の中で」の熱唱。マイクさえ握ってチャゲアスを熱唱すれば、「青春のあの頃」に瞬時に立ち戻れるカラオケルームは、外部が消失した、心地よく没入できる逃避装置である。だが、「現在の82歳」が戻ろうとする「30代」は、結婚できない派遣労働者であり、「現在の30代」がシミュレートする「老後」は、「痴呆を生きるおひとりさま」だ。時間の厚みのなさは、オルタナティブな未来像も描けない閉塞感と通底する。そのどこへも行けない閉じた時空間こそ、本作が露呈させる絶望である。


左から用松亮、菅原永二、松井周、平原テツ 撮影:引地信彦

2016/05/15(日)(高嶋慈)

奥山ばらば「うつしみ」

会期:2016/04/29~2016/05/01

大駱駝艦「壺中天」[東京都]

「ダンス」という表現は、見れば見るほど不思議なものだ。言葉を用いる演劇であれば、演じる体は言葉のリズムや意味やそこから形作られる物語に自ずと縛られる。縛られているから、見ている観客は言葉を追いさえすればいいと安心しがちだ。けれども、その縛りがダンスにはない。踊る体は無言で見る者に迫る。物語から自由である分、始まりも終わりも曖昧。それでも、惹きつけられる。ダンスという表現はだから、プリミティヴで最新型で、いつも根本的に世界の異物であり続ける。さて、奥山ばらばの新作は、ソロの舞台。冒頭、円形の装置で裸の奥山が一人、回っている。舞台にはこの体しかない。この体が言葉とは異なる道具となって語りかける。回転が止むと、背中を向けて肩甲骨をぐりぐり回す。見慣れた「背中」が異形性を帯びてくる。普段は白塗りが多い大駱駝艦だが、今日の奥山は肌をさらす。次第に、汗が溢れてくる。奥山には、そうした汗を含め、自分の体以外にダンスのパートナーはいない。この自分が自分のダンスの相手という、なんというか「自分の尻尾を飲んだ蛇」のごとき自家中毒状態は、例えば、自分の髪を掴んで後ろに引っ張りながら首を前に押し出そうとするなんて仕草で象徴的にあらわされる。風に吹かれるままの一枚の落ち葉のような、誰かに弄ばれる操り人形のような、思いのままにならない体が描かれることもある。悲しいような、寂しいような気持ちに吸い込まれることもあるけれども、汗をしたたらせる裸体はエロティックでもあり、生命の強さも感じさせる。70分強の舞台は、じっくりとゆっくりと人間という境遇を経巡ってゆく。ソロの舞台ということもあり、1年ほど前に逝去した室伏鴻を思い出さずにはいられなかったが、室伏の敏捷な野生動物のごとく変幻し移動する踊りとは対照的に、どこにも行きつけない、ここで踊るしかない、そんな体のダンスだった。

写真:熊谷直子

2016/04/30(土)(木村覚)

プレビュー:ドッグマンノーライフ

会期:2016/06/01~2016/06/13

STスポット[神奈川県]

少し先ですが、6月の上旬に『ドッグマンノーライフ』が上演されます。チェルフィッチュ最古参の役者であり、手塚夏子から指導を受けた影響もあって、パフォーマンスへの独自の思考を形成してきた山縣太一の新作です。前作『海底で履く靴には紐が無い』で世間を驚かせたユニークな言葉遊びが大量に含まれた戯曲は、今作でも健在。筆者は稽古場を見学に行ってきたのだけれど、戯曲に匹敵するほど興味深かったのは、大谷能生がパフォーマンスするエリアが限定されており(稽古では箱を並べることで仕切られていた)、その他の新しい役者たちVS大谷能生といったぶつかり合いが、舞台にあらかじめしつらえられていたことだ。いわば、サッカーか卓球か、対戦型のスポーツを観客が側面から見ているような趣向になっている。どうもパスは観客へも飛んでくるらしい、観客も安穏としていられないようだ。まちがい無いのは、方法的トライアルがしっかりと用意されているということで、本作が日本の演劇界を揺さぶってくれることを期待してしまう。


BONUSが製作した稽古場インタビュー

2016/04/30(土)(木村覚)

鄭義信 三部作vol.2 たとえば野に咲く花のように

会期:2016/04/06~2016/04/24

新国立演劇場 小劇場 THE PIT[東京都]

ともさかりえほか、俳優もリアルな舞台美術も、ウェルメイドな演劇である。朝鮮戦争勃発時の福岡において、朝鮮人のアイデンティティ、アメリカと日本の関係などの社会背景に、古典的な恋愛と悲(喜)劇を絡ませる。ただし、物語を展開させ、事件を引き起こすあかねの執念的な行動がやや説明不足にも思えた。

2016/04/24(日)(五十嵐太郎)

ザ・ワイナリー・ドッグス

会期:2016/04/21

昭和女子大学 人見記念講堂[東京都]

リッチー・コッツェンの指弾きによるギター、ビリー・シーンのベースとは思えない早弾き奏法も当然すごいが、客席にまで入り込んで、リズムを叩き続けるマイク・ポートノイのドラムが笑えた。海外のハードロックのライブが重なる時期だけに、僕たちを見にきてくれてありがとう! とも挨拶していた。

2016/04/21(木)(五十嵐太郎)