artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
勅使川原三郎『サブロ・フラグメンツ』

会期:2011/04/30~2011/05/08
川崎市アートセンター・アルテリオ小劇場[神奈川県]
闇に飛び散る火花のよう。激しく、素早く、独特の規則性のもとで躍動する身体。バレエでも、モダンダンスでも、舞踏でもない、その規則性には、永らく探究を続けてきた勅使川原三郎でなければ到達できない地点の高さが感じられ、圧倒された。身体のくねりの内に形や速さのみならず力のダンスが感じられる勅使川原本人も、また素早くしなる腕で幾重にも残像が現われ異形化する佐東利穂子も魅力的だが、若いダンサーたちが踊ったとたん、場が目覚ましく変化したように見えた。肉体の衝動と与えられた振り付け(ダンスのアイディア)とが拮抗しながら突き進んでいる気がした。なにより全体として強く印象に残ったのは、この「火花」のような運動を「人力」で行なっていること。身体を用いるダンスが人力なのは当たり前ではあるけれど、映像の技術が高度化しまた簡便化した時代に、身体を映像によって表現する代わりに「舞台で踊る」ことはあえてその手段を選択した結果である。ならば「あえて人力で行なう」ことの内に、ダンスを踊る今日的意味が問われるべきだろう。陳腐な言い方だけれど「そこに生きて躍動する人が居る」という事実から見る者が得る喜びは、そのひとつに違いない。
生きる身体の躍動の合間に、ぽつんと孤独にしゃがみ込むさまも差し挟まれ、それも印象的だと思っていると、終わりのほうで「浜」のイメージやそこに「ぽつんとしゃがむ人」またそこに「横になる人」のイメージが出てきて「ひやっ」とした。勅使川原は、東日本大震災以後、準備してきた内容を変更したのだという。この未曾有の事態を表現するのはまだ時期尚早ではないか。けれども、踊る身体の内に情報やイメージや思いが満ちて扱わずにはいられない「身につまされる感じ」もわからなくはない。
2011/05/06(金)(木村覚)
プレビュー:小林耕平+core of bells『運送としょうゆとかぐや姫と先生とライオンと吉田くん』、ほうほう堂『ほうほう堂@留守番』
会期:2011/05/07
[東京都]
小林耕平によるcore of bellsとのパフォーマンス『運送としょうゆとかぐや姫と先生とライオンと吉田くん』が、5月7日に「Platform 2011」展開催中の練馬区立美術館で上演される。小林が用意するけっして成し遂げられるはずはない課題に向けてばく進する彼らのパフォーマンス。「けっして成し遂げられるはずはない課題」とは、パフォーマーたちの行為に安易な「オチ」をゆるさないということだ。笑いでも、感動でもないところに、未知の「オチ」を求めてもがく。延々と続けられる試行錯誤のなか、思いがけない瞬間に、ぼくらはあっと驚く奇蹟と出会えるかもしれない。ほかには、昨年好評を博したほうほう堂の『ほうほう堂@留守番』が再演される。155cmの2人組ほうほう堂は、近年、劇場から飛び出して野外のさまざまな場所で踊り、それをYouTubeにアップし続けてきた。ミニマルでデリケートな彼女たちのダンスが、劇場ではなく下北沢の一軒家で見られるというのは、ちょっと、いやかなりわくわくさせられる。おっと、こちらも5月7日の1日限りの上演。うまくすれば両方見られるので「はしご」してはどうだろう。
2011/05/02(月)(木村覚)
サンガツ『Catch and Throw Vol.1』

会期:2011/04/29
sonorium[東京都]
60分ほどの演奏の最後、トーンチャイム(ハンドベル)を鳴らしながら、メンバーたちは舞台をぐるりと何周かめぐった。全体としてきわめてシンプルなパフォーマンス、その締めくくりにわずかに演出された印象的なシーン。見ているうちに、このトーンチャイムという楽器こそ、現在のサンガツを象徴するアイテムではないかと思えてきた。一本だけでは単音が鳴るだけなので、メロディを奏でようとすれば、複数の演奏者が協同しなければならない。鉄琴があれば一人で可能なはずだ。ほかの楽器の用い方についても似たところがあって、ドラマーは三人居るのだけれど、三組のドラムスはどれも似た編成だから一人でも可能なパートをあえて三人で演奏しているというように見える。なぜそうしているのだろう。複数の演奏者が協同して演奏することで、リズムやメロディに微妙な「揺れ」が起きる。スティックの扱い方、力の入れ具合といった各演奏者の身体的個性に端を発する「揺れ」だ。「揺れ」が示唆するのは、メンバーの身体が個性を保ちながらも合体しているという事態だろう。この「サンガツという身体」を演奏空間に出現させるために、こうしたユニークな演奏(作曲)形態がとられているのではないか、というのがぼくの解釈。サッカーのパス回しのように、メンバーたちの「パスワーク」がそのまま演奏の表現になっている。その楽しそうな合奏状態こそ、ぼくの感じるサンガツの最大の魅力で、もちろんモノトーンの美しい音世界も素晴らしいのだけれども、まるで中学生の部活動(とくに体育会系)を彷彿させる、合奏する楽しさに満ちたパフォーマンスをこの晩も堪能したのだった。
2011/04/29(金)(木村覚)
高田冬彦『Many Classic Moments』(高田冬彦+平川恒太「第2回 道徳」展)
会期:2011/04/13~2011/04/24
Art Center On Going[東京都]
高田冬彦は今年度東京藝術大学大学院に進学した若い作家だが、作品にはすでにある一定の方向性が垣間見える。多くは、彼自身を被写体にした映像作品で、とくにこの1-2年で顕著なのは、自宅のアパートと思われる小部屋を舞台に、夜な夜なブリトニー・スピアーズになりきったり、あるいはペニスサックにしたハリボテの日本列島で部屋をぐしゃぐしゃにしたりといった妄想的パフォーマンス。そこでは、ナルシシズム、露出願望、性的な興奮、破壊衝動、ジェンダーの攪乱などといったテーマが、YouTubeに投稿される動画の雰囲気でまとめあげられる。本作でも主役は若い男(高田本人)で、単身者用アパートの一室でなにやら彼は興奮を増幅させている。三つ編み制服姿の男による奇怪なショーごっこ。本作の特徴はひもの束を引っ張るとスカートの端がつまみ上げられる装置で、スカートが上がると裸の脚と(ペニスを股で隠した)下腹部があらわになる。この装置を拵えたことが最大の勝因。これをマルセル・デュシャンの《大ガラス》に比肩しうるものだといったらほめ過ぎだろうか。この類比がより明瞭なのは、映像展示とともに会場で行なわれていた本人によるパフォーマンスで、装置を会場に設置し、会期中毎日、部屋の真ん中で一日中立つと、高田は観客にひもを下げさせた。はにかむ作家にうながされて、望んだつもりのないままひもを引っ張ると、観客は見たかったわけではない姿態とご対面させられる。覗きの装置によって、自動的に、発情する覗きの主体に観客は勝手に役づけられてしまう。映像に示された「独身者の一人遊び」の装置が、観客を巻き込んで「花嫁と独身者の戯れ」へと転換しているわけだ。《大ガラス》では構造的に絶対に出会えない「花嫁」と「独身者たち」が、本作ではひもによってあっさりつながってしまっている、なんということだ。
2011/04/24(日)(木村覚)
大倉摩矢子『Mr.』
会期:2011/04/07
中野テルプシコール[東京都]
大倉摩矢子の上演は、舞台奥からゆっくりと前に向かって大倉一人が歩いてくるといったミニマルな構成に特徴がある。気がつけばわずかとはいえポーズが変わっていたことにはっとさせられる彼女のスローモーションは「遅い」がゆえに「速い」。「遅い」ことで見る者の時間感覚が静かに混乱させられてしまう。あっという間に15分、20分が過ぎている。そうした彼女の魅力は本作でも発揮され、みだされる時間感覚を堪能した。実際に身体が行うスローモーションは、映像のそれとは異なり、均一に滑らかに遅いわけではない。不均一で滑らかではないからこそ、大倉の「ゆっくり」はスリリングであるわけで、映像の「ゆっくり」をモデルにする必要などない。いや、映像の「ゆっくり」に還元できない舞踏独特の身体性、時間性が提示されているからこそ、大倉の上演には価値があるのだ。だからこそ、音響の切り替わりで上演の構造をつくってしまっては、もったいない。中盤、街中の環境音からブルースに切り替わると、大倉の所作は音楽に動機づけられた動きを増幅させてゆくのだけれど、そうなったとたんに、踊る大倉の心情に見る者のフォーカスが移り、集中が途切れてしまった。終盤に、無音で再びゆっくり歩くと遅いがゆえの速さが戻った。やはりこれがいいと思わされる。
2011/04/17(日)(木村覚)


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