artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

岡崎藝術座『古いクーラー』

会期:2010/11/19~2010/11/28

シアターグリーン・BIG TREE THEATER[東京都]

7人の人物が1人ずつ舞台中央に現われ、次々と独演する。それぞれのしゃべりには各々異なるエフェクトが与えられている。だじゃれとか、強圧的な怒鳴り声とか、「です」でいい語尾が「ですます」になっているとか。一貫しているのは、どれも「はずしている」こと。そのイタさは「ドゥーン」(村上ショージ)級。話の中身は多くが愚痴で、怒りが無思慮に放出されるたびに観客はあちこちで爆笑する。見ているうちに「悪意」という語が浮かぶ。7人のしゃべりにも時折登場していた古いクーラーが、終わりのほうで登場する。彼(クーラー)は30才と自称。空気の読めない彼は、最後にパンツを脱いで悪意をまき散らす。この30年で棄てられる運命のクーラーは、作者の神里雄大(作・演出)あるいは彼世代の自画像のようにも映る。強烈な虚無感と閉塞感が漂う。そうしたいらだちが見るべきものになっているのは、はずす演技を巧みにこなす役者たちの力量のおかげだろう。「悪意の芸術的昇華」という試みは、おそらくもっと高い到達点が設定されているのだろうが、現時点でも見応えはありゆえに後味は悪くはないが、しかしやはり暗くなる。

2010/11/26(金)(木村覚)

飴屋法水『わたしのすがた』

会期:2010/10/31~2010/11/28

にしすがも創造舎とその周辺[東京都]

にしすがも創造舎を起点に、観客が自分の足で周辺にある廃墟を三軒めぐるというのが、この演劇のストーリー。いや、正確には「ストーリー」はなく、そこにあるのはほぼ「コース」のみ。「ストーリー」に近いものがあるとすれば廃墟に点在する貼り紙くらいで、そこには聖書が基となっていると思しきシチュエーションにおいて「主」へ向けた「わたし」の独白が綴られている。恐ろしく朽ち果てた民家、小さな教会、病院。出発地の元中学校も含め、劇場=廃墟はどこを見ても、かつてそこに暮らしまた行き来していたひとの痕跡が空間にあふれかえっていて、不気味だ。おばけのいないおばけ屋敷のよう。すべての小物、柱や壁の傷、建物に巻き付く植物たちは、ただそれがそこにあるというだけでなにかしら見るべき出来事に見えてくる。小さな教会の大きめの部屋に巨大なスズメバチの巣が吊られているなど、演出は無数に施されている。けれども、同時に、ただの廃墟めぐりとどう違うのかとも思わされる。この仕掛けのどこがもっとも演劇的かといえば、廃墟を出るたびに渡される、次に向かうコースの記された地図だったのかもしれない。地図に誘導されることで町並みは劇場と化し、廃墟は貼り紙とも相まって無数のサイン(隠喩)を帯びたものに見えてくる。Port Bの『完全避難マニュアル 東京版』もまた、山手線の各駅周辺を舞台にしている。ぼくは「代々木」しか見ることができなかったが、街にある店の名前や看板の文句などの記された「台本」(専用ウェブサイトからプリントアウトして持参した)を頼りに、観客が店や看板を発見しながら進む作品だった。「フェスティバル/トーキョー10」のテーマ「演劇を脱ぐ」を強く意識させるこの2作が、役者不在、観客が街を歩くだけの作品であることは興味深い。Port B(本作の「代々木」)が街に潜在するものを意識させるマテリアル指向が強いとすれば、飴屋作品の場合それと独白とをブレンドさせることで観念的な指向が際立った。街を舞台にする作家としては岸井大輔も忘れてはならないが、彼らの取り組みによって、この方法の振り幅が明らかになり、それによって一層ユニークな試みが生まれてくる予感を抱いた。

2010/11/23(火・祝)(木村覚)

新incubation2「Stelarc×contact Gonzo─BODY OVERDRIVE」展

会期:2010/10/30~2010/11/28

京都芸術センター[京都府]

身体にフックをつけて吊り下げられるパフォーマンスで知られ、近年は医学やロボット工学を取り込んだ作品を制作しているステラークと、ストリートファイトから導き出される過激なパフォーマンスで知られるcontact Gonzo。ベクトルは違えど、“肉体”という共通のキーワードを持ち、見る者に本能的な衝撃を与える両者を共演させるとは、何とも大胆な試みだ。しかし、彼らの真骨頂を体感できるのは、やはりライブ・パフォーマンスしかない。contact Gonzoは会期中に二度、ステラークはロンドンからのWEB中継を一度行なったとはいえ、ほとんどの期間は資料展的な見せ方にならざるをえないのが本展の限界だ。美術展の枠内でパフォーマンスを扱うことの難しさを、改めて実感した。ただし、北ギャラリーでcontact Gonzoが行なったサウンド・インスタレーションは別物。ライブの素材から新たな価値をつくり出すことに、見事に成功していた。

2010/11/16(火)(小吹隆文)

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悪魔のしるし『悪魔のしるしのグレートハンティング』

会期:2010/11/11~2010/11/17

シアターグリーン・BASE THEATER[東京都]

いわゆるバックステージもの。「フェスティバル/トーキョー10」の公募に採用されて、新作を制作する劇団の演出家という設定。金欠だったり、役者と折り合いがつかなかったり、そもそも演出家本人が怠惰だったりしてなかなか上手くいかない。その様子は「悪魔のしるし」という劇団が今回遭遇した出来事をリアルに再現しているかのようだ。しかも、舞台上の劇団が上演しようとするのは「竜退治」というおとぎ話。伝説の竜を退治に向かったら、思いのほか竜がしょぼくて怒りにまかせて殺したという内容。これは「F/T」というイベントに参加してみたもののしょぼい作品しかつくれませんでしたという前述の話とパラレルなわけで、こうした入れ子状の構造が舞台に刺激を生み出していることは間違いない。では、「『しょぼい竜を退治した話』をしょぼくしか上演できなかった劇団の話」が悪魔のしるしによって見事に“しょぼく”上演されたのかというと、その点が微妙で、やたらとひとり喋りまくる「演出家の男」以外は、なんだか覇気のない役者たちの演技が続く。正直、舞台全体が上手く機能しているように見えないのだが、じゃあこれが上手く機能していたほうがいいのかというと難しいところだ。しょぼいものを見事に描くのは、しょぼいものをしょぼく描くことより滑稽で愚かしい場合が多い。じゃあ、しょぼいものはしょぼく描くのがいいかといえばすぐには首を縦に振れないし、だからといって、しょぼいものは描くべき対象ではないといい切るのも間違っている気がする。そういう問いを誘発したという点で本作は問題作に相違ない。

2010/11/13(土)(木村覚)

快快『アントン、猫、クリ』

会期:2010/10/27~2010/10/30

STスポット[神奈川県]

篠田千明名義で2009年の4月に行なわれた「キレなかった♥14才リターンズ」(@こまばアゴラ劇場)というシリーズ公演の1演目として上演された作品を、快快名義で上演した今作。前回のときも感じたことだけれど、「雨、雨、雨」など、役者たちがものの名前を口にすると雨の情景が観客の心の中に自動的に広がる(広がってしまう)というアイディアは、1年半後に見直してもやはりとても新鮮だった。役者が役のセリフを喋るだけが演劇上演ではない。舞台美術というか小道具というか、そういうものが「もの」として用意されていなくても「言葉」が置かれるだけで(役者が舞台空間で発話するだけで)、観客の想像力によって舞台美術が勝手に立ちあがる。彼らがしばしば舞台風景を生み出すために用いるプロジェクターのように、観客の想像力がひとつのレイヤーとなって舞台空間を飾っている。とはいえ、ここで役者は単なる朗読者に収まってはおらず、言葉に動機づけられたさまざまな動作を小気味よく繰り出す。それはまるでダンスのようだ。と、ここまで書いて例えば「それはチェルフィッチュの『わたしたちは無傷な別人であるのか?』(以下「別人」)に似ているということか」と思うひともいるかもしれない。そう、事実ぼくは上演中、両者を比較して見ていた。とくに思い出していたのは、隣の他人が聴いていた音楽がイヤホン越しに耳に入ってきて気になってしようがなくなる、なんて場面のこと。そうした「別人」での「入り込んでくる音楽」というテーマと快快が言葉を見る者の内に差し込む振る舞いとは、とてもよく似ている。さらに、ある程度、言葉に動機づけられるのとは別の動機から身体を動かす役者の有り様も似ている。ただし、チェルフィッチュの役者たちが訓練の行き届いたテクニシャンであるのに対して、快快の役者たちは統制がきいていなくて粗っぽく個性的だ。アフタートークで篠田が役者たちをバンドになぞらえていたのは、この点で示唆的である。チェルフィッチュの役者たちはまるでクラシックの演奏家、快快はバンドマンのよう。どちらがいいとはいい難いけれど、プレイヤーの姿勢の違いが作品に与える印象は大きい。今回は他にも録音されたセリフに合わせて役者が動くとか、同じセリフを何度もリピートさせて、しかも、断続的に「停止/再生」を行なうとか、上演についてのアイディアが多数試みられていた。そのどれも極めて興味深かったのだけれど、同時に、ひたすら陳列されるばかりでそれら方法相互の関係は不明確なままであり、一つひとつの方法が際立つとその分だけ、白血病の野良猫と近所のアパートの住人たちとの交流の物語が印象薄くなってしまった、その点はなんとも残念だった。

2010/10/27(水)(木村覚)