artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

Dance&Peopleワークショップ「からだをつかってあそぼ」

会期:2011/09/17, 10/22, 11/26, 11/27, 12/10

大山崎ふるさとセンター3階ホール[京都府]

「Dance&People」は、五島智子氏が介護の仕事の経験をもとに立ち上げた任意団体。介護現場での重度身障者の身体介護は、介護する側とされる側のデュエットそのものであると考えたことがきっかけだったという。これまでに、見える人と見えない人によるダンスワークショップや、シニアを対象にした企画など、さまざまなワークショップやそのコーディネイトを行なってきた。大山崎ふるさとセンターで月に一度開催されている「からだをつかってあそぼ」は、参加年齢や性別、障害などは不問。この日はじめて見学させてもらった。ナビゲーターであるコンテンポラリーダンサーの黒子沙菜恵さんに誘導されながら、7名の参加者が音や音楽にあわせて踊ったりポーズをとったり、ペアになり、さまざまなアクションをしている。この即興の動きがじつにドラマチックで、二人組のコンビネーションとチームワークを見ているだけでも面白い。また、会場の窓のすぐそばを、新幹線がしょっちゅう豪速で通過する、という光景もすごい! 一瞬、凄まじい風圧(と音)が会場を走り抜けるのだが、それがとても刺激的。環境と身体(や感覚)のつながりの奥深さも感じるワークショップだった。この日は見学だけだったが、チャンスがあればぜひ実際に参加してみたい。

2011/09/17(土)(酒井千穂)

「宮澤賢治/夢の島から」(飴屋法水『じめん』、ロメオ・カステルッチ『わたくしという現象』)

会期:2011/09/16~2011/09/17

都立夢の島公園多目的コロシアム[東京都]

舞台芸術の祭典「フェスティバル/トーキョー」のオープニングを飾る、飴屋法水構成・演出『じめん』と、ロメオ・カステルッチ構成・演出『わたくしという現象』のダブル公演。『じめん』では、クレーター状のコロシアムの盆地中央に白い椅子が数百席ほど並び、一番前の席に少年がひとりぽつんと座っている。やがて少年の座った椅子を残して椅子たちがゴトゴトと後退し始める。まるで生き物のようにうごめく、というより、津波に押し流されるガレキのようにといったほうが適切かもしれない。ここがいちばん心を動かされる場面だ。『わたくしという現象』は、『猿の惑星』のサルや『2001年宇宙の旅』のモノリスが出現したり、放射能研究やラジウムの発見で知られるマリー・キュリーが登場したり、飴屋が出て来てロメオと対話したり、めくるめく展開を見せる。最後に、日本の地形が消えた極東の地図が登場し、日本そのものが「夢の島」だったというオチ。「夢の島」で行なわれたサイトスペシフィックな野外公演でした。

2011/09/16(金)(村田真)

「宮澤賢治/夢の島から」(ロメオ・カステルッチ『わたくしという現象』+飴屋法水『じ め ん』)

会期:2011/09/16~2011/09/17

都立夢の島公園内多目的コロシアム[東京都]

500人くらいいただろうか、観客は受付で渡された白い旗を手に、夢の島公園内・多目的コロシアムのすり鉢状の縁を行進し、半円形をつくった。旗を渡された時点で嫌な予感がしていた。観客を傍観者ではなく参加者にする仕掛けだなと気づくが、受付で拒むかどうかを判断する余裕はなかった。旗はビニール製で、飴屋法水が登場し、観客に座るよううながすと、レジャー・シートに変化する。都心にいるのにまるで野外フェスのようだ。ロメオ・カステルッチ『わたくしという現象』のはじまりを待つ。草の匂いを嗅ぎ、息をひそめる。すると、目の前の円形の空間に並べられた数百個の椅子が、一つひとつと倒れ、次第に巨大な磁石に引っ張られるように、一方向に引きずられていった。「津波」を読み込みたくないなあと思いつつ、不思議な動きに圧倒された。けれども、その後、白い衣装の集団が現われて、倒れたり、観客の近くで旗を振ったりするあたりでは興ざめしてしまった。空っぽのかたちだけのスペクタクル。おそらく、芸術の名のもとで、スペクタクルとはなにかを反省する機会として上演されている(のだろう)光景は、しかし、スペクタクルに必要な巻き込みの力があまりに希薄だ。それでも、白い集団が旗を振れば、観客のなかに同じ旗を振ってしまう者も出てくる。空っぽの形式だけのスペクタクルに揺り動かされる観客というのは、夢やら愛やら浮ついたイメージを並べた商魂逞しいスペクタクルに熱狂する観客と比べて愚かでないといえるのか。旗と言えば、この数日前、ジャニーズの新人グループ(Kis-My-Ft2)の東京ドーム公演を見る機会があった。そこでも旗が配られたのだが、グループへの愛を表現すべく一斉に振られる旗は、感動的とも言いたくなる、強烈なスペクタクルを見せた。そうした力が発揮されることなく、ゆるいスペクタクルでなにかを感じよと観客をうながす「芸術鑑賞」というものの虚しさよ。後半の飴屋作品『じ め ん』は、日本国が消滅し、ひとがマレーシアに移住するという話。「消滅」というセンチメンタルなイメージは魅力的だが、消滅しないという事態こそ「震災」がひらいた現実ではなかったか。

2011/09/16(金)(木村覚)

岩渕貞太『雑木林』

会期:2011/09/09~2011/09/10

アサヒ・アートスクエア[東京都]

1時間ほどのソロ作品。岩渕貞太は、中間状態を保ちながら舞台に居続けた。つねに肘や膝が曲げられ、手前にあった動作と次の動作の間に一貫して「待ち」の状態がキープされていた。なにかが起こりそうという「スリル」への期待が温存され、時が進む。動きの強弱大小の点でも中間状態は保たれた。微動でもなくダイナミックな旋回や跳躍でもなく、するするとかたちが変化しながら、ときに見る者をはっとさせるポーズや動きの流れに結晶する。ソロだからと言って一本の「木」ではなく、かといって壮大な「森」へ向かうのでもなく「雑木林」を目指す岩渕の意図は、掴めた気がした。とはいえこの「雑木林」の見所がどこかがわからなかった。今月とりあげている山下残の『庭みたいなもの』もそうであるように、ダンスのタイトルに「環境」を意識させる言葉を当てるひとつの傾向があるように思う。しかし、なんらかの環境が呈示できたとしても、それを生みだすのが作為である限り、自然そのものの豊かさ・強烈さには遠く及ばない、なんてことのほうが多いはず。中間状態にとどまるという作為が、思いがけない間だとか動きだとかが豊かに生じる可能性を削いでいるように見えるのは、そういう意味で気になるのだ。もっと岩渕の自然というか、脳の働きというか、妄想の質というか、岩渕の作為から漏れ出る部分が見てみたい。それには、漏れの余地をつくる作為の妙が必要だ。異様な色の花が小さくてもひとつ咲いてはじめて雑木林はただの雑木林ではなくなる。

2011/09/10(土)(木村覚)

I love Hokkaido art──札幌ビエンナーレ・プレ企画から開催に向けて

会期:2011/09/04

新・港村(新港ピア)Dゾーン[神奈川県]

3年後のスタートを予定している札幌ビエンナーレのプレイベントのひとつ。出演は、北海道のB級観光スポットを拡声器でレクチャーするサラリーマン風の山下智博、プロレスの司会者ながらしゃべくりの足らなさを連続受け身でカバーする祭太郎、陶器製の縄文太鼓をみずから焼いて演奏する茂呂剛伸、という3人の大道芸っぽいパフォーマンス。苦笑も含めて笑い声が新・港村に響く。札幌ビエンナーレは大丈夫だろうか……。

2011/09/04(日)(村田真)