artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
メゾンダールボネマ&ニードカンパニー『リッキーとロニーのバラッド』
会期:2010/01/16~2010/01/17
スパイラルホール[東京都]
現代ヨーロッパの舞台を見る度、ほぼ毎回出くわす一種のパターンがある。非人間化あるいは動物化と形容すればいいだろうか、理性を失った登場人物たちが次第に幼児化してゆき、また暴力性をむき出しにしてゆき、欲望のままに行動し始めるという流れだ。そして、たいていの場合、舞台後半になると役者は裸になる。本作もこのパターンに思えてしまった。若い男女がアパートに暮らしている。2人はほとんど外に出ない。妄想的な2人は隣人のパーティに翻弄されたり、幽霊のような赤ん坊の存在におびえたりする。原タイトルの副題に「ポップ・オペラ」とあるとおり、エレクトロ系のPC音楽を自ら操作して俳優2人はミュージカル風に歌う。シンプルな音楽は2人の内向的な暮らしにふさわしく見えた。最終的にアニメーションのなかで2人はアパートの窓から飛び降り自殺する(その後で飛翔のイメージが展開される)。甘美な絶望感。それは、リアルな絶望感が蔓延する日本で上演するとリアリティを感じられず、たんなる若い欧米人のファンタジーとしか映らなかった。
2010/1/17(日)
青年団『カガクするココロ』

会期:2009/12/26~2010/01/26
こまばアゴラ劇場[東京都]
猿を人間に進化させるプロジェクト、そこで活動する大学院生と大学生が織りなす舞台。本作は、演劇と科学の融合を模索している平田オリザの原点だという。それはともかく、ぼくは平田らしい脚本の妙にあらためてすっかり魅了された。主たる登場人物は、男女の学生たちが十人ほど。それぞれは恋人同士だったり、片思いしたりされたり、先輩後輩の距離なども含め、人間関係の複雑な網目模様がとても丁寧に描かれる。そんなデリケートなバランスが演劇的な面白さを豊かに発揮するのは、誰かが誰かに発したささいな一言が別の誰か、そのまた別の誰かに思いがけない反響を引き起こす瞬間だ。しかも、その反響を感じるのが役柄(別の誰かやそのまた別の誰か)より先に観客であったりするときがあって、例えば、離婚経験者の院生の前で「別れ」という言葉を不用意に学部生が発してしまうとき、学部生が言いたかった文脈とは別に、院生はその言葉をどう受けとるのかと観客は推察する(というよりも精確には脚本の力によって推察させられる)。リアクションを待つ1秒もない瞬間に生じるスリルとサスペンス。演出方法に力点が置かれている昨今の演劇界のなかで、脚本の力というものを感じることのできた上演だった。
2010/1/10(日)
プレビュー:イヴォンヌ・レイナー『グランド・ユニオン・ドリームズ』ほか

[東京都]
10月20日に四谷アート・ステュディウムで行なわれる『グランド・ユニオン・ドリームズ』再演は、ダンスのみならず現代美術に興味のある方もきっと楽しめる企画です。1971年に「ジャドソン・ダンス・シアター」の主要メンバーだったイヴォンヌ・レイナーによって上演された本作は、いわゆるポスト・モダンダンスが実態としてどういうものであったのかを確認するよき手がかりを与えてくれることでしょう。暗黒舞踏とほぼ同時代に登場したポスト・モダンダンスは、今日の神村恵や手塚夏子らの活動と直接的にあるいは間接的に接点が指摘できる、そういう意味できわめて今日的な意義を有するダンスです。あとは、ロロ(三浦直之)の公演『いつだっておかしいほど誰もが誰か愛し愛されて第三小学校』(再演、2010年10月17日~24日@新宿眼科画廊)にも注目したい。8月の『ボーイ・ミーツ・ガール』は新しい作家の登場を感じさせ、ともかくドキドキさせられた(役者たちも魅力的だった)。こちらも再演だけれど快快『アントン・猫・クリ』(2010年10月27日~31日@横浜STスポット)もお見逃しなく。一年半前に「キレなかった14才りたーんず」というシリーズで上演された本作は、作・演出の篠田千明の作家としての力量を知ることができる。
2010/09/30(木)(木村覚)
高橋瑞木『じぶんを切りひらくアート──違和感がかたちになるとき』

発行日:2010年8月26日
編者:高橋瑞木
著者:石川直樹、下道基行、いちむらみさこ、遠藤一郎、志賀理江子、山川冬樹、高嶺格、三田村光土里
発行日:2010年8月26日
発行:株式会社フィルムアート社
価格:2,100円+税
30代から40代前半の中堅アーティストに水戸芸術館の学芸員・高橋瑞木がインタビューした。なにより特徴的なのは、普通だったら躊躇してしまう、けれど本当に聞いてみたいことを単刀直入に質問していること。「スランプはある?」「いま食べていけている?」「どういういきさつでアートを志すようになったの?」etc. なかでも一番興味深いのは、子どもの頃の話。読んでいると多くの作家が子ども時代にすでにいまの活動と同じようなことをしているのだ。遠藤一郎は高校時代に広島へ自転車旅行をしているし、石川直樹は中2のときに高知へ一人旅に出ているし、高嶺格は小2でバンドを組んでいる。また共通しているのは、学校であまりいい経験をしていないこと、管理社会への反発が創作活動のエネルギーになっていること。高橋は彼らの共通点を、学校や社会、あるいは自分自身の身体、あるいはアートへの「違和感」の内にみている(副題は「違和感がかたちになるとき」)。もうひとつ面白いのは、自分をどう称するかについての質問。「あなたは『アーティスト』なのか?」「アーティストは職業なのか?」といった問いは、彼らが社会をどうみて、社会とどう対峙しようとしているかを明らかにする。「ライフ」展を企画した高橋だけある。アートの後ろには必ずライフが隠れている。いや、ライフそれ自体がアートの源泉なのだ。そうした当たり前のことに真っ当な眼差しが注がれている好著。前述のアーティストのほか、いちむらみさこ、下道基行、三田村光土里、志賀理江子、山川冬樹のインタビューが掲載されている。
2010/08/31(火)(木村覚)
あいちトリエンナーレ2010(平田オリザ ロボット版『森の奥』、島袋道浩「漁村における現代美術」、山本高之「どんなじごくへいくのかな」ほか)
会期:2010/08/21~2010/10/31
愛知芸術文化センター、名古屋市美術館、長者町会場、納屋橋会場[愛知県]
あいちトリエンナーレ2010の醍醐味は、歩いて30分くらいの範囲に展示が集中しているところ。昨年の越後妻有アートトリエンナーレとアイディアは似ているけれど、アクセスの簡便さでは明らかに勝っている。歩き回るのに都市がいいか田園がいいかといえば意見が分かれるだろうけれど。
まだ2/3ほどしか見ていない段階で恐縮だが感想を言うと、作家が自分の手で作品をつくるのではなく、誰かにやらせる作品が目立っていた。平田オリザはロボットに演劇をさせ、島袋道浩は漁師に魚をさばかせ、山本高之は子どもに地獄をつくらせ(「どんなじごくへいくのかな」)、動物園の動物の前でそれぞれの動物を主人公にした「一週間の歌」の替え歌を歌わせ踊らせた。こうした「やらせる」=タスク系の作品では、プレイヤーの性能が際立ってくる。それが見所になる。名古屋市美術館の島袋は、篠島の人々の生活に芸術のフレームを置いてその性能(の見事さ)を際立たせようとした。長者町会場の山本の場合は、地獄の立体造形や歌といった芸術的表現は手段であって、地獄の説明や歌っているときの挙動の一つひとつに表われる、子どもという存在の奥深さ、不可解さそれ自体が見所となっていた。
山本高之「どんなじごくへいくのかな」
2010/08/24(火)~25(水)(木村覚)


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