artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

北島敬三「UNTITLED RECORDS 2018」

会期:2019/05/07~2019/05/27

ニコンプラザ新宿 THE GALLERY[東京都]

北島敬三は1990年代から各地の風景を厳密な画面構成で撮影していく「Places」のシリーズを制作・発表し始めた。その試みは2000年代に入っても続けられ、2012年、2013年に『日本カメラ』に発表されたときから「UNTITLED RECORDS」と命名されることになる。2014年からは、年4回ほどのペースで東京・新宿のphotographers’ galleryでの連続展が開催され、その度に同名の写真集が刊行されるようになった。その数はすでに15回を数える。今回のニコンプラザ新宿 THE GALLERYでの展示は、2018年に1年間かけて北海道から沖縄まで全国各地で撮り下ろした写真を集成したもので、あわせて写真集『UNTITLED RECORDS Vol.16』(KULA、2019)が刊行された。

一見すると、かなり恣意的に「無題の」風景や建物を切り取っているようだが、このシリーズには北島の周到な選択眼が隅々まで働いている。撮影しているのは必ず曇り、雨などの日で、風景にドラマチックな要素を付け加える光はできる限り排除される。被写体として選ばれるのは、あまり地域的な特徴を持たない建物で、テントや小屋などを含む「仮設」の印象を与えるものが多い。建物を単独でクローズアップすることはほとんどなく、空き地や道路のような周辺の環境がかなりのスペースをとって写り込んでくる。このような厳密な手続きを経て定着された眺めは、2011年の東日本大震災以後の日本各地の景観がどのように変貌しつつあるかを、まざまざと指し示している。画面を覆い尽くす「鈍色の輝き」(倉石信乃)は、まさにこの時代の空気感そのものだ。

このプロジェクトは2021年まで、全20回にわたって続けられる予定だが、これら名もなき風景の記録が、50年先には「未来の視覚資料」としての重要な意味を持つことは間違いない。今回の個展はその中間報告的な意味合いを持つものであり、プロジェクトが完結したときには、より大規模な展示を実現してほしいものだ。

2019/05/14(火)(飯沢耕太郎)

オサム・ジェームス・中川「Eclipse:蝕/廻:Kai」

会期:2019/04/13~2019/05/20

ギャラリー素形[京都府]

KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2019のアソシエイテッド・プログラムとして、ニューヨークで生まれ日本で育ち、2国のアイデンティティを踏まえて活動する写真家オサム・ジェームス・中川の個展が開催された。展示内容は、1990年代の初期作品をベースに、トランプ政権後のアメリカ社会の変容を意識して新たに制作した「Eclipse:蝕」と、自身の両親の死や老い、妻の妊娠、娘の誕生といった家族を通して生命と死を考える「廻:Kai」の2つのシリーズから成る。社会批評と極私的なプライベートという2つの対極的な軸から成る構成だが、両者に通底するのは、「写真イメージ」への自己言及性だ。

「Eclipse: 蝕」では、無人の荒涼とした風景のなかに、朽ちかけた巨大なスクリーンが壁のように建つ。これらは、野外の駐車場にスクリーンを設置し、車に乗ったまま映画を鑑賞できる「ドライブ・イン・シアター」の残骸である。1930年代にアメリカで始まった、車社会を象徴する娯楽であり、1950年代末~1960年代初頭に最盛期を迎えた。中川は、ハリウッド映画や大企業の広告が、「アメリカン・ドリーム」という虚構の神話を大衆に浸透させる一方で、宗教や人種的対立、移民労働、経済格差などの不都合な問題を隠蔽している構造への批判から、90年代に「ドライブ・イン・シアター」と「ビルボード」のシリーズを制作した。本展でも紹介されたこれらの作品では、荒れ果てた風景のなかに建つ巨大スクリーンに、KKK(白人至上主義者)のデモや移民労働者のイメージが合成され、「隠蔽された社会的真実が当の隠蔽装置それ自体を用いて上映・広告されるが、誰も見る者はいない」という強烈な皮肉を放つ。


[©︎ Osamu James Nakagawa Courtesy of PGI]


一方、トランプ政権成立後に制作された「Eclipse:蝕」では、スクリーンには何も投影されず、ただ空白のみが提示される。よく見ると、スクリーンの背後の鬱蒼とした木立や手前に生い茂る植物、散乱したゴミの一部はネガポジ反転され、視界が奇妙に歪む。暗く沈んだ空も時間の把握を狂わせ、「日蝕」のように夜なのか昼なのか、現実なのか虚構なのか判然としない空間が立ち現われる。同一画面におけるネガとポジの入り組んだ混在は、ポジ(ハリウッド映画やメディアが喧伝する多幸的な未来)とネガ(それらが破綻したディストピアの荒廃)が同居する社会の像とメタフォリカルに重なり合う。こうした「Eclipse:蝕」には、90年代の過去作品のネガをデジタルに起こしたものと、新たに撮影されたものとが混在する。それは、アメリカ社会のかつての繁栄と現在の荒廃、自作の過去と現在といった時間の層を何重にもはらみ込みつつ、入れ子状になったスクリーンの空白は、未来の展望の不在、視覚イメージの飽和、不気味な沈黙の圧力、そしてイメージが消去された検閲的状況さえ匂わせる。


[©︎ Osamu James Nakagawa Courtesy of PGI]


一方、もうひとつのシリーズ「廻:Kai」では、遺影のようなポートレートが暗示する父親の死や不在、老いていく母親の身体、妊娠した妻、娘の誕生と成長といった自身を取り巻く家族の生と死が、象徴的なイメージとともに紡がれる。ナチュラルな木枠と黒枠のフレームが二対になった構成は、生命/老いや死のイメージを対置させるが、氷漬けにされた写真、その解けかけた様子が示唆する記憶の凍結と解凍、ガラスに反映したカメラを構える自己像、無邪気にカメラで遊ぶ娘を挟んで両脇に落ちる自身と妻の影、スクリーンや皮膜を思わせる存在の挿入など、「写真」への自己言及的な眼差しに満ちていた。


[©︎ Osamu James Nakagawa Courtesy of PGI]

2019/05/12(日)(高嶋慈)

KG+ 國分蘭「In The Pool」、平野淳子、叶野千晶「Shower room」

会期:2019/04/12~2019/05/12

五条坂京焼登り窯[京都府]

KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2019の同時開催イベント、KG+の会場のなかでも、例年、異彩を放つ五条坂京焼登り窯。五条坂など京都の東山山麓の一帯は、昭和30年代まで、数十基の窯が稼働する製陶業の一大産地として栄えた。多くの登り窯が操業を停止し、窯も失われた現在、操業当時の姿を留める貴重な歴史遺産であり、巨大な登り窯と作業場、煉瓦づくりの煙突が残されている。普段は一般非公開だが、KG+などアートイベントの会場として活用されている。今年は特に、場所の記憶に繊細な眼差しを向け、写真資料を用いて、あるいは歴史の潜在性と可視化するメディアである写真との拮抗関係を探る3人の女性写真家(國分蘭、平野淳子、叶野千晶)が、問題意識の共通性と差異という点でも目を引いた。

國分蘭は、出身地である北海道の留萌(るもい)が、かつてニシン漁で栄えた歴史に着目。ニシン漁は雇用を生み出し、「ニシン御殿」を建てるほど財を築く人もおり、一大産業として栄えたが、昭和30年代を境に漁獲量は激減した。だが現在、孵化させた稚魚をプールで飼育し、海へ放流する取り組みが行なわれている。また、産卵期のニシンが浜に戻ってくるようになり、オスが放出した精子で沖合が白く染まる「群来(くき)」という現象が再び見られるようになった。まだ雪を被った浜辺の彼方の海面が、薄いエメラルドグリーンのような色を帯びて輝く、神秘的な光景だ。プールで泳ぐ稚魚の群れは、人工的な設備や管理下に置かれながら、人間の介入を凌駕するほど生命力にあふれ美しい。

また、秀逸だったのが、登り窯の特異な空間性を活かした、資料写真の展示方法だ。ニシン漁で栄えた往時の記録写真は、洞窟か小さなトンネルのように開いた窯の入り口や窪みのなかに置かれ、鑑賞者は手持ちライトで照らさないと、よく見えない。「(そこにあるにもかかわらず)見る者が働きかけないと気づかない、よく見えない」という能動的・身体的関与を通して、文字通り「過去に光を当てる」営みは、歴史資料それ自体との向き合い方についても示唆的だった。


國分蘭「In The Pool」 展示風景


また、平野淳子は、2020年の東京オリンピックに向けて解体と建設工事が進む国立競技場の変容を継続的に撮影しつつ、この土地が国家的欲望とともにはらんできた重層的な歴史へと眼差しを誘う。全面建替工事にむけて競技場が解体され、池ができて、繁った草地を鳥が飛び交う様子は、モノクロで撮影されていることも相まって、江戸の街が形成される前の湿地の姿という遠い過去の残滓を呼び寄せる。一方、建設途上の様子は、直線が交差する構成的なアングルで切り取られ、著しい対比をなす。添えられた2枚の資料写真は、かつてこの地が、青山練兵場と、昭和18年の学徒出陣の壮行会会場であったことを示す。自然へと還る作用と人工性を行き来しつつ、2度のオリンピックと戦争という国家的欲望を刻まれた場所の歴史、さらには未来に到来する廃墟の残像さえも思わせるような不穏さに満ちていた。


平野淳子 展示風景


一方、叶野千晶の「Shower room」は、一見すると、ひび割れや青カビに蝕まれた朽ちかけの壁、あるいは厚塗りの地に青や白の絵具が滴った静謐な抽象画を思わせる。だが、「Shower room」というタイトルが示すように、これらは、ポーランドのマイダネク強制収容所のガス室の壁を捉えたものであり、青い染みは、一酸化炭素が送り込まれた部屋の壁にシアン化水素が付着して残ったものである。叶野は、資料写真の併用や収容所の外観を捉えることはせず、ただ「壁」の表面だけを凝視し続ける。それは、物理的には化学物質の痕跡だが、涙や血の堆積した跡のようにも見え、メタフォリカルな意味の読み取りを誘うとともに、「私たちが目にできるのは痕跡でしかない」という写真の事後性を突きつける。その営みは、「表象不可能性」というすでに手垢にまみれた諦念の身振りを、粘り強い凝視によって超えていこうとする意志を感じさせる。


叶野千晶「Shower room」 展示風景



© Chiaki Kano


「かつての窯の跡」という場所の歴史性も相まって、産業とその衰退、土を焼いて造形する「陶芸」とも共通する人為的介入と自然作用の関係、現実の窯の存在感や「焼成」のプロセスとも結びついてしまう「ガス室」の記憶など、写真表現を通した歴史的記憶への対峙について考える機会となった。

2019/05/12(日)(高嶋慈)

永坂嘉光「空海 永坂嘉光の世界」

会期:2019/04/18~2019/06/03

キヤノンギャラリーS[東京都]

永坂嘉光は1948年に和歌山県高野山に生まれ、大阪芸術大学に在学していた20歳の頃から、生まれ育った高野山一帯を撮影し始めた。以来50年にわたって、ライフワークとして撮り続けてきた写真を集成したのが、今回の「空海 永坂嘉光の世界」展である。

永坂の写真を見ると、やはり子どもの頃から慣れ親しんできた高野山を、そのまま自然体で撮影し始めたことが大きかったのではないかと思う。高野山はいうまでもなく、空海(弘法大師)を開祖とする真言宗の聖地であり、一大宗教都市でもある。だが、永坂の写真には、ともすれば古寺や仏像を撮影する写真家が陥りがちな、エキセントリックで神懸かり的な雰囲気はほとんど見られない。むろん朝霧に包まれた根本大塔の遠景や、吹雪の日の壇上伽藍、夏の台風が通り過ぎたあとに水平にかかる虹の眺めなど、奇跡とも思えるような瞬間を写しとめた写真はたくさんある。だが、それらを含めて、永坂は画面構成や露光時間を厳密に設定し、こう写るはずだという予測のもとにシャッターを切っている。時に予測を超えた光景が「写ってしまう」こともあるが、それも含めて「写っている」ものを受け容れていこうという姿勢は一貫している。別な見方をすれば、彼の写真は、あらゆる観客、読者に向けて開かれた普遍性と奥行きの深さを備えているともいえるだろう。

今回の展示では、高野山だけでなく、空海が修行した四国や中国で撮影した写真を含めて、その足跡を「地、水、火、風、空」の「五大」の集合体として捉え直そうとしている。東寺の五大明王像や両界曼荼羅図の写真を含む、内陣のような空間を会場の中央に置いた展示構成も、とてもよく練り上げられていた。永坂の写真の世界は、空海や高野山に留まることなく、より拡張していく可能性を秘めているのではないだろうか。なお展覧会にあわせて、代表作147点をおさめた写真集『空海 五大の響き』(小学館、2019)が刊行された。

2019/05/11(土)(飯沢耕太郎)

浜昇『斯ク、昭和ハ去レリ』

発行所:ソリレス書店

発行日:2019/04/29

荒木経惟は、1989年1月8日に、滞在先の山口から東京に戻って昭和天皇の崩御の翌日に皇居前広場に集まった群集を撮影している。同年2月24日の大喪の礼のときも、車列を見送る人々にカメラを向けた。これらの写真は、その年に日付入りコンパクトカメラで撮影した写真群を集成した写真集『平成元年』(アイピーシー、1990)におさめられている。

浜昇もまた、1989年2月24日の大喪の礼の日を中心に、その前後の日々を撮影していた。葬列を見るために集ってきた人々の傘、傘、傘の群れ、閉じられたシャッター、紙や布で目張りをされたショーウィンドー、日の丸の旗などが、「その人」の不在を生々しく浮かび上がらせる。やや黒めのプリントのトーンの選択が実に的確だ。ただ、浜は荒木と違って、これらの写真をすぐには発表しなかった。30年の時を経て、彼がいま写真集をまとめた意図は明らかだろう。平成から令和へと年号が変わろうとするこの時期に、あえてその前の昭和を振り返り、あわせて「天皇」という存在を問い直したかったからだ。

日本人の天皇制に対する思考停止の状態は、1989年の時点と比較してより強まっているように感じる。浜の写真群は、30年前の記憶の再検証を通じて、あらためてそのことに意識を向けさせるように編集されている。30年前の「記録」が、強いメッセージを含む「表現」に転化するまでにはそれだけの時間が必要だったということだろう。なお、浜昇は1975年にワークショップ写真学校の東松照明教室で学んだことから、写真家としての経歴をスタートさせた。もし東松が生きていたら、この作品をどのように評価しただろうか。戦後の写真史に新たな一石を投じる写真集といえるだろう。

2019/04/29(月)(飯沢耕太郎)