artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

青木陽「should, it suits, pleasant」

会期:2019/04/18~2019/04/30

Alt_ Medium[東京都]

青木陽は今回の個展「should, it suits, pleasant」に寄せたテキストに以下のように記している。

「世界は私たちの接する物事はほぼ全てが人為的なものです。それらの含む人の作為から逃れることはできない。そしてそれゆえ同じ用途に供するものであってもある部分に関して何故A’ではなくAなのかという事柄は無数に存在する。何かとても形容しがたいものを感じる。」

このような、「何かとても形容しがたい」という感慨を抱くことは、僕にもよくある。現実世界に目をやると、そこに溢れかえっている「人為的」な事物の連なりが、「何故A’ではなくAなのか」ということがわからなくなってしまうのだ。青木が写真撮影を通じて探り当てようとしているのは、日々の出来事のなかから不意に浮上してくるそのような些細な違和感、見慣れたものが見慣れないものに変容してしまう瞬間に形を与えようとすることだ。一見地味で、とりとめなくさえ見える彼の写真に目を凝らすと、青木がそのような場面に向けてシャッターを切っているときの歓びと手応えを、共有できそうに思えてくる。

彼が2013年に東川町国際写真フェスティバルの赤レンガ公開ポートフォリオオーディションでグランプリを受賞したときの作品は、モノクロームでプリントされていた。その後、引越しなどで暗室を維持するのがむずかしくなり、今回の作品はデジタルカメラで撮影してレーザープリンタで出力している。だが、そのややチープな、ノイズが入ったような色づかいのプリントの感触は、逆にいまの現実の有り様をそのまま正確に写し取っているように見える。そこには「世界がこんなふうに見えてきた」という切実なリアリティがある。2015年に第12回写真「1_WALL」展でグランプリを受賞するなど、青木の評価は一部では高まっているが、一般的な知名度はまだ低い。力のある作家なので、そろそろ写真集をまとめてほしいものだ。

2019/04/29(月)(飯沢耕太郎)

The 10th Gelatin Silver Session──100年後に残したい写真

会期:2019/04/26~2019/05/06

アクシスギャラリー[東京都]

ゼラチンシルバーセッション(GSS)の企画は、2006年に藤井保、広川泰士、平間至、瀧本幹也の4人が、互いのネガを交換してそれぞれの解釈でプリントした作品を展示することからスタートした。それから13年、今回の10回目の展示で、その活動は一応の区切りを迎えることになった。

今回参加した写真家は50名で、それぞれ銀塩プリントによる未発表作品を出品し、「100年後に残したい写真」というテーマに沿ったコメントを寄せている。顔ぶれを見ると、前記の4人に加えて三好耕三、百々俊二、ハービー・山口、操上和美、水越武、今道子、若木信吾、中藤毅彦といったベテラン、中堅作家、さらには草野庸子、小林真梨子といった1990年代生まれの若手写真家も含まれており、バランスがとれたラインナップになっていた。展示作品を収録した小冊子所収のテキスト(執筆者不明)には「アナログがおもしろいと感じるデジタルネイティヴの若い世代が増えてきている」こと、そして「そんな彼らに思いを託して私たちのバトンを渡します」と記されているが、主催者側の「思い」は充分に伝わってきた。

ただ、この企画がスタートした2006年の頃と比較して、銀塩写真をめぐる環境は相当に厳しくなってきている。フィルムや印画紙の生産・供給が先細りになっていることに加えて、デジタル化の技術的な進化で、銀塩写真に特有のものとされてきた画像のクオリティの優越性が、絶対的なものではなくなりつつあるからだ。本展に出品した写真家たちのほとんどが、写真の仕事においてはデジタルカメラやプリンタを使っているはずで、「なぜ、銀塩写真なのか?」という問いかけに答えるのはさらにむずかしくなっているのではないだろうか。ゼラチンシルバーセッションの活動が今後どのように続いていくかは未知数だが、これまでとは違う段階に入ることは確かだろう。

なお、同時期にフジフイルム スクエアでも別ヴァージョンでの「ゼラチンシルバーセッション」展が開催された。(4月26日〜5月9日)創設メンバーの4人による第1回展を再構成した「藤井 保 広川泰士 平間 至 瀧本幹也」──すべてはここからはじまった──展と、モノクロームのネオパン100 ACROSフィルムを使って39人の写真家が撮り下ろした作品を展示する「FUJIFILM ACROSS × 39 Photographers」展のカップリング企画である。こちらもかなり見応えのある好企画だった。

2019/04/29(月)(飯沢耕太郎)

三浦和人「ランド」

会期:2019/04/11~2019/04/23

第1会場/ギャラリー彩光舎、第2会場/ギャラリー楽風[埼玉県]

以前、 三浦和人から東日本大震災の被災地を撮影していると聞いたとき、やや違和感を覚えた記憶がある。桑沢デザイン研究所で牛腸茂雄と同級だった三浦は、同校卒業後も身近な日常の人物と光景を淡々と撮り続けてきたからだ。だが、ギャラリー彩光舎で展示された、2011年4月から1年に2〜3回のペースで撮影した「太平洋沿岸──岩手・宮城・福島」の写真を実際に見ると、三浦のスタンスがまったく変わっていないことに胸を突かれた。

三浦は被災地の建物、植生、モノなどの眺めを、6×9判あるいは6×12判のフォーマットのカメラにおさめている。その光景にはたしかに痛々しい傷跡が刻みつけられているものもあるが、非日常が日常化していくプロセスを細やかに観察し、あくまでも平静に記録していく手つきに揺るぎはない。三浦は撮影のあいだ、できる限りその土地の住人たちと交流するのを避けていたという。そんな禁欲的な姿勢を貫くことで、あまり類をみない「震災後の写真」が成立した。ただ、最初に被災地(気仙沼)を訪ねたその日の夜明け前に、神社のある高台から撮影したという2枚の写真だけはややニュアンスが違う。黒々としたトーンでプリントされた2枚の写真には、薄闇の奥で何かが蠢いているような気配が漂っており、三浦の感情の高ぶりが感じられる。このような写真をあえて外さなかったところに、彼の誠実さがあらわれているのではないだろうか。

なお、第2会場のギャラリー楽風では「埼玉──見沼・浦和」を6×6判のカメラで撮影した写真が並んでいた。こちらも基本的な撮影のスタイルは変わらない。だが東北の写真よりは、フレームの中におさめられた事物が、自然体で見る者に語りかけてくるような、親しみやすさを感じさせるものが多い。

2019/04/19(金)(飯沢耕太郎)

倉谷卓・山崎雄策×喜多村みか・渡邊有紀「ふたりとふたり」

会期:2019/04/16~2019/05/19

kanzan gallery[東京都]

「ふたり」と「ふたり」の写真家ユニットによる興味深い展覧会である。ともに1984年生まれの倉谷卓と山崎雄策は、2017年からTHE FAN CLUBとしての活動を開始した。それぞれが「大切な人」をテーマに撮影したネガに直接切手を貼って郵送し、受け取った側がそれをプリントするというコンセプトで制作されたのが、本展に出品された「FAN LETTER」シリーズである。一方、大学の同級生だった喜多村みかと渡邊有紀は、2003年頃から互いのポートレートを撮影するという作業をずっと続け、「TWO SIGHTS PAST」の連作として発表してきた。今回の「ふたりとふたり」展は、倉谷と山崎が「共作を開始するにあたって影響を受けた」喜多村と渡邊に声をかけるというかたちで実現したのだという。

成り立ちも制作期間もまったく違うので、二つの作品を同列に論じることはできない。倉谷と山崎の「FAN LETTER」は、まだ開始されてから間がなく、これから先の展開も予測がつかない。だが、プライヴェートな状況を、写真撮影と作品化のプロセスを通じて共有化し、積み上げていくという意味では両者とも大きな可能性を持つプロジェクトではないかと思う。特に15年という時間を経た喜多村と渡邊の「TWO SIGHTS PAST」は、すでにかなりの厚みを備え、内容的にも深まりを見せている。今回は、一年ごとに写真を展示し、小冊子の写真集としてまとめているのだが、2017年の分だけが空白になっていた。会う機会はあっても写真を撮影しなかったということのようだが、逆にそのブランクに「撮り続ける」ことの重みを感じた。このシリーズは、そろそろ1冊の写真集にまとめてもいいのではないだろうか。

2019/04/17(水)(飯沢耕太郎)

KG+ 前谷開「KAPSEL」

会期:2019/04/05~2019/04/30

FINCH ARTS[京都府]

カプセルホテルの壁に描いたドローイングとともに、全裸のセルフポートレートを撮影した「KAPSEL」を2012年から継続的に制作している前谷開。「六本木クロッシング2019展:つないでみる」にも出品された同シリーズが、KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2019の同時開催イベントの個展で展示された。

白くクリーンだが無機質なカプセルホテルの個室内に座り、こちらを見据える全裸の前谷。その手には遠隔でシャッターを切るレリーズが握られ、個室の入り口の前に据えられたカメラが、四角い窓の向こう側に開いた異空間のような光景を切り取る。個室内の壁を接写したカットには、女性のヌードや男根的な突起などエロティックなドローイングや、謎めいたイメージや象徴的な目が写っており、不鮮明なブレと相まって、カプセルホテルで過ごした一夜に見た夢の感触を描き殴った夢日記のようにも見える。また、「まだ、死なないで」「Keep in touch」といった断片的な言葉も添えられる。孤独や傷つきやすさを抱えた存在、一糸まとわぬ全裸の姿がより強調するヴァルネラビリティ(被傷性)、他人や社会から遮断し保護してくれるシェルター的空間、妄想が護符のように描かれた壁、その閉鎖性や内向性を強く印象づける。



会場風景

こちらに向けられた前谷の眼差しは、無防備さと緊張感が入り交じり、凝視しているがどこか虚ろさを感じさせる。シャッターを操作するのは前谷自身だが、自分ではファインダーを覗けないため、カメラに向けられた眼差しや表情は、鏡を見るときのように完全にコントロールされたものではない。

ここで、対極的な作品として想起されるのは、横溝静の写真作品「ストレンジャー」である。横溝は、路上に面した窓のある家に住む見知らぬ住人に手紙を送り、指定した撮影日時に部屋の灯りを点けてカーテンを開けた窓辺に立ってもらうよう要請し、撮影協力に応じた彼らのポートレートを、夜の窓越しに撮影した。カメラを構える写真家の姿は夜の闇に沈む一方、灯りの点いた部屋のなかでは、窓ガラスは外界への通路ではなく、自身を映し出す「鏡」となる。見知らぬ他人(写真家)の視線に晒されていることを意識しつつ、鏡面となった窓ガラスに映る自分を眼差し続ける彼らは、自己と他者、見る/見られるという緊張感、カメラが視界に入らないという安堵と「いつ誰に撮られているかわからない」という緊張感を行き来しながら、シャッターを切ってイメージとして捕捉する決定権を写真家に無防備に委ねている。横溝は、文字通り「フレーム」として両者を区切る窓という装置を挟んで相対しつつ、「自身を凝視する眼差し」そのものを抽出する。被写体であり、かつ見る主体でもある彼らにとって、「ストレンジャー」は写真家を指すだけではなく、コントロールを外れた状態でかすめ取られた、自己像の不意打ち的な提示でもある。一方、前谷の場合、「自身を凝視する視線」の提示は、レリーズによるシャッターの遠隔操作によって他者をまったく介在せずに行なわれ、「カプセルホテル」という空間が、その閉鎖性や内向性をより強調する。

だが、「カプセルホテル」という空間は、「セルフヌード」であることとも相まって、外界からの遮断や閉鎖性、シェルターへの希求と親和性が高いだけに、そうした内向的心理と密着しすぎて作品の幅を狭めてしまうのではないだろうか。確かに「カプセルホテル」は、外界や社会から遮断してひとりになれる避難場所を象徴する一方で、個人の生を最小限に規格化されたユニットに押し込む近代的合理化や均質性の極限的装置であり、モビリティや経済格差の拡大を反映する社会的装置でもあり、立地場所は都市のなかの場所の地政学とも関わり合っている。「カプセルホテル」という主題は、そうした広範な可能性を秘めている。「自己と向き合う」作業を通じて、個の内面の凝視にとどまらず、自身を取り巻くより広範な社会性が否応なしに透けて見えてくる、そのようなシリーズとしてのさらなる成長を期待したい。



会場風景

2019/04/14(日)(高嶋慈)