artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

とある窓

会期:2019/03/15~2019/03/31

浄土複合 スクール[京都府]

「浄土複合」は、2019年3月、京都市左京区の浄土寺エリアにオープンした複合アートスペース。ギャラリーと共同スタジオの運営とともに、ライティング・スクールも開催され、「展示」「制作」「批評」が交差する場の創出を目指すという。ディレクションは美術家の池田剛介、ギャラリー「FINCH ARTS」は櫻岡聡、ウィンドーギャラリー「Stand-Alone」は沢田朔、ライティング・スクールは編集者の櫻井拓が担当。元店舗の二軒並びの建物を改装し、それぞれ1階がホワイトキューブの展示空間に生まれ変わった。銀閣寺や哲学の道に近い浄土寺エリアは、観光客が多く訪れるとともに、劇団・地点が主催するアトリエ兼劇場「アンダースロー」や実験的なスリーピース・バンドの空間現代が運営するライブハウス「外」があるなど、近年、インディペンデントな文化エリアとなりつつある。

本展「とある窓」は、東日本大震災から7年あまりの経過後、岩手・宮城・福島の沿岸にある「窓」から見た光景を、地域と協働して記録をつくる組織NOOKによる聞き書きのテクストと、同行した写真家の森田具海が撮影した写真によって構成されている。昨年末に仙台で発表され、今春、京都に巡回した。展示は、壁に1点ずつ掛けられた「窓」の写真の下に、対応する聞き書きを収めた本が置かれ、鑑賞者は、方言で語りかける匿名の語り手の声に耳を傾けながら、室内から「窓」を通して見える/かつて見えていた風景を眼差すように誘われる。生々しい爪痕の残る窓や壊れた室内はなく、ごく平凡な窓を通して四角く切り取られた風景が、ほぼ無人の室内とともに淡々と写し取られている。だが窓外の風景は、クレーン車が作業中のかさ上げ工事、草の生い茂った空き地、更地に突然そびえる真新しい団地が多く、「震災後」の風景の変容を伝える。また、海や漁船、堤防の一部が見える窓も多い。



[撮影:前谷開]


震災後、自宅の庭で唯一残った石を運び、新しい庭に花や株を分けてくれた人々や前の庭の思い出を語る住人。松林が流され、海が見えるようになった海辺の公園のスタッフは、「子どもの頃の記憶と合致する場所として残ったのはここだけ」という安堵感と申し訳なさの感情を複雑に抱きつつ、再び子どもの遊び声が響く地域の拠点にできないかと展望を語る。公営住宅に住む老人は、「海は身体の一部。海の見えない暮らしは苦痛」と語りつつ、出征時にも披露していた民謡と、70代になって始めた民話が生きがいだと語る。かつて船で渡って田んぼを耕していた島は防潮堤で囲まれ、風景は一変したが、今も海に向かって民謡の練習をするのだと。一方、60年以上も同じ風景を見ているという老婦人は、「白い防潮堤が建つと、海が見えなくなる。でも、もう何十年も見せられたんだから、いいんだ」と呟く。福祉作業所のメンバーは、震災を契機に地域外の支援団体と交流ができ、「障害をひとつの価値と捉えて、カフェやギャラリーなど交流の場をつくり、仲間と自立する道を考え始めた」と語る。NPO法人の理事長は、「被災した障害者の支援のため、仮設住宅を回りたいがなかなか会いに行けない。ここに来てきてくれないかと待っている」と語る。その時、室内から入り口のガラス戸越しに外の風景を捉えたショットは、語り手の視線を擬似的にトレースしたものとして経験される。



[撮影:森田具海]


本展が秀逸なのは、複数の意味やメタファーを内包する「窓」という装置に着目した点だ。それは、室内と外、人の生活と自然、「今」の暮らし/震災の記憶/震災以前の過去/未来の展望といったさまざまな境界を隔てつつ結びつける媒介であり、語り手の心の内をのぞき込む装置であり、室内=箱のなかから明るい外界に開いた「窓」が切り取るフレーミングは、「視線」の謂い、とりわけ「カメラ」それ自体への自己言及性もはらむ。また、あえて室内には語り手が登場せず、方言とともに語りのリズムを伝える文章が匿名のまま添えられることで、想像の余白を生む。鑑賞者は、「生活の場から外界へ」「現在から過去・未来へ」眼差しを向ける語り手の視線を個人史に寄り添いながらトレースし、「もはや見えなくなった風景/これから見える風景」を共に想起するのだ。



[撮影:森田具海]


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「立ち上がりの技術vol.3 とある窓」|五十嵐太郎:artscapeレビュー

2019/03/24(日)(高嶋慈)

VOCA展2019 現代美術の展望─新しい平面の作家たち

会期:2019/03/14~2019/03/30

上野の森美術館[東京都]

「絵画や写真など平面美術の領域で高い将来性のある40才以下の作家を奨励する」という目的で、全国の美術館学芸員、研究者、ジャーナリストなどが推薦したアーティストの作品を展示する「VOCA展」も、今回で26回目を迎えた。数年ぶりに会場に足を運んだのだが、写真・映像作品が多くなっていることにあらためて驚かされた。33名(組)の出品者のうち、じつに9名が写真を使っている。

とはいえ、「岩肌を撮影した写真を破いて貼り合わせ、ハンドスキャナーでスキャン」する滝沢広、「モノ自体に輪郭線を引いて」撮影する石場文子、高速道路での「小さな生物との衝突跡を望遠レンズと顕微鏡の対物レンズで接写」する岡本高幸、「自らの写真をコラージュ」して「現代のバベルの塔」のイメージを構築するクスミエリカなど、写真の使用法はじつに多様で、作品の見かけにもかなりの幅がある。写真撮影やプリントを制作のプロセスに取り込むことが、もはや現代美術家にとってごく当たり前な、自然体で実行できる行為になっていることがよくわかった。

特に注目したのは喜多村みかの《TOPOS》(大原美術館賞)と新井卓の《第五福竜丸〈乗組員の布団〉のモニュメンツ》である。喜多村は自宅と思しき室内の空間のモニターに映る画像を、時間を変えて定点観測的に撮影した2枚の写真を提示した。少女と群衆が映る画像の意味・内容は特定できないが、私的な空間に社会性を帯びたイメージが暴力的に侵入してくる状況が、的確なフレーミングと明暗処理で定着されていた。新井卓は第五福竜丸展示館の収蔵資料である「乗組員の布団」を280枚に分割撮影したダゲレオタイプ作品、乗組員だった大石又七氏が布団に寝た痕跡を定着したインスタレーション、大石氏へのインタビュー映像を組み合わせて展示している。ダゲレオタイプという古典技法へのこだわりを維持しながら、さらに表現の幅を拡張していこうとする意欲的な姿勢に共感を覚えた。

2019/03/18(月)(飯沢耕太郎)

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山岸剛『Tohoku Lost, Left, Found』

発行所:LIXIL出版

発行日:2019/03/01

「3・11」からちょうど8年が過ぎ、あらためて東日本大震災の意味を問い直す写真の仕事が立て続けに公開されている。建築写真を専門に撮影してきた山岸剛の『Tohoku Lost, Left, Found』もそんな一冊である。山岸は震災前の2010年から東北地方の沿岸部を撮影していたのだが、2011年5月に岩手県宮古市、山田町、大槌町、宮城県気仙沼市などを訪れ、それから3カ月に一度ほどのペースで被災地に通い詰めるようになった。本書には2017年9月までに撮影された199枚が、フルカラーで462ページにおさめられている。長期にわたって集中力を保って撮影し続けた労作といえるだろう。

ページを繰ると、山岸の関心が主に建造物に向けられていることがわかる。津波の恐るべきエネルギーが、どのように建物を破壊したのかが、克明に撮影されている。当然ながら、その破壊の状況は驚くほど多様であり、同時に津波から街が復興していく過程で建造されていった仮設住宅や防波堤などもさまざまな形態をとる。この写真集の最大の見所が、プロフェッショナルな建築写真家の視点で捉えられた東北地方の被災と復興のプロセスの、多層的かつ厚みのある記録にあることは間違いない。

ただ、写真に添えられたキャプションが、撮影の日付と撮影場所の地名だけというのはやや物足りない。できれば建築の専門家によるより詳細なレポートと、山岸自身のコメントがほしかった。多彩な写真群を、視覚的なリズムに配慮して構成した岡崎真理子によるデザイン・レイアウトが、よく練り上げられていることも付記しておきたい。

2019/03/18(月)(飯沢耕太郎)

奥山由之「白い光」

会期:2019/03/07~2019/04/15

キヤノンギャラリーS[東京都]

会場の入り口で小型のフラッシュライトを渡される。中に入ると真っ暗で、そのライトで照らし出しながら写真を見るというのが、今回の奥山由之の展示のコンセプトだ。入場制限があり、一度に3人しか会場に入れない。あまり人が多すぎると、ライトが交錯して写真を見る行為に集中できないからだという。

このような趣向を凝らした展示のやり方は、けっして嫌いではない。奥山が会場に掲げたコメントで述べているように、現代社会では「空間のみならず自己を取りまく全ての情報や環境を照らし出す」ような状況が蔓延しており、「視えることで見えなくなったもの」がたくさんあるからだ。今回のインスタレーションは、むしろ見えにくくすることで、作品をより注視することができるようになるのではないかという奥山の真摯な問いかけでもある。

ただ、本展に出品された「白い光」という作品についていえば、そういうトリッキーな見せ方がよかったかどうかはやや疑問がある。じつは、僕はこの作品を昨年12月の全国カレンダー展の審査の時に見ている。審査員たちから高い評価を受けたその「気仙沼漁師カレンダー2019」は、奥山が何度も漁船に乗り組んで撮影したもので、漁業に従事する男たちのエネルギッシュな作業の様子と、潮風の匂いを感じさせるような海上の雰囲気をストレートに捉えた写真で構成されていた。

今回のインスタレーションの意図として、「漆黒の闇を進む。聞こえるのは、波の呼吸とエンジン音」という撮影時の状況を、観客に追体験させるということがあったのではないかと思う。それには確かに成功しているのだが、「気仙沼漁師カレンダー」の時のようなオーソドックスな見せ方のほうが、伝わるものが多かったのではないだろうか。ライトで照らし出す展示は、やはりそのことに気をとられ過ぎてしまって、写真をしっかりと受けとめることができにくくなるからだ。この展示の仕方は、むしろ別の機会にとっておいてもよかったかもしれない。

2019/03/12(火)(飯沢耕太郎)

Uma Kinoshita / 矢作隆一「Pairing FUKUSHIMA 写真家と造形作家による二人展

会期:2019/03/01~2019/03/30

EMON PHOTO GALLERY[東京都]

今年も「3・11」が巡ってきた。東日本大震災から8年目ということで、生々しい記憶が薄れつつあることは間違いないが、アーティストたちにとっての「3・11」はむろんまだ継続している。東京・広尾のエモン・フォトギャラリーでは、震災と原発事故に触発された「写真家と造形作家による二人展」が開催された。

Uma Kinoshitaは震災の3年後に福島を訪れて撮影した写真を、福島県でつくられた手漉き和紙に焼き付けている。被災地の光景は注意ぶかく選ばれており、特に「Homeland」と題された、樹木と墓の写真を何種類かの和紙にプリントしたシリーズには、その繊細な明暗とテクスチュアへのこだわりがしっかりと表現されていた。それぞれの写真には作家自身が執筆したというテキストが添えられている。「誰もいないの?」/「いないね」/「どうして?」/「住めなくなったんだな 故郷なのに」/「故郷?」/「帰りたいと思える 帰る場所のことだよ」という具合に、会話体を活かしたテキストも、よく練り上げられたものだ。ただ、作者の立ち位置がやや曖昧なので、なぜ、いま福島の写真なのかという問いかけに完全に答えきっているようには見えなかった。

メキシコ在住の矢作隆一は、石のフォルムを、石彫の技術を駆使して別な石でそっくりそのまま再現する「模石」という手法で作品を発表してきた、いわば、石の立体写真という趣の作品だが、今回は福島県の浪江町と富岡町で拾ってきた石を、メキシコ唯一の原子力発電所がある場所で採取した石を使って「模石」している。その表現意図は明確だが、むしろそれよりも、一方は何万年という時間を経て形成され、一方はせいぜい数週間という単位でつくられた2つのそっくりな石が並んでいる、そのたたずまいに惹きつけられる。なんの変哲もない小石に秘められた、時間のドラマを感じないわけにはいかないからだ。

二人のアーティストの作風はかなり違っているが、「二人展」の面白さは、そこに思いがけない共時性が生まれてくることだろう。その点では、今回の展示はうまくいっていたのではないかと思う。なお、本展は4月30日~5月12日に、KYOTOGRAPHIEのサテライト展示、KG+の一環として、京都・四条のギャラリー・マロニエ スペース5に巡回する。

2019/03/11(月)(飯沢耕太郎)