artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
織作峰子「恒久と遷移の美を求めて」
会期:2018/07/13~2018/07/22
和光ホール[東京都]
デジタル化の進行とともに、新たな「ピクトリアリズム」が可能になってきている。「ピクトリアリズム」というのは、19世紀末から20世紀初頭にかけて写真家たちを魅了した絵画的な写真表現のスタイルだが、デジタルプリントの合成や加工が簡単にできるようになったことで、画面を自らの美意識にあわせてほぼ完璧に整えていくことが可能になった。だが、その手の画像変換は、ともすれば安手で陳腐なものになりがちだ。織作峰子の今回の個展では、技術的にも内容的にも、デジタル時代の「ピクトリアリズム」の方向性を指し示す高度な表現として成立していた。
技術的には、金、銀、プラチナなどの箔の上に、レーザープリンタを使用して直接画像を載せていく手際が見事である。インクを箔と馴染ませるため、まず画像と同じ大きさの白地を引いて、その上にプリントするという手法を使っているという。内容的にいえば、日本画を思わせる花、樹木、花火などの主題が、無理なく画面に溶け込んでいる。4曲の屏風仕立ての「落合の醍醐桜」では、ブレを活かした画像をシンメトリカルに展開することで、写真特有の偶然性を取り込んでいくという工夫も見られた。花火を撮影した画像を、アクリル板にずらしながら重ね合わせて、「写真彫刻」として見せるやり方も面白い。小さくまとまりがちな「ピクトリアリズム」を、現代の映像表現としてよりダイナミックに開いていくことで、「恒久と遷移の美」をさらに先まで追い求めていってほしい。被写体の幅をもう少し広げることも(例えば人体など)考えていいのではないだろうか。
2018/07/17(火)(飯沢耕太郎)
三田村陽「hiroshima elements」
会期:2018/07/14~2018/08/11
可視的な「ヒロシマ」の表象に安易に依拠するのではなく、「広島」という都市の現在を捉えることを通して、写真を撮る/見る営みについて考え続けること。この姿勢が、三田村陽の写真を一貫して支え続けている。約10年間、広島に通いながら撮影した写真をまとめた『hiroshima element』(2015)の刊行後、新たに撮影された写真群が「hiroshima elements」とタイトルを複数形に改めて発表された。
平和記念公園周辺や市街地、行き交う住民や観光客を、節度ある距離感を保ち、カラーのスナップとして撮影する姿勢は変わらない。ただ、本展を通覧して気づくのは、これまでよりも、「ヒロシマ」性を意識させる事物が画面に占める割合の増加である。例えば、「原水爆禁止広島集会」「原爆資料展」を告知する看板やポスター、古びた木造家屋の壁に貼られた「8月6日の祝日化」を訴える貼り紙、繁華街や駅前など公共空間に設置された被爆直後の市街地の写真パネル、被爆建築物、そしてメモリアルの施設。いずれも街中に断片的に散らばる文字情報や視覚情報、物理的痕跡だが、それらに目を向ける人はなく、あるいは無人の光景であり、「眼差しの対象ではない」ことが示される。皮肉にも、「ヒロシマ」を主張するメッセージや装置それ自体が「忘却や無関心」を鏡のように反映してしまっているのだ。
「眼差し」もまた、キーワードのひとつである。修学旅行と思しき学生の集団は、みな一様に何かに眼差しを向けているが、視線の先はフレームアウトして断ち切られ、彼らが「何を見ているのか」は分からない。あるいは、白杖を持った盲学校の生徒たちは、「見ることそのものの困難」を仮託した存在として写される。既発表作においても、写メする人々のスナップは散在していたが、ガラケーからスマホの自撮りへの移行は時代の変化を感じさせるとともに、広島での撮影行為が「観光客の消費する視線」でしかないことを露呈させる。「自分がこの地にいること」の証明と承認が、観光客としての模範的振る舞いなのであり、それは広島の地においても変わりはない。
三田村が観察するように、平和記念公園や周囲の川沿いは、観光客だけの占有物ではなく、広島市民にとって水遊びやお花見など日常的なイベントの場所でもある。季節は移ろい、昭和の風情を湛えた街並みは再開発によって姿を消していく。しかし、駅の伝言板に残された手書きのメッセージを写したショットが、「被爆直後に人々が家族や知人の安否を書き込んだ黒板」を想起させる時、時制が混濁した感覚に陥る。都市の表層は整備されて上書きされ、忘却されたようで、記憶のトリガーはあらゆる細部に潜んでいる。
遠景の原爆ドームを、「ビルのガラス壁面に映った左右対称の鏡像」と対で捉えたショットは、極めて象徴的な一枚だ。物理的存在としてのモノと、実体のない虚像のはざまに身を置きながら、二重写しになった、あるいは分裂を抱えた広島を眼差さざるをえないという矛盾や葛藤、もどかしさ。三田村の写真は、記憶と忘却、保存と痕跡の抹消、公的行事と日常生活空間、物理的実体と映像的体験、といったさまざまな矛盾や断層を引き受けながら、何が可視的で何が「見えていない」のかという問いそのものを都市的なスケールで見つめ続ける営みである。メモリアル施設のリニューアルや被爆した石橋の背後にそびえ立つ高層ビル群が示すように、「広島」は「ヒロシマ」として静止した時間だけではなく、刻々と新陳代謝を繰り返し、流れる複数の時間が日々積層されていく。安全に隔離・管理された資料館内部やアイコン=点としての原爆ドームだけを見る、すなわち「ヒロシマ」を確認する眼差しを批評的に検証しつつ、「過去に起きた大きな災厄」がどのように記憶され、歴史的出来事として登録されているのか(何を「記憶」すべきかがどう選別されているのか)を都市的なスケールで観察し、記録すること。断片的な個々の要素を積み上げ、その多面的な集合体を通して本質へ近づこうとする「hiroshima elements」の粘り強い結実がここにある。
関連レビュー
三田村陽「hiroshima element」|高嶋慈:artscapeレビュー
とどまりある 写真の痕跡性をめぐる対話|高嶋慈:artscapeレビュー
2018/07/17(火)(高嶋慈)
石原友明「三十四光年」
会期:2018/07/14~2018/08/12
MEM[東京都]
石原友明は京都市立芸術大学卒業後の1980年代に、裸体のセルフポートレート写真を、紡錘形のキャンバスに感光乳剤で焼き付け、ペインティングを加えた立体作品を発表し始める。今回のMEMの展示では、そのなかの一作である「約束Ⅴ」(1985)、が背景のブルーの布も含めて再現された。ほかに、それらのセルフポートレート作品の元になったネガからあらためてプリントした印画、60点も展示していた。
石原のセルフポートレートは、「ものを身体化すること、身体をイメージ化すること、イメージをもの化すること、を繰り返すひとつのプロセス」として制作されている。初期の細身の体にカメラを向けた作品は、ナルシスティックにも見えなくはない。だが、そこに自己探求を突き詰めていく、クリティカルな眼差しが貫かれていることを見落としてはならないだろう。1980年代のネガを34年後に再プリントするという今回の試みは、老年にさしかかりつつある現在の彼の身体のありようと、かつてのそれとを対比しようという意図も含んでいるのではないかと思う。
もうひとつ、石原が今回「長年放置していた古いネガの整理」に取り組み始めたのは、「日に日に白黒写真の材料が手に入りにくくなって」いることに気づいたためだという。確かに石原に限らず、白黒の銀塩写真を使って仕事をしてきた写真家たちにとって、写真機材の枯渇は大きな問題になりつつある。デジタル化でカバーできない領域が出てくるのは当然のことだが、手をこまねいているわけにもいかない。なんとか安定供給のルートを確保することはできないのだろうか。
2018/07/15(日)(飯沢耕太郎)
文化資源学会シンポジウム「 スマホで覗く美術館—鑑賞体験のゆくえ— 」
会期:2018/07/14
東京大学国際学術総合研究棟[東京都]
初めて海外を訪れたとき驚いたことのひとつは、美術館で写真撮影がOKなこと。じゃなんで日本ではダメなのか。著作権がどうのとかほかの客に迷惑だとかいろいろ理屈はつけるものの、ついぞ明確な答えを聞くことはなかった。ところが最近になって雪崩を打つように多くの美術館・展覧会が写真撮影を解禁し始めた。あれ、著作権はどうなったの? ほかの客に迷惑かけてもいいの? このシンポジウムは撮影解禁を機に、美術館における鑑賞体験は時代によってどう変わってきたか、いまどう変わりつつあるか、これからどう変わっていくかを考えるもの。
東京大学の木下直之氏による「スマホを持って美術館へ」と題する問題提起に続き、お茶の水女子大学の鈴木禎宏氏は、静かに作品と対話するという美術鑑賞の作法が白樺派の時代に確立したことを説き、横浜美術館の片多祐子氏は美術館での撮影許可の流れと、同館の「ヌード展」での撮影許可をめぐるエピソードを語り、キュレーターの鷲田めるろ氏はなにかをしながら美術を鑑賞する「ながら鑑賞」を勧めつつ、スマホが美術館を開く可能性について論じた。最近の写真撮影の解禁は、多少のリスクを負いつつも、インスタグラムなどによる情報拡散が展覧会の広報に役立つとの判断を優先したからだ。パネルディスカッションでは、近い将来スマホがあれば写真だけでなく、チケットや音声ガイドも買ったり借りたりしなくても済むことになるだろうとの見方も出た。そのうち美術鑑賞は作品を見なくても、スマホの画像だけで済ませられるかもしれない。済まほられないか。
2018/07/14(村田真)
太陽の塔リニューアル記念 街の中の岡本太郎 パブリックアートの世界
会期:2018/07/14 ~2018/09/24
川崎市岡本太郎美術館[神奈川県]
この春、東大の食堂を飾っていた宇佐見圭司の壁画がいつのまにか処分されていたことがわかり、問題になったが、それで思い出したのが旧都庁舎にあった岡本太郎によるレリーフの連作だ。丹下健三設計の旧都庁舎の壁にはめ込まれていたこれらの陶板レリーフは、91年の都庁の新宿移転に伴い解体されたからだ。このとき残そうと思えば残せたはずだが、いくら第三者が努力しても、工事の責任者にその気がなければ残すのは難しい。美術評論家の瀬木慎一氏が保存する会を立ち上げたものの、経費は何億円かかるとか1カ月以内に撤去しろとか難題を吹っかけられ、あきらめざるをえなかったという。
太郎の手がけたパブリック・アートは140点以上といわれるが、はたしてそのうちどのくらい残り、どのくらい解体してしまっただろう。そんな興味もあって見に行った。同展で紹介されているパブリック・アートは、テンポラリーなショーや記念メダルなどを除いて69件(墓碑、壁画、緞帳、建築も含む)。そのうち現存するのは41件で、移転したり再生したもの12件、解体されたもの16件となっている。とくに50年代のものは大半が現存せず、70年代以降のものは大半が残っている。これはパブリック・アートが土地や建物に付随するため、64年の東京オリンピック以前のものは再開発ブームで取り壊されたに違いない。
解体された代表例が旧都庁舎の壁画だとすれば、残っている代表例は、1970年の万博のときに建てられた《太陽の塔》だろう。こんな実用性もないヘンチクリンな塔は真っ先に壊されるだろうと思ったら、ほかのパビリオンがすべて解体されるなか最後まで残ってしまった。移転・再生した代表例が《明日の神話》だ。長さ30メートルにおよぶ巨大な壁画は、メキシコのホテルのために現地で描かれたもので、その後ホテルが倒産して壁画も行方不明になったが、太郎の死後、養女の敏子の尽力により発見され、制作から約40年を経て渋谷駅の通路に安住の地を見つけた次第。ちなみに太郎自身はつくってしまえば後はどうなろうとあまり気にしなかったようだ。
ところで、パブリック・アートという言葉が日本に定着するのは90年代のこと。それまでは野外彫刻とか環境造形とか呼ばれていたが、太郎の作品はそのどれとも異なっていた。というのも、パブリック・アートも野外彫刻も環境造形も、耐久性があって危険性がなく、その場にマッチした造形が好まれたため、どれもこれも丸くてトゲがなく、最大公約数的な形態と色彩の作品が多かった。それに対して太郎だけは、あえて嫌われるようなトゲトゲの造形と極彩色をウリにしていたからだ。正直いって太郎のパブリック・アートが身近にあってもあまりうれしくないけど、しかし毒にも薬にもならないどうでもいいような作品より、はるかに存在意義はあるだろうと思う。
2018/07/13(村田真)