artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

荒木経惟「恋夢 愛無」

会期:2018/05/25~2018/06/23

タカ・イシイギャラリー東京[東京都]

「モデル問題」で、ネガティブな状況に直面した荒木経惟だが、本展を見る限り、写真家としての凄みはさらに増しているように思える。6×7判のカメラで撮影されたプリントが98点並ぶ会場には、この写真家が本気を出したときに特有の、張り詰めた緊張感が漂っていた。

荒木は基本的に「コト」に反応してシャッターを切る写真家だが、時折、あえて被写体を「モノ」として突き放し、一切の修飾語を剥ぎ取った裸形の存在を開示する写真を出してくることがある。今回の「恋夢 愛無」展には、殊のほか、そんな写真が多く選ばれているように感じた。タイトルを勝手につけてしまえば、「右眼の女」、「帰宅途上の小学生」、「洗面台の生首」、「部屋の隅の小人」、「空を指差す指」といった写真群だ。時に微妙にピントがズレたり、ブレたりしている写真もあるが、奇妙な霊気が漂っていて心が揺さぶられる。全点、モノクロームにプリントしたのもよかったのではないだろうか。例によって「写真は、モノクローム。恋は、モノクロー夢。愛は、モノクロー無」と洒落ているが、被写体の骨格をより強く、くっきりと浮かび上がらせることができるモノクロームのほうが、カラーよりも「写真」に内在する輝きと表現力が純粋に宿っているように見える。

本展は、荒木の78歳の誕生日にオープンした。たしかに「後期高齢写」ではあるが、まだエネルギーは枯渇していない。新作がいつも待ち遠しい写真家はそれほど多くはないが、荒木は僕にとっていつでもそのひとりだ。

「恋夢 愛無」(2018)ゼラチン・シルバー・プリント Image size: 42×53 cm / Paper size: 45.7×56 cm
© Nobuyoshi Araki

2018/05/31(木)(飯沢耕太郎)

千葉桜洋「指先の羅針盤」

会期:2018/05/23~2018/05/29

銀座ニコンサロン[東京都]

千葉桜洋は1966年、アメリカ・ニューヨーク州生まれ。11カ月の時に罹った流行性耳下腺炎のために聴覚障害者になった。高校の時、登山とともに写真を撮影し始め、2014年から渡部さとるの「ワークショップ2B」を受講して、本格的に写真作品を制作するようになる。今回の銀座ニコンサロンでの個展のテーマは、17歳になる彼の息子とその周囲の光景である。

「家の周り、人混み、旅先、息子はいつも突然立ち止まる」。自閉症で、コミュニケーションに障害がある息子は、自分の世界の中で生きていて、家族はその行動に振り回されることが多い。だが、いつでも6×7判の写真機を持ち歩いて撮影することで、息子とのあいだに新たな関係が生まれつつあるようだ。今回の展示では、折に触れて撮影されたモノクロームの写真群が、淡々と並んでいた。タイトルの「指先の羅針盤」が示すように、息子はよく指先で何かを探るような動きをしている。「指先をカクカクと動かし、じっと横目で焦点を合わせ、そろりと歩き出す。脳内で絞りやアングル、ズームを自在に駆使しているかのようである」。千葉桜は、彼のそんな動作や視線の行方に神経を集中させてシャッターを切る。そこには穏やかで、細やかな感情の交流が表われていて、見る者の気持ちを解きほぐしていく。息子を中心として、「巡礼のように」歩き回っている一家の姿から、新たな家族写真の形が見えてくるようにも感じた。

展覧会にあわせて、写真家の森下大輔が主宰するasterisk booksから、丁寧に編集された同名の写真集が刊行された。なお、本展は6月21日~27日に大阪ニコンサロンに巡回する。

2018/05/26(土)(飯沢耕太郎)

Seung Woo Back「Volatile Judgement」

会期:2018/05/24~2018/07/15

アンダースロー[京都府]

ともに京都を拠点とする劇団「地点」と出版社「赤々舎」が共同企画する「About the photographs, About us, Asia」は、東アジア出身の写真家を紹介する連続個展のシリーズである。李岳凌(リー・ユエリン、台湾)、石川竜一(日本)に続き、第3弾としてSeung Woo Back(ベク・スンウ、韓国)の個展が開催された。普段は地点の稽古場兼劇場であるアンダースローが、約4ヶ月間、写真をめぐる思索的空間へと変貌した。

本展では、「Blow Up」と「Utopia」の2つのシリーズの再構成に新作が加えられている。いずれも「北朝鮮」を主題としているが、その根底にあるのは、イメージの生産と受容、視線と欲望、表象の政治学をめぐる写真的考察だ。「Blow Up」(「引き伸ばし」の意)のシリーズは、2001年に平壌を訪れたベク・スンウが制約のなかで撮影し、検閲によってネガフィルムの一部が切り取られた写真を数年後に見返した際、撮影時には気づかなかった要素を事後的に見出し、拡大して作品化したものである。それは、検閲を潜り抜け、「問題なし」と判断された写真のなかに、検閲官も撮影した作家自身も見落としていた細部を見出し、「不穏な裂け目」として押し広げ、安住しない「写真の意味」ひいては写真を見る眼差しそのものを繰り返し再審に付す作業である(例えば、対外向けの演奏を行なう子供たちが弾くキーボードには「YAMAHA」の商標が記され、「資本主義国の製品」であることを暗に示している)。また、頻出するのが、1)政治的指導者のポートレイトや彫像、2)そうした体制や社会主義理念を体現する表象を眼差す人々の後ろ姿、3)フレーム外の何かへ視線を向けている人々、4)窓ガラス越しに写された人々である。とりわけ3)では、彼らが見つめていたはずの、視線の先にあるものがフレーム外へと放擲されることで、視線の宛先を欠いたまま、「何かを見る行為」だけが抽出して提示される。4)では、窓の矩形が眼差しのフレームを示唆するとともに、被写体との間を隔てる「透明なガラス」が社会的、心理的な距離感や分断を強調する。しばしば登場する曇りガラスが「監視」を暗示する一方、そこでは写真を撮る/見る私たち自身の窃視的な欲望こそが常に送り返されて突きつけられる。

一方、「Utopia」のシリーズは、雑誌などオフィシャルな印刷物に掲載された社会主義建築の写真を引用し、加工を施している。威圧的で官僚的な建築物は、その一部がコピーされて繋ぎ合わされ、形態的に反復されることで、現実にはあり得ない畸形化したイメージへと変貌する。国家権力が見せたい「ユートピア」像を肥大化させることで、その非現実性が浮かび上がる。

また、展示形態も興味深い。展示空間の中央には、サイズの異なる29個のボックスを組み合わせた構造体が置かれ、それぞれのボックスには壁に展示されていない写真が格納され、観客は自由に引き出して見ることができる。これらのボックスは自在に組み合わせることが可能であり、単に作品輸送のためという機能性を超えて、「移動」や「再構築」といった概念を提示する。イメージを固定化し、再生産に寄与する写真というメディアそれ自体を用いて、視線の解体と問い直しを行なうベク・スンウの作品のあり方を体現する装置だと言えるだろう。


[Photo: Kideok Park]

特設サイト:https://www.chiten-akaaka.com

2018/05/26(土)(高嶋慈)

郷津雅夫展

会期:2018/04/28~2018/06/03

安曇野市豊科近代美術館[長野県]

郷津雅夫は1971年に渡米してニューヨークに住み、ダウンタウンの住人たちにカメラを向けた写真作品を制作し始めた。その後、空き家になってイースト・ヴィレッジの自宅の近くに放置された建物の窓枠を、その周囲の煉瓦や装飾物とともに切り出し、再構築(reconstruct)する彫刻/インスタレーション作品を制作するようになる。故郷の長野県白馬村に近い、安曇野市豊科近代美術館で開催された本展は、その彼の50年近いアーティストとしての軌跡を辿り直すものである。

これまでの郷津の展覧会は、写真かインスタレーションかのどちらかに限定されていることが多かった。定点観測的な手法を用いた「Window」(1971~1989)、「Harry’s Bar」(1976~79)、「264 BOWERY STREET」(1978~79)などの初期の写真作品は、それぞれユニークな質感と厚みを備えた完成度の高い仕事である。だが、生々しい煉瓦の感触を活かした「窓」のインスタレーションと対比して見ることで、郷津がなぜこのようなシリーズを構想したのかが、強いリアリティをともなって伝わってきた。

もうひとつ、今回あらためて感じたのは、「Twin Towers」シリーズ(1971~81)の凄みである。煉瓦を積み直した窓枠の作品を、ニューヨークのツイン・タワーが見える場所に据え、太陽、炎、波などの自然の要素を取り入れて撮影した、スケールの大きな写真作品である。郷津はツイン・タワーの2つの高層ビルを、「対立するもの」の象徴として捉えていたのだという。言うまでもなく「9・11」の同時発生テロで、ツイン・タワーは消失してしまうわけで、そう考えると、郷津はなんらかの予感を覚えてこの建物を被写体に選んだのではないだろうか。この作品に写っているツイン・タワーは、あたかも墓石のようにも見えてくる。

2018/05/24(日)(飯沢耕太郎)

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井上佐由紀「私は初めてみた光を覚えていない」

会期:2018/05/19~2018/06/23

nap gallery[東京都]

志が高く、長期にわたって撮影されたいい作品である。井上佐由紀は、病床にあった祖父に、2年間にわたってカメラを向け続けた。「終わりに向かう祖父の目」が次第に光を失い、宙をさまようのを見ているうちに、「ふと初めて光を見る赤子の目を見たい」と思いつく。井上は産院と交渉して、生まれてから5分以内の赤ん坊を、分娩室で撮影させてもらうことにした。この6年間で20人以上の新生児を撮影したのだという。

今回のnap galleryでの展示では、大伸ばしの連続写真のプリントのほか、フィルム1本分をそのまま焼き付けたコンタクト・プリントも並んでいた。それらを見ていると、まさに赤ん坊が目を開け、初めて光を感じとったその瞬間が捉えられているのがわかる。むろん、その瞬間を「覚えて」いる人は誰もいないだろう。それでも、それらの写真はどこか懐かしい気がする。それは「初めて光を見る」という体験が、人種や性別を超えた普遍的な体験だからだろう。まだ顔つきもしっかりと定まっていない新生児たちが、互いに似通って見えてくるのも興味深かった。

このシリーズはこれで終わりというわけではなく、さらに続いていきそうだ。ただ、数を増やしていくことが問題ではないはずなので。そろそろ写真集にまとめることを考えてもよい。会場には大判のプリントを綴じ合せた、ポートフォリオが置いてあったが、もっと小ぶりな造本でもいいのではないかと思う。ぜひ実現してほしい。

2018/05/23(水)(飯沢耕太郎)