artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
渡邊耕一「毒消草の夢 デトックスプランツ・ヒストリー」
会期:2022/12/20~2023/02/05
Kanzan Gallery[東京都]
渡邊耕一は前作『Moving Plants』(青幻舎、2015)で、日本原産の植物、イタドリ(虎杖)が、ヨーロッパ各地で繁茂している状況を追ったシリーズを発表した。やはり植物をテーマとした今回の「毒消草の夢 デトックスプランツ・ヒストリー」では、江戸末期の本草学者、馬場大助が、自著に「コンタラエルハ(昆答刺越兒發)」という不思議な名前で記している植物を求めて世界各地に足を運んだ。その足跡は香港、インドネシア、オランダ、日本(和歌山)、メキシコにまで及び、その謎の植物の姿が、少しずつ明らかになっていった。
風景写真、図鑑等の複写、映像などを使って、その旅の過程を示した展示もしっかりと組み上げられている。同時期に青幻舎から刊行された同名の写真集とあわせて見ると、体内の毒を消すデトックスの効果があるというこの薬草の分布の状況が、立体的に浮かび上がってくる。渡邊の写真家としての視点の確かさと、知的な探求力とが、とてもうまく結びついた写真シリーズといえるだろう。
イタドリや「コンタラエルハ」は、植物学者ではない限り、単なる雑草として見過ごされてしまいがちな植物である。だが、それらを別な角度から眺めると、歴史学、人類学、経済学などとも関連づけられるユニークな存在のあり方が見えてくる。渡邊が次にどんなテーマを見出すのかが興味深い。彼のアプローチは、植物以外の対象でも充分に通用するのではないかと思う。
公式サイト:http://www.kanzan-g.jp/watanabe_koichi.html
関連レビュー
渡邊耕一「Moving Plants」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2018年04月15日号)
渡邊耕一「Moving Plants」|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年01月15日号)
2023/01/31(火)(飯沢耕太郎)
伊丹豪「DonQuixote」
会期:2022/12/02~2023/01/29
CAVE-AYUMIGALLERY[東京都]
伊丹豪の新作11点がdot architectsとのコラボレーションによる会場構成で並んだ。会場の柱や梁に沿って2色の角材が走る。ぱっと見て写真作品自体への没入を阻害する鮮やかな直線は、作品が配置された建築の存在を強調する。それは本出展作が、「写真におけるアーキテクチャーへ応答するぞ」という布石のようでもあるし、写真に強烈に存在する直線性へ鑑賞者の意識を導くためのガイドのようでもある。
本展作品は、COVID-19下での東京オリンピックで焦点化される「東京」を横目に、徳島出身の伊丹が当事者性をもてると判断した範囲で撮影された関東圏の事物である
。撮影機材は、個人購入の範囲ではそのときもっともハイエンドとされるカメラだ。ピントをずらし、全てにピントを合わせる深度合成がなされた 、どこもかしこもピントが合ってくっきりとしたイメージは、物理的な現実の世界のなかで眼が滑ったり、何かが気になって凝視したりするといったような経験を生み出している。そういう意味でも伊丹の本作は、マチエールの強い絵画がイメージというより絵具(物)として現前しているときのような、イリュージョンへの亀裂を生じさせる視覚経験と類似性がある。そしてこの全面的に被写体を前景化させる作為は、伊丹が自身でも語るように、モチーフの脱中心化を志向したものだ。このくっきりとしたイメージは相対的にいずれのモチーフも中心性をもたないし、時には訴求力をもつモチーフがなくなるまで、周囲にモチーフを足し続けているのである。例えばそれは、伊丹の自宅のダイニングテーブルの下に垂れる真空パックされた液体の輝き。いま述べるには雑駁で申し訳ないのだが、構成的写真であろうと、記録的写真であろうと、写真が写真であるために、その写真にまつわる文化的使用をモチーフとしたり、写真における指標性を追求するといったさまざまな作品行為があるわけだが、本展を見て、写真作品における「モチーフを足す」ということに、いかにいまの世界が抑圧的状況となっているか、ありありと私は気付かされた。
また展覧会の構成上必見なのは、伊丹の提案でdot architectsが制作した写真の什器となっている白い板だろう。白い板は写真の大きさからひと回りだけ大きい矩形の窪みがつくられていて、その窪みに写真パネルをはめ込むと、板の表面と写真の表面のツラがぴったりと合う。額のように振る舞う白い板の窪みは、額がイメージに埃や傷を付けないようにと作品を奥まらせる機能を一切もたない。1990年代に起こったビッグピクチャー(写真作品の巨大化)とそれに伴う「ディアセック」(写真プリントの表面にアクリル接着を行なうマウント技術)による巨大写真作品の強度の増加が、ひるがえって「アクリルの表面に傷がつくと回復できない」という今日の保存修復の問題へとつながっていった状況を思い起こさせる。本展での、この「埃がついてもいい」という挙動は、プリントの力も勿論だが、写真イメージそのものの侵されなさ、鮮烈さの実在の表明に思えた。
本展は無料で鑑賞可能でした。
公式サイト:https://caveayumigallery.tokyo/GoItami_DonQuixote
2023/01/27(金)(きりとりめでる)
古屋誠一写真展 第二章 母 1981.11-1985.10
会期:2022/11/11~2023/02/01
写大ギャラリー[東京都]
本展は、昨年6月~8月に写大ギャラリーで開催された「古屋誠一写真展 第一章 妻 1978.2-1981.11」の続編にあたる。東京工芸大学がコレクションした古屋誠一のプリント、364点から、今回は古屋の妻のクリスティーネと、1981年に生まれた息子の光明クラウスを撮影した写真を中心に展示していた。
古屋一家はこの時期に、クリスティーネの演劇の勉強や古屋の仕事の関係もあって、オーストリア・グラーツ、ウィーン、東ドイツ・ドレスデン、ベルリンと移転を繰り返した。展示されている写真を辿っていくと、1981年には第一子誕生の輝きにあふれていたクリスティーネの表情が、次第に翳りや険しさを帯びていくことに気がつく。泣き顔や坊主頭になった写真もある。クリスティーネの精神状態はこの時期に次第に悪化し、ついに1985年10月、東ベルリンのアパートからの投身に至った。だが、その最後の時期になると、逆に安らぎにも似た放心の表情があらわれてくる。
あらためて、これらの写真群を見ると、写真家がある人物をモデルとして撮影したポートレート作品として稀有なものなのではないかという思いが強まってくる。古屋がクリスティーネに投げかけ、逆に彼女が古屋を見返す眼差しの強さが尋常ではないのだ。写真を撮り、撮られること(ときにはクリスティーネもまた古屋にカメラを向けることがあった)が、彼らの生の焦点となっていたことが、痛々しいほどの切実さで伝わってきた。おそらく、世界の写真史における名作として語り継がれていくに違いない作品が、東京工芸大学のコレクションとなったのはとても意義深いことだ。これで終わりではなく、その全体像を一望できる展示も、ぜひ企画していただきたい。
公式サイト:http://www.shadai.t-kougei.ac.jp/overview.html
関連レビュー
古屋誠一写真展 第一章 妻 1978.2-1981.11|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2022年08月01日号)
2023/01/27(金)(飯沢耕太郎)
笠木絵津子「六十年前の冬休み」
会期:2023/01/23~2023/02/04
ギャラリーQ[東京都]
2022年8月18日で70歳になる笠木絵津子が、60年前の小学校4年生だったときの冬休みを振り返るようにして組まれたインスタレーションで本展はできている。当時、姫路にあった笠木の実家での弟の誕生日を祝う写真のパネルが目を引く。
バタークリームケーキがボックスの上で高くろうそくを灯し輝く。満面の笑みの弟、着物をカッチリと身に着けた父の顔はほころび、もっとも光に照らされた母は柔らかに目を細め、作家はその3人から対角線上の位置に座り、影で表情が窺えないが、どこかその視線は固い。机の上には使用されていた皿やカトラリーや紙焼きの写真がかなり雑然と並び、裏に回り込むとパネルには左右反転した写真のイメージがプリントされていた。いくつかのパネル写真が同じように出力されて、これは「写真を見せる」ということとはまた別に、写真に閉じ込められた一瞬に迷い込むようなものとしてインスタレーションがあるという符号なのかもしれない。
本展は当時を再現するという博物館的な回顧からは明白に距離をとっている。当時どのように使用されていたかということがわかる配置でもあるのだが、それからどれほど時間が経っていて、それらがいま(の作者ないし所有者)にとって、どのように薄ぼけた存在なのかといったような、古道具でしかない、過去でしかないというような突き放しすら感じる。
会場の奥にある姫路総社への初詣で撮影された幼い笠木のポートレイト。そこで身にまとっている、花の刺繍が鮮やかな白いカーディガンは、笠木のお気に入り、あるいは晴れ着だったのだろう。笠木の母が既製品に入れたかもしれない刺繍はいまも目を見張るものがあるが、会場ではぐにゃりと脱ぎ捨てられたままのように、箱にしなだれている。ほこりにまみれているわけでもないが、磨き上げられているわけでもない。カーディガンの隣にある鏡台には使いかけの化粧品が並びつつ、引き出しの装飾板は外れている。刺繍に毛糸にミシン。手作りのクッションカバー、当時の日記、マンガ雑誌、文房具。反物の裁断図。小道具の包み紙だった新聞紙が壁に貼り付けられている。新聞広告には『週刊女性』「婚期を逸する女の条件」とあった。
1962年、日本のテレビ受信契約者数が1000万を突破し普及率は40%を超え、『週刊TVガイド』が創刊された年だ。池田勇人内閣が「人づくり政策」を通じて国家主義と新自由主義に邁進するため、1フレーズで政策を伝えるテレビを中心としたイメージ戦略で国民の支持率獲得を狙っていた。そこから60年が経ち、これらの媒体名を任意のメディアやプラットフォームに置き換えた枠組みで考えれば、現在と大きな違いなんかないような気がしてくる。とはいえ2017年の安倍晋三内閣での「人づくり革命」は「一億総活躍社会」はもとより、女性の就労が前提であるという点に大きな違いがある。
会場に貼られた作家の言葉に「父母が没し家を解体した後も家財道具を維持してきたのは、今日この日、大都会東京の最先端の街のホワイトキューブの中に、60年前の姫路実家の空間を構築するためでだった」と記載されていた。姫路の実家にあった物々が本展のために維持されてきたというとき、その保持対象の中心は笠木の母にまつわるものに偏っているといってもいいだろう。そこにあるのは笠木から母への半透明な問いのように思う。母はどのような美学をもってつくり、選び、生きていたのかということを物から辿り直す。写真やものから答えが透けて見えるようでいて、その先に母からの返答があるわけではない。
映像中で、過去の写真を複写したスマートフォンを片手に笠木が撮影場所を尋ね歩いている。写真を見つめるようで、現在の様子を眺め、目の前にある食器やメモを見つめているようで、それが実際に使われていた頃を想像してしまう。会場にあった写真や映像や物々、すべてがまるで半透明であるかのようだった。
展示は無料で鑑賞可能で、動画でインスタレーションの様子が公開されています。
公式サイト:http://www.galleryq.info/exhibition2023/exhibition2023-003.html
2023/01/26(木)(きりとりめでる)
雑誌『写真』vol.3「スペル/SPELL」刊行記念展 川田喜久治「ロス・カプリチョス 遠近」
会期:2023/01/24~2023/02/19
コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]
川田喜久治の「ロス・カプリチョス 遠近」展は2022年6月~8月にPGIで開催されている。今回のコミュニケーションギャラリーふげん社での展示は、年2回刊行の『写真』誌の第3号の巻頭に、同シリーズが30ページ以上にわたって掲載されたことを受けて企画されたもので、前回の個展の再編集版といえる。だが、単に会場の違いというだけでなく、写真の見え方そのものが大きく変わったという印象を受けた。
それは、『写真』3号の特集テーマが「スペル」(綴り字という意味のほかに呪文、魔力という意味もある)であり、それにあわせて川田の作品世界のバックグラウンドとしての「言葉」にあらためて注目したからではないだろうか。実際に展示の始まりの部分には、川田自身が選んで並べた、まさに「呪文」のような言葉の群れが掲げてあった。「カフカと赤い馬」「Kafka and Red Horse」「赤い滝」「黄金時代」「湯浴みの足」「スフィンクスの乳房」といった文字列と写真とが、一対一の整合性を保って配置されているわけではない。だが、むしろ反発しつつ触発し合うような関係を保ちつつ、写真と言葉とが見る者に一斉に襲いかかってくるように感じる。そのことが、個々の写真が発する緊張感をより高めているようにも思えた。
1933年1月1日生まれの川田は、今年90歳を迎えた。だが、矢継ぎ早の個展の開催、写真集『Vortex』(赤々舎、2022)の刊行など、その疾走はさらに加速しつつある。
公式サイト:https://fugensha.jp/events/230124kawada/
関連レビュー
川田喜久治「ロス・カプリチョス 遠近」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2022年08月01日号)
2023/01/24(火)(飯沢耕太郎)