artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

寺崎英子『細倉を記録する寺崎英子の遺したフィルム』

発行所:小岩勉(発売=荒蝦夷)

発行日: 2023/03/31

寺崎英子は1941年、旧満州(中国東北部)で生まれ、戦後に宮城県鶯沢町細倉(現・栗原市)に移った。最盛期には3,000人以上の従業員を擁していた鶯沢町の三菱鉱業細倉鉱山は、鉛、亜鉛、硫化鉄鉱などを産出する全国有数の鉱山だったが、安価な鉱産物の輸入が自由化されたこともあって業績が悪化し、1987年に閉山に至る。

寺崎は、幼い頃に脊髄カリエスを患い、家業の八百屋の経理などを手伝っていたが、細倉鉱山の閉山前後から、カメラを購入して細倉の街並み、人、自然、取り壊されて空き家になっていく建物などを克明に記録し始めた。その本数は、黒白、およびカラーのフィルム371本(10,985カット)に及ぶ。今回刊行された写真集には、写真家の小岩勉を中心とする寺崎英子写真集刊行委員会がスキャニングした画像データから、432点が収録されている。

それらを見ると、寺崎がまさに閉山によって大きく変わり、失われていこうとしていた細倉の姿を、写真として残すことに、強い思いを抱いて取り組んでいたことが伝わってくる。細やかな観察力を発揮し、被写体の隅々にまで気を配って、一カット、一カット丁寧にシャッターを切っているのだ。とはいえ、カメラワークはのびやかで、柔らかな笑顔を向けている人も多い。愛惜の気持ちはあっただろうが、写真を撮ること自体を充分に楽しみつつ、記録の作業を続けていたのではないだろうか。結果的に、遺された371本のフィルムには、細倉とその住人たちの1980~1990年代の姿が、そのまま、いきいきと写り込むことになった。

寺崎は亡くなる1年ほど前の2015年に、小岩に電話をかけ、「これで寺崎英子って名前の入った写真集をつくって」とすべてのネガを託したのだという。彼女自身、自分の仕事の価値をしっかりと自覚していたということがわかる。写真集を見ると、掲載された写真のクオリティの高さは、一アマチュア写真家による記録写真という範囲を遥かに超えている。このような写真が撮られていて、しかも写真集としてまとめられたこと自体が奇跡というべきだろう。既に2017年以降、せんだいメディアテークなどで写真展が開催されているが、ぜひほかの地域でも展示を実現してほしいものだ。

2023/04/04(火)(飯沢耕太郎)

ニコンサロン年度賞2022受賞作品展 第47回伊奈信男賞 宮田恵理子「disguise」

会期:2023/03/28~2023/04/10

ニコンサロン[東京都]

宮田恵理子は2022年11月にニコンサロンで写真展「disguise」を開催した。それが同年度のニコンサロンでの展覧会の最優秀作品に授与される伊奈信男賞を受賞し、同会場でアンコール展が開催されることになった。

あらためて作品を見ると、その高度な制作意識と会場構成が印象深く目に映る。宮田が主に取り上げたのは、チューリヒ芸術大学大学院に留学中に着目した、第二次大戦中に建造されたトーチカ、陣地壕、監視小屋などである。スイスといえば平和を志向する永世中立国というイメージが強いが、実は第二次世界大戦中に「Réduit(レデュイット)」と称される軍事政策を秘密裏におこなっており、現在に至るまで国防意識はかなり強い。宮田はアルプス山中にカムフラージュされるように設置されたそれらの軍事施設、防空壕を兼ねたトンネル、国家意識を称揚する展覧会のポストカードや切手などの写真を的確に配置することで、「神話と国家が近づいた時の物語とその背景」を提示しようとした。写真を通じて、「目に見えない立場を象徴しているような風景」を浮かび上がらせるというその意図は、とてもうまく実現していたと思う。

宮田はスイス留学前には東京藝術大学の先端芸術表現学科で学んでいたが、その時には写真作品を発表することはなかった。スイスで「disguise」を制作するにあたって、はじめて写真の撮影、プリントに本格的に取り組んだというが、そうは思えないほどに作品の完成度は高い。被写体との距離感、周囲の環境への配慮、大きさを自在に変えたプリントの配置など、展示には写真家としてのベーシックな才能が充分に発揮されていた。今後の活動も大いに期待できそうだ。

なお、本展に続いて「ニコンサロン年度賞2002受賞作品展」の一環として、若手作家の最優秀作品に授与される第24回三木淳賞を受賞した宛超凡の展覧会「河はすべて知っている―荒川」(4月11日~4月24日)が開催される。


公式サイト: https://www.nikon-image.com/activity/exhibition/thegallery/events/2023/20230328_ns.html

2023/03/28(火)(飯沢耕太郎)

Artist’s Network FUKUOKA 2023[第二部]ニュー・ニューウェーブ・フクオカ

会期:2023/03/10~2023/03/26

黄金町エリアマネジメントセンター(高架下スタジオsite-Aギャラリー、八番館)[神奈川県]

展覧会名を1980年代の音楽や美術で使用された「ニューウェーブ」からもじったとキュレーターの小川希があいさつ文で書いている本展は、1980年以降に生まれた福岡出身あるいは拠点としている若手作家に焦点を当てたものだ。1980年代が「新人類」といったような、若さと新しさを結び付けた言説に沸き立っていたことを念頭に置いてみると、本展は「ニュー」を連呼することによって逆説的に、いずれもいままでを振り返らせる態度をもつ、「一定の過去の幅をどう見つめなおすのか」という作品の在り方を浮かび上がらせる、見ごたえのあるものだった。その一部だけになってしまうが、紹介したい。

会場に入ってしばらくして目に飛び込んできたのは日常的に摂取したゲームや小説や詩を参照し3DCGをモデリングしたものとその空間をキャンバスに描く近藤拓丸の作品だ。例えば《まつりのあと》(2023)では、マスキングで多層化された油彩やアクリルによって、1990年代ビデオゲームのローポリゴンな3DCGが、細部がつぶれて張りぼてのように見えたり、それが配置された空間からどうにも浮いてみえる様がありありと描かれている。3DCGが世界を破竹の勢いでシミュレートする精度を写実的に向上させるとき、近藤の作品はそれらの拙さがもう元には戻れない不可逆な風景であったと知らされるのだ。

遠藤梨夏の映像作品《ほぐし水の三重点でピボット》(2023)は学校のグランド、ランドセル、へこんだバスケットボールと野球の球といった、(運動をまったくしないわたしにとっては一層)どこか懐かしい風景が並ぶのだが、それらのいずれにも500mlコーラがどぷどぷとかけられるものだ。途中、そのコーラのたまりにタブレット菓子の「メントス」が1粒、2粒と投入され、メントスのざらつきを核としてコーラの二酸化炭素の泡が溢れだす。ジュワ―っと泡を吹く「メントスコーラ」はYoutubeをはじめとしたネット上の映像コンテンツにとって盛り上がりを演出する「いたずら行為」として15年近く重宝されてきた。いたずらという、時に犯罪行為に近接しつつも、状況によっては甘噛み的なるものとして愛嬌の範疇に落ち着くこともあり、その判断が未分化なまま流行しつづける「メントスコーラ」の在り方。それは遠藤が「チームに男子しかいないから」と断られ野球を断念したというような、遠藤が「社会構築的な男女の差」を意識してから生きてきた時間のなかで経験してきた状況判断が、「なんとなく」で維持されてきた社会的なコード(メントスコーラ=笑い?/野球=男性のもの?)の持続性と重ねられているのかもしれない。

牧園憲二×手塚夏子の《PX (Problem Transformation)》(2023)が「なんとなく」を問う手つきはより直接的だ。本作は「世の中をリードする数々の国際機関」、たとえば「IMF(国際通貨基金)」や「WHO(世界保健機関)や「IAEA(国際原子力機関)」を紹介する文章から単語をピックアップしてつくったカードを無作為に並べて、架空の団体SSCCとして手塚が数多の質問に回答するというものである。問いは東日本大震災以降に突き付けられたものが多く「(SSCCは)放射能の問題についてどう考えますか?」という問いに対して出たカードは「防止法」「知見」「変革」「エネルギー」「連帯」「公共」だったのだが、そのキーワードから手塚が「公共の知見を連帯させることによって、エネルギー変革の防止法につとめます」といった、それらしいけど無意味な回答を瞬時にひねり出すのである(作品内で実際にどういった返答だったかは思い出せない)。スペキュラティブ・デザインのようにも見えるが、そこに何かががあるように勘違いしてしまいそうになる言葉が実際に連なり続けるという点が特徴的だろう。言葉をつむぐということが、その場しのぎにどうとでもできてしまうという方法論を目の当たりにして笑ってしまうのだが、立場を変えて、例えばその言葉を検証するということにかかるコストの莫大さに頭が痛くなる。


会場写真(筆者撮影)


最後に紹介したいのが、佐賀市立図書館で借りた複製画をしょいこで担いで海辺や白い壁のまえで展示する石原雅也の映像作品《ある画の可能性》(2023)である。会場には複製画(ピエール=オーギュスト・ルノワールや藤田嗣治やウィリアム・ターナーなど)も展示されているのだが、それらは(おそらく)印刷の上に透明メディウムで部分的に筆致があるかのようにつくられたタイプの明らかなコピーだ。しかしその絵画は複製されたがゆえに海風に吹かれようとも、太陽光にさらされようともかまわない。「自然光のなかの海辺でメディウムがきらめくターナーはずっと見ていたくなった」ということが起こる。

映像のなかで複製画とめぐる場所場所は、オリジナルに所縁のある場所やモチーフと類似した風景だという。近代以降の芸術における「新規性」を追い求めること、唯一無二性を体現せんとすることへの敬意の一方で、それだけではなくてよいのではないかと、それぞれの身体や立場でできること、やれることがあるということが軽やかながら力強く示されていた。

観覧は無料でした。


公式サイト:https://koganecho.net/event/20230310_0326_newwave

2023/03/26(日)(きりとりめでる)

死蔵データGP 2022-2023 決勝戦 ROUND2

会期:2023/03/25

YAU STUDIO[東京都]

2023年現在9名からなるアーティストコレクティブである「カタルシスの岸辺」は、ここ1年間をかけて「死蔵データグランプリ」という番組をYouTubeに24本公開してきた。そこではカタルシスの岸辺が公募した254点の「死蔵データ」の紹介と講評が行なわれている。

応募要綱には「公開していない、誰に見せる予定もない、自分しかその存在を知らないデータ一般を私たちは暫定的に『死蔵データ』と呼んでいます。拾いものではなく、自分自身が生成したものであることが条件です」と記載されており、誰でも自由に参加できる。振り返ってみると、映像、音声、写真、テキストのスクリーンショットなど、さまざまなデータが集まった。

それらは応募と同時に規約上、YouTubeなどインターネットで公開されること、カタルシスの岸辺が運営する「マテリアルショップ」で数百円単位で売買されることを許諾することになる。こうして、とりとめもなかったからか、羞恥心のためか、はたまた自分にとってあまりにも大切なものだったからかプラットフォームで共有されてこなかったデータが一躍耳目にさらされる対象となるのだ。

24回開催されたYoutube番組では毎回、約10点のデータがまじまじと鑑賞されるだけでなく、演劇・音楽・建築・哲学・美術など幅広い領域の人々73名が応募データを各々の基準で言葉にし、採点していく。毎回1位が選ばれて、その24個の1位がオンライン投票で10点に絞られるのだが、番組で「死蔵データ」に関する言語化が積み重ねられることで、「死蔵データ」というものの見方、概念がうっすら立ち上がり、ついにはそれらを元に「死蔵データが死蔵データであるかどうか」鑑定するための14項目に関するマークシートがカタルシスの岸辺によって制作された。

さらに、3月25日に有楽町で開催された「死蔵データGP 2022-2023 決勝戦 ROUND2」では、その鑑定14項目も当日参加した100名あまりの鑑賞者によって一斉に再鑑定され、どれが「死蔵データ」を考えるうえで外せない基準なのかも投票で決められた。その基準を元に当日の投票を通して「おっちゃん」とタイトルが付けられた画像データが本イベントのグランプリを飾ったのである。


死蔵データを視聴した後の参加者が、「死蔵データ鑑定シート」をに記入している様子[提供:カタルシスの岸辺]


本データは、ヤギに逆包丁で向かっていくかのようにみえる半裸の男性という、その圧倒的な瞬間がパンフォーカスで捉えられている状況からしてそもそも「純粋に死蔵されていたデータなのか」という議論を巻き起こした。しかしながら、「死蔵データ」として欠かせないと当日鑑定された項目にもっとも当てはまった結果、グランプリとなったのである。イベントのなかで収集・集計されたマークシートと死蔵性をめぐる項目の相関性は、鑑賞者にとってブラックボックスのまま結果が出るようになっており、超精度の言語化を伴った「こっくりさん」のような得点ランキングは、参加者に何かわかりやすいひとつの価値基準を与えることなしに、「データの死蔵性」という概念の道を多角的に拓く。


「死蔵データGP 2022-2023 決勝戦 ROUND2」でグランプリを飾った「おっちゃん」(匿名)


ところで、このイベントはカタルシスの岸辺によるパフォーマンスであり、彼らの運営する「マテリアルショップ」における取り扱い商品の「仕入れ」でもある。最終ラウンドだけでも、会場・オンラインあわせて100名程度の参加者が、カタルシスの岸辺が売買する商品の鑑定を行なうという共犯めいた関係を結び、「死蔵」という無価値なものをいかに称揚可能であるかを考えるということになる。


カタルシスの岸辺が「死蔵データ鑑定シート」を集計し、その間に来場していた予選ブロックの審査員たちがコメントを寄せている様子[提供:カタルシスの岸辺]


最優秀死蔵データが決定し受賞式を終えた後、会場にはおよそ160BPMのカタルシスの岸辺のテーマソングがアニメーションとともに流れ始める。アニメのオープニングのようにあらゆる困難を乗り越えてきた彼らの様子が描かれたハイテンポのMVがエンドロールとして使われている。見たこともないアニメ「カタルシスの岸辺」の25話最終回の終わりの終わりでオープニング曲が伏線を回収していくかのようだ。

舞台に次々と現われるメンバーたちは、観客がスクリーンだと思っていた資材を突如解体し、目隠しだと思っていた黒布を剥がし、歴戦の「死蔵データ」を映すモニターが忽然と顕わになる。こうして舞台は「マテリアルショップ カタルシスの岸辺」へと変貌を遂げた。音楽が終わる。近くにいた人が「感動して泣きそう」と言っていた。




漫画『けいおん!』や『らき☆すた』といった2000年代アニメを俗にカタルシスなき「日常系」と呼ぶとき、この「日常系」は「死蔵データ」と近しい価値観を共有している。哲学者の仲山ひふみがVブロックの審査で発し、「死蔵データ」の鑑定項目となった「普通の奇蹟」、ほかにも「凡庸」などが当てはまるだろう。その一方で、「恥部恥部メモリー」といった情けなさ、「勢い」「繊細」「熟成度」といった、忘れたいけど甘酸っぱい青春、過去への追憶を思わせる言葉が挙げられている。ここで、2010年代アニメにおける「異世界系」、すなわち現代人が剣と魔法のファンタジーへ転生するという物語形式のなかで、それは『異世界居酒屋「のぶ」』のような「日常系」であり、『無職転生』のような「セカイ系」における、転生によって物語内に現代的な視点を挟み直すことで陳腐になった形式を生きながらえさせるような効果を想起させられる。この「異世界系」が過去のあらゆる物語にいまの視点をぶつけることで復活させることと、「死蔵データグランプリ」が(メディア的に、あるいは時代の流行に対して)陳腐化したデータを、どのような価値基準で見直すと輝きだすかという、違う世界へ「データ」を転生させるということとの類似性を認めることができるはずだ。


カタルシスの岸辺が得票数を発表する様子[提供:カタルシスの岸辺]


純粋に死蔵しているデータとは、美的状況にある、無意味ということであるが、それが「死蔵データ」としてグランプリを勝ち抜けば勝ち抜くほど、資料性や商品価値をもち始め、政治化されていく。カタルシスの岸辺が「マテリアルショップ」で、鑑賞者が選んだゴミをオブジェにするとき、そのオブジェは唯一無二であるがゆえにその美的存在性(使用できなさ、無意味さ)は保持されるが、新しいストックイメージたる「死蔵データ」の場合は、それはデータであるがゆえに無限に複製可能で、無限のオーナーシップと使用が可能だ。共犯者をつくる手つき、そして、その価値や概念を決してひとつに収斂させないグランプリの決定方法という、この参加者の巻き込みと冗長さにカタルシスの岸辺による造形があると思った。

イベントは生配信視聴券2000円、一般観覧席3500円でした。



★──「死蔵データ」を、ヒト・スタヤルにおける『貧しい画像を擁護する』(2009)や、アーティ・ヴィアカントの『ポストインターネットにおけるイメージ・オブジェクト』(2010)といった2010年前後の画像をめぐる新アウラ論の系譜に位置づけることは容易だろう。もちろん、レフ・マノヴィッチが2010年代に取り組んだ1500万枚以上のInstagramにアップロードされた画像を分析した『Instagramとコンテンポラリー・イメージ』(2017)との差分で考えるのも面白い。
死蔵データグランプリ2022」詳細についてはこちら。
https://katakishi.com/wp-content/uploads/2022/06/ce1fe83ac0ed4b4b0be40e7d97d24c9f.pdf(カタルシスの岸辺「第一回死蔵データグランプリスポンサーさまご提案用企画資料」2022.06.14)



死蔵データGP 2022-2023 決勝戦:https://katakishi.com/sdg_final_battle/

2023/03/25(土)(きりとりめでる)

佐藤信太郎「Boundaries」

会期:2023/03/23~2023/05/13

PGI[東京都]

佐藤信太郎は東京とその近郊の都市環境を、精密に測定して撮影するようなスタイルの作品を発表してきた。本作「Boundaries」もその延長上にあるシリーズだが、手法も見た目もかなり違ったものになってきている。

佐藤が今回、被写体として取り上げたのは、崖のように切り立った起伏のある地形の場所である。かつては海と陸の境界線上に位置していたそんな場所には、さまざまな草木が生い茂り、「垂直に迫り上がっていく森」の様相を呈している。佐藤は撮影後に写真をプリントし、何気なく少しずらして重ねて置いていた。それを見て、複数のプリントが互いに干渉することであらわれてくる時空間の面白さに気がつく。そこから、四季を通して撮影した画像から自在にイメージを切り出し、微妙に重ね合わせながらほかの画像と「リコンバイン」(recombine=組み替え)していく本シリーズを発想するに至った。

最初の頃は、画像を直線的に切りとっていたが、次第に植物の輪郭をそのまま利用して複数のレイヤーを重ねたり、ふたたび引き剥がしたりするやり方をとるようになる。結果として、「Boundaries」シリーズは、より抽象度を増し、「上とも下ともいえないゆらぎ」を備えた時空間を定着する、ユニークな作品として形をとっていった。

今回の展示は、プリントに白いオーバーマットをかけ、写真用のフレームにおさめたオーソドックスなものだった。だがこのシリーズは、より大きくプリントしたり、横長に繋げたりすることによって、写真作品の枠を超えたインスタレーションとして展開できる可能性をもっているのではないだろうか。さらにまだ先がありそうだ。


公式サイト:https://www.pgi.ac/exhibitions/8566

2023/03/24(金)(飯沢耕太郎)