artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
土田ヒロミ写真展 「砂を数える」
会期:2015/04/25~2015/06/07
Gallery TANTO TEMPO[兵庫県]
写真家・土田ヒロミが1976年から89年にかけて取り組んだシリーズ「砂を数える」。日本各地のお花見名所、観光地、遊園地、イベント会場などに集う大群衆を、引きのアングルで撮影したものだ。作品に写っているのは、まるで蟻の大群のような人、人、人。そこには厳格なルールがある訳ではないが、人々はある一定の秩序に基づいてまとまった行動を取っている。同時に、ギラギラした欲望というか、たくましい生命力が画面に充満しており、昭和後期の日本人のパワーに圧倒された。平成27年の今、日本人の生活は当時より遥に洗練されている。しかし生き物としての日本人は当時より弱々しくなっているのではないか。そんな思いがふと脳裏をよぎった。
2015/04/26(日)(小吹隆文)
楢橋朝子 写真展「biwako2014-15」
会期:2015/04/15~2015/04/26
galleryMain[京都府]
galleryMainの移転リニューアルのオープニング企画。倉庫を改装した新スペースに、写真家の楢橋朝子が2014 年から15 年にかけて琵琶湖を撮り下ろした新作が展示された。
展示作品はいずれも、水中に浸かりながら岸辺の光景を撮った、半水面/半陸上・空が写った写真。揺れる波間に身を置き、コントロールを手放して撮影することで、安定した水平線が画面から姿を消し、水面/陸上、自然/人工、形の定まらない流動体/輪郭をもった固体といったさまざまな境界が不安定に揺らぎ、遠近感までもが狂っていく。生き物のように蠢く水、その彼方にあるはずの岸辺の光景は蜃気楼のように曖昧にぼやけ、クリアな輪郭を失い、不安定に斜めにかしぎ、あるいは眼前にせり上がった奔流に山並みや建物、ヨット遊びの人などが飲まれていくような感覚を覚える。画面を見ている私たちもまた波間に浮き沈み、飛沫に飲み込まれてしまうような不安定さ、重力を失った身体が上下する浮遊感……だがその感覚は不思議と心地よい。安定した二項関係、構図、視点が撹乱されるさまを、浪間に漂う身体感覚を共有し、撮る快楽とともに身体感覚ごと追体験して味わうことが、楢橋作品の大きな魅力であるだろう。
加えて今回の展示では、琵琶湖が一年間かけて撮影されている。咲き誇る桜を背景に半ばまどろむかのような灰色混じりの水、夏の青空を映し出す透明感をたたえた青、雪山の白さに突き刺さるような冴え冴えとした冬の黒、鉛のように重くたゆたう鈍い灰色……季節ごとに色を変え、多彩な表情を見せる湖面が実に魅力的だった。
2015/04/26(日)(高嶋慈)
日比遊一「地の塩」
会期:2015/04/18~2015/05/23
東京画廊+BTAP[東京都]
日比遊一は1964年、名古屋市出身、ニューヨークで俳優、映画作家として活動している。1990年代以降、独学で写真の撮影・プリントの技術を身につけ、写真家としても『imprint/ 心の指紋』(Nazraeli Press,2005)をはじめ、多くの写真集を刊行し、アメリカやヨーロッパ各地で個展を開催してきた。これほど力のある写真家が、日本ではほとんど知られていなかったのが不思議だが、今回の「地の塩」展が日本での初個展になる。
このシリーズは、1992年に日本に一時帰国した時に、奄美大島で撮影されたもので、日比にとっては最も初期の作品の一つである。にもかかわらず、その後の彼の写真に共通する、被写体に対するヴィヴィッドな身体的な反応が、既にくっきりとあらわれていることが興味深かった。画面は大きく傾いているものが多く、時には被写体の一部がほとんど真っ黒に潰れるほど焼き込まれている。その過剰ともいえるような画像の振幅の大きさは、やはり日比が俳優としての訓練を積んできたからではないだろうか。それぞれの場面に潜んでいる物語を、演劇的な想像力を駆使してつかみ取ろうとする身振りが、彼の写真ではいつでも強調されているように感じるのだ。
もう一つ、今回の展示で面白かったのは、モデルとなってくれた奄美大島の女性に宛てた毛筆書きの手紙(かなり大きな)が、写真とともに展示してあったことだ、日比は写真だけでなく、書も独学で習得し、やはり身体性を強く感じさせる独特の書体の字を書く。以前から、日本人の写真家の視覚的体験における、書(カリグラフィ)の重要性に着目していたのだが、彼の作品はそのいいサンプルであるように思える。書が写真のように、写真が書のように見えてくるのだ。
2015/04/25(土)(飯沢耕太郎)
第8回 ゼラチンシルバーセッション
会期:2015/04/25~2015/05/09
アクシスギャラリー[東京都]
2006年に広川泰士、藤井保、平間至、瀧本幹也の4人の写真家が、それぞれのネガを交換してプリントするというコンセプトで開始したのが、「ゼラチンシルバープリント」展。デジタル化の進行によって、フィルムと印画紙を使用する銀塩写真のあり方を問い直さざるを得なくなったのがちょうどその頃であり、以後毎年コンセプトを少しずつ変えながら、「ゼラチンシルバープリント」へのこだわりを表明し続けてきた。正直、ややマンネリになっているのではないかと感じる年もあったのだが、今回は二人の写真家が共通のテーマで競作するというアイディアを打ち出し、新たな可能性を感じさせる展示になっていたと思う。
出品者は石塚元太良×水越武、市橋織江×瀧本幹也、井津由美子×辻沙織、薄井一議×勝倉峻太、ブルース・オズボーン×蓮井幹生、小林紀晴×村越としや、小林伸一郎×中道淳、嶋田篤人×三好耕三、鋤田正義×宮原夢画、瀬尾浩司×泊昭雄、百々新×広川智基、百々俊二×広川泰士、中野正貴×本城直季、中藤毅彦×ハービー・山口、西野壮平×若木信吾、平間至×森本美絵、藤井保×渡邊博史の34名(17組)。ジャンルはかなり多様だが、力のある写真家たちが多く、ありそうであまりない取り合わせのセッションを楽しむことができた。この試みは、出品者を固定せずにしばらく続けていくと、さらに豊かな成果が期待できそうだ。
今回は「特別ゲスト展示」として、モノクロームの端正な風景写真で知られるマイケル・ケンナの作品も出品され、一般参加の「GSS Photo Award」の公開審査(4月29日)も開催されるなど、「ゼラチンシルバープリント」の魅力を、さまざまな形で伝えようとする参加者たちの強い意欲が伝わってきた。むろん、デジタル化の波を押しとどめることは不可能だろうが、出品者たちが異口同音に語っていたように、「選択肢の一つ」としての銀塩写真は、フィルムや印画紙の物理的な供給を含めて、なんとかキープしていってほしいものだ。
2015/04/24(金)(飯沢耕太郎)
荒木経惟写真展「男─アラーキーの裸の顔男─」
会期:2015/04/24~2015/05/06
表参道ヒルズ スペース オー[東京都]
月刊誌『ダ・ヴィンチ』の巻頭を飾る「アラーキーの裸の顔」の連載が200回を超え、それを記念して展覧会が開催された。1997年2月25日撮影の「ビートたけし」から2014年12月19日撮影の「北野武」まで、17年間、210人の「裸の顔」が並ぶと、圧巻としかいいようがない。連載開始から16年以上が過ぎ、750人以上を撮影したという『週刊大衆』掲載の「人妻エロス」のシリーズもそうなのだが、荒木の仕事の中に、文字通り「ライフワーク」といえそうな厚みを持つものが増えてきている。
荒木はいうまでもなく、森羅万象を相手にして撮り続けてきた写真家だが、「男」を被写体とする時には、普段とはやや違ったエネルギーの出し方をしているように感じる。いつものサービス精神は影を潜め、ひたすら「裸の顔」に向き合うことに全精力を傾けているのだ。結果として、このシリーズは尋常ではないテンションの高さを感じさせるものになった。それをより強く引き出す役目を果たしているのが、モノクロームの銀塩バライタ紙によるプリントだろう(プリント制作は写真弘社)。今回は、雑誌の入稿原稿を、そのままフレームに入れずに展示することで、荒木の撮影の場面に直接立ち会っているような臨場感を感じることができた。モデルの中には「五代目中村勘九郎」「忌野清志郎」「大野一雄」「久世光彦」のように、既に鬼籍に入った人も含まれている。荒木がまさに彼らの生と死を丸ごと写真におさめようともがいていることがよく伝わってきた。
このシリーズ、いつまで続くのかはわからないが、オープニングに登場した荒木の元気さを見ると、まだしばらくは「裸の顔」を直に目にする愉しみを味わうことができそうだ。
2015/04/23(木)(飯沢耕太郎)