artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

竹之内祐幸「鴉」

会期:2015/03/04~2015/04/28

フォト・ギャラリー・インターナショナル[東京都]

「鴉」といえば、どうしても深瀬昌久の同名の写真集(蒼穹舎、1986年)を思い出してしまう。不吉で禍々しいカラスたちの姿に、自分自身の孤独を投影した凄絶な写真群だが、1982年生まれの竹之内祐幸の作品はだいぶ肌合いが違う。竹之内は2013年のある日、代々木公園を散歩中に、日光浴しているカラスに興味を引かれて、たまたま持っていたカメラのシャッターを切ったのだという。それから折りに触れて撮影されたカラスたちの写真に、スケートボーダー、池の亀と鯉、卓上の静物などの写真をあわせたのが本シリーズで、そこにはゆったりとした、のびやかな空気感が漂っていた。おそらく、カラーで撮影していることが大きいのではないかと思う。
むろん、竹之内もカラスにまつわりつく「怖い鳥」、「嫌われている鳥」というイメージはよく承知している。だが「人間が勝手に抱いている印象とは無関係で、自由に楽しそうに過ごしている」という第一印象にこだわり続けたのが、とてもよかったのではないだろうか。結果として、彼の「鴉」は、深瀬昌久の呪縛から逃れ、単なる鳥の生態写真とも違った独特のポジションに立つことができた。ただ、このままだと「鴉」の表象に曖昧にもたれかかった作品に終わりかねない。もう少し、カラスと他の被写体の写真とをどのように組み合わせていくか、さらにそのことによって何が見えてくるかを意識して、作品全体を緊密に構築していくべきだろう。次の展開に期待したい。

2015/03/19(木)(飯沢耕太郎)

澤田知子「FACIAL SIGNATURE」

会期:2015/03/14~2015/04/18

MEM[東京都]

2013年に発表した「SKIN」と「Sign」の2シリーズは、澤田知子が新たな方向に向かいつつあることを示す作品だった。得意技の「セルフポートレート」を封印した「SKIN」、ポップアート的な題材と増殖・並置の手法を探求した「Sign」とも、その表現領域を拡大していこうとする意欲的な取り組みだったのだ。だが今回、同じMEMで展示された新作「FACIAL SIGNATURE」では、ふたたび慣れ親しんだ「セルフポートレート」に回帰している。では、今度の作品が後退しているかといえば、必ずしもそうはいえないのではないかと思う。むしろ「SKIN」と「Sign」の実験を踏まえて、より高度に「人はどのように外見から個人のアイデンティティを特定しているのか」と問いかけ、答えを出そうとしているのだ。
澤田が今回「変装」しているのは「東アジア人」である。韓国人、中国人、台湾人、シンガポール人、モンゴル人らと日本人とは、特に西欧諸国では見分けるのがむずかしいだろう。それゆえ、さまざまな「東アジア人」になるため、髪型、表情、メーキャップなどを微妙に変えていく作業は、これまでよりもさらにデリケートなものにならざるを得なかった。それを可能としたのが、ここ10年余りのメイクやウィグの急速な進化と、澤田自身の経験の蓄積だったことはいうまでもない。結果として、ギャラリーの壁に整然と並んだ、微妙に異なる108枚の「FACIAL SIGNATURE」は、独特の魔術的な効果を発するものになっていた。シンプルな黒バックから浮かび上がる顔、顔、顔を眺めていると、不気味でもあり、ユーモラスでもある、奇妙な視覚的体験に誘い込まれてしまうのだ。
なお、展示にあわせて青幻舎から同名の写真集が刊行されている。

2015/03/18(水)(飯沢耕太郎)

VOCA展

会期:2015/03/14~2015/03/30

上野の森美術館[東京都]

「現代美術の展望──新しい平面の作家たち」という枠組みで、1994年から毎年開催されている「VOCA展」も22回目を迎えた。めったに足を運ばないのだが、ひさしぶりに展示を見てみると、写真と絵画を巡る状況が既に大きく変わってしまったことに強い感慨を覚えた。
今回「写真作品」を出品しているのは、川久保ジョイ、岸幸太、ジョイ・キム、福田龍郎、本城直季の5人。34名の出品作家のうちの5名だから、極端に多いとはいえないが、決して少なくはない数といえるだろう。気がついたのは、写真というメディウムが決して特殊なものではなく、むしろ他の平面作品とまったく違和感なく同居していることで、そのような感触は1990年代まではなかったことだ。かつては、写真と絵画、あるいは版画との異質性が、もっとせめぎあいつつ際立っていたように思う。これは2000年代以降に、「写真の絵画化」、「絵画の写真化」が急速に進んだことの端的なあらわれといえるだろう。
とはいえ、名前を挙げた5人の「写真作品」を、単純に絵画と同じレベルで評価していいのかといえば、そうではないと思う。VOCA奨励賞を受賞した岸幸太の「BLURRED SELF-PORTRAIT」は、壁に貼り付けた印画紙に画像を投影し、スポンジで現像液を塗布するという手法で制作されたものだが、1871年のパリ・コミューン時に撮影された労働者たちの群像写真と、自分のシルエットを重ね合わせることで、写真ならではの物質感と偶発性を取り込んでいる。また、大原美術館賞を受賞した川久保ジョイの「千の太陽の光が一時に天空に輝きを放ったならば」は、福島第一原発に隣接する帰宅困難地域の地下に、8×10インチの印画紙を埋め、放射性物質で「撮影」するという作品である。これもまた、むしろ自己表現を放棄し、写真のイメージ形成能力を最大限に活用することで、見えない「光」を捕獲しようとする試みといえる。写真という媒体そのものが本来備えている可能性を、作品作りのプロセスに積極的に導入していこうとする方向性は、他の出品作家の作品にも見られた。
「現代美術」と「現代写真」との境界線が消失したというのはよくいわれることだが、逆にその境界線に目を凝らし、こだわっていく作業も大事になっていきそうな気がする。

2015/03/16(月)(飯沢耕太郎)

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ロバート・フランク「MEMORY─ロバート・フランクと元村和彦」

会期:2015/02/20~2015/04/18

gallery bauhaus[東京都]

1970年11月のある日、二人の日本人が当時ニューヨーク・バワリー・ストリートにあったロバート・フランクの部屋を訪ねた。そのうちの一人が元村和彦で、この訪問をきっかけにして、彼が設立した邑元舎から、フランクの写真集『私の手の詩』(1972年)が刊行された。その後、邑元舎からは『花は……FLOWER IS』(1987年)、『THE AMERICANS 81 Contact Sheets』(2009年)とフランクの写真集があわせて3冊出版され、彼らの交友も2014年夏に元村が死去するまで続くことになる。
今回のgallery bauhausでの展覧会は、その間にフランクから元村の手に渡ったプリントから、約50点を選んで展示している。そのなかには、これまで日本では未公開の作品、23点も含まれているという。この「元村和彦コレクション」の最大の特徴は、彼らの互いに互いをリスペクトしあう親密な関係が、色濃く滲み出ている作品が多いことだろう。たとえば、1994年にフランクが日本に来た時に撮影した写真をモザイク状に並べた作品には、元村以外にも、写真家の鈴木清、荒木経惟、『私の手の詩』の装丁を担当した杉浦康平、写真評論家の平木収らが写り込んでいる。また97年に、元村がフランクの住居があるカナダ・ノヴァスコシア州のマブーを訪ねた時のポートレートもある。1981年の「NEW YEARS DAY」に撮影された写真には「BE HAPPY」と書き込まれている。このような、挨拶を交わすように写真を使うことこそ、フランクの写真の本質的なあり方をさし示しているようにも思えるのだ。
気になるのは、この「元村和彦コレクション」が今後どのように管理され、公開されていくのかということだ。美術館に一括して収蔵するという話もあるようだが、ぜひ散逸しないようにまとまった形でキープしていってほしい。

2015/03/13(金)(飯沢耕太郎)

富士定景─富士山イメージの型

会期:2015/01/17~2015/07/05

IZU PHOTO MUSEUM[静岡県]

IZU PHOTO MUSEUMの富士定景展がいい。日本で最も多く被写体となった富士山の写真をたどるが、山は同じでもまわりの人や風景が変化する。第一部が明治期の海外からのまなざしなどのイメージ、第二部が阿部正直博士の気象研究。特に日本側と米軍側、おのおのからの戦争と富士山の写真が印象的。5年ぶりのIZU PHOTO MUSEUMだが、アーティストの杉本博司のデザインは、やはり建築家の設計と違うという感じは変わらない。建築の場合、全体の空間を統合する論理的な一貫性を重視すると思うのだが、IZUは、それと別の感覚が働いている。建築的か、どうかの分かれ目のひとつだ。

2015/03/13(金)(五十嵐太郎)

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