artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

showcase ♯4 つくりもの Constructs

会期:2015/05/08~2015/05/31

eN arts[京都府]

清水穣キュレーションによる、写真に特化したグループ展の第4弾。「つくりもの Constructs」をテーマに、中島大輔と山崎雄策をピックアップした。中島の作品は庭の植え込みなどに一本の棒を渡したものだが、構図と光の妙により植樹林の斜面を見下ろしているかのような巨視的スケールの風景へと変換する。一方、山崎の作品は街路で撮影した人物の連続写真だ。同じ人物を撮っているはずなのに、顔つきが1点ずつ微妙に異なる。画像加工をそれと気づかぬほど巧みに施した作品であり、その事実に気付いた時の気持ち悪さは半端ない。2人の作品は写真に加工を施す、施さないの違いはあるものの、「つくられた」情景であることに変わりはない。そして「つくりもの Constructs」が写真の本質であることを雄弁に語っている。

2015/05/23(土)(小吹隆文)

菱沼勇夫「LET ME OUT」

会期:2015/05/20~2015/05/30

ZEN FOTO GALLERY[東京都]

2015年3月から4月にかけて、TOTEMPOLE PHOTO GALLERYで「彼者誰」、「Kage」の連続展を開催したばかりの菱沼勇夫が、今度はZEN FOTO GALLERYで「LET ME OUT」展を開催した。こちらは2010~13年に撮影・制作された6×6判、カラーのシリーズで、今回はその中から16点をセレクトして展示している。
セルフポートレート及び身近な人物たちと思われるポートレート(ヌードが多い)が中心だが、そこに奇妙なオブジェの写真が混在している。バナナと土器と包丁の組み合わせ、狼、アヒル、鴉などの剥製、吊り下げられた馬の首(本物だそうだ)、赤い布に梱包されたマネキン人形などだ。それらの写真が、互いに衝突し合って不協和音を生み出すことで、シリーズ全体に不穏な空気感が漂っている。実家の福島県郡山近辺で撮影された写真が多いようだが、東北地方の冷え冷えとした風土が、作品の背景としてうまく効いていると思う。
とはいえ、まだ彼が何を求め、どんな方向に作品全体を進めようとしているのか、やや断片的過ぎてうまく見えてこないのも確かだ。仮面のようなものを身につけている写真も多いのだが、その意味づけもまだ曖昧な気がする。撮り進めていく中で、衝動や思いつきだけに頼るのではなく、もっと論理的な構築力を発揮できるようになるといいと思う。いいシリーズに成長していく可能性を充分に感じるだけに、あとひと頑張りを期待したい。なお、展覧会にあわせて、ZEN FOTO GALLERYから同名の写真集が刊行されている。

2015/05/20(水)(飯沢耕太郎)

奈良原一高「Japanesque 禅」

会期:2015/05/11~2015/07/04

フォト・ギャラリー・インターナショナル[東京都]

奈良原一高の「JAPANESQUE(ジャパネスク)」は、彼の作品の中でもやや特異なシリーズといえるだろう。1966年に『カメラ毎日』に連載され、1970年に田中一光のデザインによる同名の写真集(毎日新聞社刊)にまとめられたこのシリーズは、「富士」「刀」「能」「禅」「色」「角力」「連」「封」の8章によって構成されていた。日本の伝統文化が被写体であることは、章のタイトルを見ればすぐわかる。だが、単純な「日本回帰」の産物というわけではない。奈良原はこの作品を発表する前の1962~65年に、パリを中心にヨーロッパに滞在していた。つまり「JAPANESQUE 」は、堅固に打ち固められた石造りの建物に代表されるヨーロッパの文化・風土にどっぷりと浸かって帰ってきた彼が、そのフィルターを通して再構築しようとした「日本」イメージの集積だったのだ。写真集『JAPANESQUE』所載のエッセイ「近くて遥かな国への旅」では「ヨーロッパを訪れて、僕ははじめて日本という国に出会ったのである」と書いている。
それは、今回フォト・ギャラリー・インターナショナルで展示された、「JAPANESQUE 」の中でも最も印象的な章の一つである「禅」の写真群(22点)を見てもよくわかる。曹洞宗の大本山である鶴見・総持寺での厳しい修行の様子を捉えた本作でも、ドキュメンタリー的な描写のあり方は、ハイコントラスト画像、超広角レンズ、ソラリゼーション、長時間露光などの特殊技法によっていったん解体され、むしろ無国籍的といえるような時空において、幻影とも現実ともつかない「JAPAN」としてふたたび組み上げられているように見える。文字通り、日本の伝統文化の批評的な再解釈であり、このような仕事は、奈良原以前にも以後にもほとんどおこなわれてこなかったのではないだろうか
「JAPANESQUE 」の視点は、いま見ても決して古びてはいない。それどころか、よりグローバルな無国籍化が進行した現在の社会・文化の状況を踏まえた新たな「JAPANESQUE」も、充分に可能なのではないかと思える。

2015/05/20(水)(飯沢耕太郎)

土田ヒロミ「砂を数える」

会期:2015/04/25~2015/06/07

Gallery TANTO TEMPO[兵庫県]

Gallery TANTO TEMPO開設7周年記念として開催された土田ヒロミの写真展。1976年~89年にわたって国内各地で撮影されたモノクロの「砂を数える」シリーズが展示された。
被写体となるのは、海水浴場や観光地、お花見や初詣などの行事に集う人々。序盤の展示作品では、20~30名ほどであった群れ集う人々は、次第に数と密度を増していき、文字通り砂粒のように画面をびっしりと埋め尽くす。「集団」というほど統制されているわけでもなく、(学校や企業、家族の集合写真のように)アイデンティティの一貫性が明確にあるわけでもない。視線や身体の向きはバラバラで、身体を密着させつつもお互いへの関心は薄く、心理的な距離は隔てられている。何らかのイベントのために一時的に集まった群衆は、目的や欲望は共有しつつも、中心や連帯を欠いた「群れ」として蠢く運動体を成している。個々の輪郭は、オールオーヴァーに画面を覆い尽くす抽象的なパターンへと還元される手前で、ギリギリ踏みとどまっているように見える。
ここでは、固有の顔貌や名前を欠いた等価な存在として平均化・数値化されていく過程と、個人として辛うじて認識可能な輪郭とが瀬戸際でせめぎ合っている。シリーズ全体を通して見えてくるのは、均質な「国民」の出現だ。1976~89年という撮影期間も社会史的な役割を果たしている。つまりこの期間は、高度経済成長の終了から、昭和天皇崩御による昭和という一つの時代の終わりを指す。観光地や海水浴場に群れ集う人々の姿は、余暇や娯楽が「レジャー」として商品化された社会を写し出し、皇居の新年一般参賀や広島の平和記念式典に集う人々の姿は、「国民」という幻想の集合体を形成する。
一方、カラーで撮影された近年の「新・砂を数える」シリーズでは、群衆の密集性やダイナミズムは薄れて後退し、鮮やかだがどこか空虚な風景の中、互いに距離を取って点在する人々が写し出される。デジタル技術の使用も相まって、ミニチュアの人形が置かれたセットのように、人工的で模型的なイメージだ。ここでは、「群衆の形成が風景を変え、凌駕し、それ自体が一つの蠢く運動体としての風景を現出させる」のではなく、人々は風景の「中に」置かれた存在として、モノと等価になったかのようだ。2つのシリーズの対照のなかには、日本社会の変質が確実に刻み込まれている。

2015/05/16(土)(高嶋慈)

磯部昭子「DINNER」

会期:2015/05/09~2015/06/07

G/P gallery[東京都]

磯部昭子は1977年生まれ。2001年に武蔵野美術大学映像学科卒業後、フリーランスとして主にファッション、広告のジャンルで活動している。今回のG/P galleryでの個展は、2012年の「u r so beautiful」(ガーディアン・ガーデン)以来2回目ということになる。
今回の展示は、カラフルでポップなテイストが強調され、視覚的なエンターテインメントとして充分に楽しめるものになっている。大小の作品18点をちりばめるインスタレーションも、うまくはまっていた。前回の個展では、スナップショット的な要素が大きかったのだが、今回は広告写真家の主戦場であるスタジオワークが中心となっているので、のびのびと力を発揮しているように見える。身体とオブジェとのトリッキーな組み合わせが彼女の持ち味なのだが、それを、楽しみつつ模索している様子が伝わってきた。
ただ、この種のファッショナブルな身体イメージの展開は、それこそ1920~30年代のマン・レイやアーウィン・ブルーメンフェルドの時代から積み上げられてきているものであり、このままだとそこに口当たりよくおさまってしまいそうな気もする。身体の壊し方、ずらし方に、ある種の節度を感じるのがもどかしい。ヴァリエーションを増やすのではなく、何か特定のモードに、もっと強烈にこだわっていくのもひとつのやり方だろう。うまく伸ばしていけば、もう一皮むける才能の持ち主なのではないかと思う。

2015/05/15(金)(飯沢耕太郎)