artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

たかはしようこ「イノセント」

会期:2011/06/30~2011/07/05

現代HEIGHTS Gallery DEN[東京都]

東京綜合写真専門学校の校長をつとめる谷口雅から、世田谷区北沢の現代HEIGHTSで、連続展をやるという通知がきた。「春、桜を撮っていた」(6月30日~7月5日)を皮切りに、「街の闇の心地良さに」「移動あるいは想起する日常性」「水面を眺めてばかりいる」と7月26日まで4部構成で「春から夏へ、切断し旋回する四つの写真の試み」が展開される。その最初の展示を見に行ったら、奥のGallery DENでは、東京綜合写真専門学校を3年前に卒業した、たかはしようこの「イノセント」展が開催されていた。どうやら谷口のもくろみというのは、自分の展示を露払い役にして、4人の若手女性写真家たち(ほかにシンカイイズミ、森花野子、大沼洋美)の個展を同時期に開催し、そちらに観客を集客しようということだったようだ。
まんまとその企みに乗せられてしまったのだが、たかはしの作品はなかなか面白かった。淡い色彩や弾むようなカメラワークは、この世代の女性写真家たちのトレードマークのようなものだが、それに加えて森の中の粘菌(変性菌)のように分裂し、増殖していくドット状の形象に対するこだわりに、彼女の独特の視点がある。以前は自分で手を加えたオブジェを撮影する作品が中心だったのだが、近作にはスナップやポートレートも加わってきている。ただ、そろそろセンスのいい「イノセント」な世界を構築することだけでは、物足りなくなる時期にさしかかっているのではないかと思う。哲学や思想というのはやや大げさかもしれないが、自分の世界観をもっときちんと集中して打ち出していくべきだろう。一皮むければ、いい作家になっていくのではないかという予感がする。
谷口雅の作品は、タイトルのつけ方ひとつ見ても、彼の世界観にしっかりと裏打ちされている。たかはしにとっては、身近にいい手本があるということだ。

2011/07/03(日)(飯沢耕太郎)

ジョセフ・クーデルカ プラハ1968

会期:2011/05/14~2011/07/18

東京都写真美術館[東京都]

1968年8月20日、当時のソ連が中心となったワルシャワ条約機構軍がチェコスロヴァキアの国内に侵攻し、全土を掌握した。本展は、プラハ市民による抵抗の模様を記録した写真展。路上で歩哨に立つ兵士を取り囲む婦人、大通りを進む戦車の隊列、そして群集で埋め尽くされた広場。クーデルカのモノクロ写真は、それらが紛うことなく写真であるにもかかわらず、いやだからこそというべきか、抗議の肉声や戦車の排気音が聞こえてくるように感じられるし、群集の熱を帯びた人いきれすら体感できる。まさしくストリートの写真である。とりわけ、鑑賞者の想像力を大いに刺激したのが、市民と兵士のあいだで交わされた言葉の数々だ。むろん、そこで具体的にどんな言葉がどんな言語で交換されたのか知るよしもない。しかし、被写体に極端に近接した写真からは、そこでさまざまな言葉が生み出され、戦車の兵士に届けられている様子が明らかにうかがえる。「圧倒的で無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉」(加藤周一「言葉と戦車」)の対峙を的確にとらえた写真である。

2011/07/02(金)(福住廉)

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榮榮&映里「三生万物」

会期:2011/07/02~2011/08/14

資生堂ギャラリー[東京都]

榮榮と映里の展覧会が東京・銀座の資生堂ギャラリーで始まった。彼らについては、以前artscapeの記事でも紹介したことがあるが、榮榮(ロンロン)が福建省生まれの中国人、映里(インリ、本名鈴木映里)が横浜生まれの日本人という異色のカップルで、2000年以来北京を中心に作品を制作・発表している。2007年には、中国では最初の総合的な写真芸術センター、三影堂撮影芸術中心をほとんど自己資金のみで設立し、中国現代写真の未来を見据えた活動を開始した。今回の展示は、その彼らの作品の日本における最初の本格的な紹介ということになる。タイトルの「三生万物」は「道は一を生み、一は二を生み、二は三を生み、三は万物を生む」という老子の言葉を引いてつけたのだという。彼らの作品世界をよく表わすタイトルといえるだろう。
今回は彼らが最初に暮らした北京の住居の取り壊しを、日記のようなスタイルで撮影した「六里屯」、三影堂撮影芸術中心の建物の工事現場を背景に、家族や仲間たちとの関係を細やかに綴った「三影堂」、男の子が続けて3人生まれ、家族が増えていく過程を記念写真のように定着した「草場地」など、主に2000年代後半以降の近作を中心に展示している。周囲の現実に対する違和、怒り、哀しみなどを二人の裸体を介在させて激しく問いつめていく初期の作品に比べると、眼差しはより柔らかくなり、穏やかな充足感が全体を支配しているように感じる。だがそれでも、私的な生のあり方を、身体的な表現に託して中国社会の強制的なメカニズムに対置させていこうとする彼らの姿勢は揺るぎないものがあると思う。おそらくこれから先も、彼らに降りかかってくるさまざまな困難に真っ向から対峙しながら、共同制作を続けていくのではないだろうか。
7月2日にワード資生堂(銀座資生堂ビル9F)で開催されたギャラリートークで、彼らが話してくれたことが感慨深かった。忙しい展覧会の準備作業の合間を縫って、気仙沼や石巻など東北地方の震災の被災地を訪れたのだという。もちろん、まだその経験がどんなふうに彼らの作品に反映されていくのかは、彼ら自身にもわかっていないようだ。だがまずは生と死とが交錯する被災地の状況を、目に刻みつけ、身体感覚として受けとめようとするその態度は、とても真摯で誠実なものであると感じた。

2011/07/02(土)(飯沢耕太郎)

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吉行耕平 The Park

会期:2011/06/29~2011/07/18

BLD GALLERY[東京都]

これはおもしろい。赤外線フィルムで夜の公園の模様を撮影した写真で、カップルによる愛の行為や、それを覗き見る男性の群れ、さらには男性同士が戯れる光景を映し出している。いずれも背後から撮影しているが、おもしろいのは徐々に被写体との距離が近づいてゆき、やがて至近距離まで接近するところだ。カメラマンとしての客観的な立ち位置が、いつのまにか覗き見集団の一員にまでポジショニングを移動させていくといってもいい。ここにあるのは、外部の視点をもって内部に潜入するフィールドワーカーが直面しがちな、対象と同一化する寸前で辛うじて身を引き離す、独特の緊張感だ。それは、たとえば石川真生や森山新子の写真にも通じる特質だが、これらの写真家に共通するのは撮影の方法論だけではない。それ以上に、「ルポルタージュ」というより「体当たり」という言葉がふさわしい手法による写真そのものに、肉体の手触りや温もりが感じられるというところに大きな特徴があるのだ。これは、無機質な光と色彩によって代表される昨今の写真にはほとんど見受けられないアナクロニズムなのかもしれないが、かりにそうだとしても擁護しなければならないのはこちらのほうだ。なぜなら、肉体が内側から破壊される潜在的脅威を多くの人びとが抱えてしまった今、実在の根拠としての肉体に、これまで以上に関心が集まっているからだ。

2011/06/30(木)(福住廉)

下瀬信雄「結界VII」

会期:2011/06/22~2011/07/05

銀座ニコンサロン[東京都]

「構想から20年、個展では7回目」という下瀬信雄の「結界」シリーズ。彼の撮影のテリトリーである山口県萩市周辺の野山の植物に、4×5インチの大判カメラを向け、しっかりと丹念に写しとっている。一見地味だが、じっくりと見ていると実に味わい深い作品であることがわかる。
「結界」とは聖と俗の領域を分ける場所という仏教の用語だが、下瀬の解釈によれば「私たち人類が発明した『空間領域の境界』を表す言葉」ということになる。たしかに足元の大地に目を向けると、そこに見えない境界線が走っているように感じることがある。自然、とりわけ植物たちが「超えてはならない」と呼びかけているようでもある。下瀬のカメラは、その微かな気配を鋭敏に感じとり、緻密で端正なモノクロームのイメージに置き換えていく。オオバコの葉の上に架かった蜘蛛の巣にびっしりとついた水滴、草むらを優美にうねりながら進む蛇、それら生きものたちの小宇宙が、人間ではなく自然の摂理をリスペクトする眼差しによって、鮮やかに浮かび上がってくるのだ。「結界」とは別な見方をすれば、生と死の世界を分かつ境界線なのではないかとも感じた。
このシリーズはニコンサロンで既に7回にわたって発表され、2005年には伊奈信男賞も受賞している。だが、日本人の自然観の根源を問い直すようなその重要性は、まだきちんと評価されていないのではないだろうか。そろそろ写真集のような形にまとめていく時期にきているのではないかとも思う。なお、本展は7月21日~27日に大阪ニコンサロンに巡回される。

2011/06/30(木)(飯沢耕太郎)