artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

熊谷聖司「THE TITLE PAGE」

会期:2011/08/22~2011/09/04

ギャラリー蒼穹舎[東京都]

熊谷聖司が2009年に刊行した写真集『THE TITLE PAGE』(MATCH and Company)のページをめくった時、これは「俳句的」な写真集だと思った。写っているのはごく身近な日常的な場面で、それをあまり肩に力を入れずすっと切り取っている。そこに軽やかさとともに、「世界をこのように見ている」という認識のひらめきが感じるのがいかにも「俳句的」だ。それと、写真一枚一枚に短い言葉=タイトルがついていて(それが『THE TITLE PAGE』という写真集の題名の所以だろう)、その選び方にやはり知性と切れ味を感じる。最初の写真は窓辺の花瓶の花を撮影したもので、タイトルは「Flower is…」。これはロバート・フランクの写真集から取ったものだ。魚の切り身の写真に「Picasso」。ピカソの絵の骨のモチーフの変奏だろうか。ショーウィンドーの写真に「Twins」とあるのは、実物とガラス窓に写る影が二重映しになっているからだろう。このような、日常の断片を深みのある象徴的な場面に変質させる「俳句的」なレトリックこそ、日本の写真家たちの得意技だ。このシリーズは、それを高度に洗練させた営みと言えるだろう。
今回の展示には、その『THE TITLE PAGE』収録の写真に加えて、同時期(2006~2009年)に撮影された別なカットも選ばれている。それを見ても、熊谷が現実世界からイメージを切り出してくる手つきが、既に「芸」の域に達していることがわかる。8×10インチくらいに小さく焼かれたプリントも、このシリーズにふさわしい凝縮して詰まった感じを醸し出している。ただ残念なことに、あの魅力的なタイトルがはずされていた。展示でも写真と言葉との響き合いを見たいと思ったので、会場にいた熊谷にそれを伝えたら、「さっそくプリントアウトして貼っておきます」とのことだった。

2011/08/22(月)(飯沢耕太郎)

レオ・ルビンファイン「傷ついた町」

会期:2011/08/12~2011/10/23

東京国立近代美術館[東京都]

2階の常設展の横の会場に入ると、かなり大きな152.4×182.9�Bのインクジェットプリント35点が、通路を区切るように天井から吊り下げられている。この会場構成に、レオ・ルビンファインの周到な配慮を感じる。写真に写っているのは、世界各地の都市でストリートスナップの手法で撮影された人々の姿だ。東京、モスクワ、ソウル、ロンドン、ムンバイ、ナイロビ、モンバサ、ジャカルタ、マドリッド、カサブランカ、マニラ、エルサレム、コロンボ、クタビーチ(バリ島)、カラチ、ヘブロン(パレスチナ)、そしてニューヨーク──ルビンファインがカメラを向けたこれらの都市は、なんらかのかたちでテロの被害にあった「傷ついた街」(Wounded Cities)である。彼自身、ニューヨークで2001年9月11日の同時多発テロに遭遇し、それをきっかけにしてこれらの群像写真を6年間かけて撮影したのだという。
われわれは、等身大以上に大きく引き伸ばされた人々の顔に向き合う。それがどこか不安げで、寄る辺ない表情を浮かべているように見える。もともと街頭でスナップされた人々の写真は、そのような不安定で、どちらかといえばネガティブな感情を引き起こしやすい。それぞれの人物か、その時間にそこにいた目的や理由が、ある意味暴力的な切断によって宙吊りにされるからだ。それに加えて、今回の展示では写っている人々の表情を意図的に限定し(笑っている者はほとんどいない)、観客を圧倒するスケールに大伸ばしし、「傷ついた街」という文脈をあらかじめ提示している。そのため写真を見る者は、いやおうなしに「9・11」以後の世界のあり方を生々しく突きつけられ、写真を前に自問自答せざるをえないところに追い込まれてしまう。
このような強制的な写真の見せ方に対しては、僕はずっと否定的な見解を表明してきた。だが、今回の展示についていえば、ルビンファインはそのような観客の反応をあらかじめ予想したうえで、あえて威圧的なプレゼンテーションのやり方を選びとっているのではないかと思う。「9・11」以後の「なぜこんなことが起こったのか」という堂々巡りの思考の果てに、彼はとにかくこのような写真を撮ってみようと心に決めたのだろう。カタログを兼ねた写真集に、こんなふうに記している。
「群衆の中の人間の顔を見て、一国の運命がわかるはずがない。そんなことは私だって知っている。しかし、とにかく私は写真を撮り続けた。確信できないながらも、そこには『何か』があるはずだと思えてならなかった。自分の目で真剣に、一心不乱に見つめれば、耳で聞いただけでは得られない『何か』を得られるはずだと思ったのである」
彼自身も答えが見えていたわけではないだろう。それでも「何か」に突き動かされるように、これらの写真を撮り続けなければならなかったということは伝わってくる。まず「傷ついた街」の人々の顔に向き合ってみること。そしてそこにいるのが「彼ら」ではなく、「世界に一人しかない『彼』か『彼女』」であることを実感すること──その体験を共有することを願って、ルビンファインはわれわれを柵の中に囲い込み、それぞれの顔から発する視線に貫かれるような、会場のインスタレーションを試みたのではないだろうか。

2011/08/21(日)(飯沢耕太郎)

鬼海弘雄 写真展 東京ポートレイト

会期:2011/08/13~2011/10/02

東京都写真美術館[東京都]

「ああ、人間がここにいる!」。思わず、そんな独り言を漏らしてしまうほど、鬼海弘雄の肖像写真は、人間の存在感を強く感じさせる、じつに魅力的な写真である。今回発表されたのは、70年代から浅草寺の境内で断続的に撮影された肖像写真のシリーズと、東京の街並みを写したシリーズから選び出された、いずれもモノクロ写真の約200点。とりわけ前者のシリーズは、背景の平面を安定して確保できる浅草寺の境内を定点としたセンスがすばらしいが、それより何より、被写体となった人間のキャラが軒並み立っており、文字どおり片時も眼が離せない。たとえていえば、一癖も二癖もある性格俳優のような人間が次から次へと登場し、その目まぐるしいオンパレードが見る者の眼を圧倒するのである。《花札を模写する男》は、彼が着ているTシャツにプリントされた般若と同じような顔をしているし、《「ただの主婦だ」という婦人》は絶対に只者ではない風貌だ。しかも、彼らが時代の流れに左右されず、いまも昔も、つねに存在しているという事実が、私たちをさらに驚愕させてやまない。通常、定点観測とは、同じ場所で何かしらの変化を読み取る手法だが、鬼海の写真はむしろ同じ場所で同じような人間を記録することによって、次代を貫く人間の本質を炙り出しているところに大きな特徴がある。小奇麗で小賢くになった反面、キャラがますます薄くなり、生きている実感さえ覚束なくなりつつある現代人にとって、鬼海の肖像写真はひとつのモデルとなるだろう。もし、あなたが鬼海の肖像写真の被写体になる機会があるとすれば、どのような衣装で、どのようなポーズで、どのような表情でカメラの前に立つことができるのか。どうすれば、これほど輪郭のはっきりした人間として写真に焼きつけられることができるのか。それを考えながら生きていけばよいのだ。

2011/08/18(木)(福住廉)

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宇井眞紀子「アイヌ、風の肖像」

会期:2011/08/17~2011/08/30

銀座ニコンサロン[東京都]

小栗昌子の「フサバンバの山」もそうなのだが、このところ腰を据えて特定の地域、人物などを撮影するドキュメンタリー写真のあり方が気になってきている。宇井眞紀子が新泉社から刊行した同名の写真集の刊行にあわせて開催した「アイヌ、風の肖像」展でも、写真撮影の行為の“原点”を志向するような営みに、強く心惹かれるものを感じた。小栗も宇井も女性の写真家なのは偶然ではない気がする。女性の方が繰り返し、うねりながら続いていく被写体の生のリズムに、無理なく同調することができるのではないだろうか。
宇井眞紀子は1992年に、偶然の機会から、北海道沙流郡二風谷でアイヌ民族のコミューンを組織するアシリレラ(「新しい風」という意味、日本名は山道康子)に出会う。彼女の凛としたたたずまいと、大家族を束ねる包容力に魅せられた宇井は、以後20年近く子連れで二風谷に通い詰め、アシリレラ・ファミリーを記録していった。彼らの暮らしの細部のほか、アイヌの聖地を破壊する二風谷ダムの反対運動、伝統儀式、世界各地の先住民族との交流など、アシリレラさんを中心に撮影した写真をまとめたのが今回の展示である。
モノクロームとカラーを併用する撮影のスタイルには、自然体でまったく気負いがない。もちろん個々の写真には、それぞれの場面のバックグラウンドがきちんと写り込んでいるのだが、それらを読み解き、解説していこうとするよりは、その場を共有してシャッターを切っている写真家の心の躍動が、ストレートに伝わってくるのだ。20年の年月とともに、写真家も被写体となったファミリーの状況も、少しずつ変わっていく。それを無理なく受けとめて写真に編み込んでいく、息の長いドキュメンタリーのスタイルが、既にできかかっているように感じた。

2011/08/17(水)(飯沢耕太郎)

瀧本幹也「LAND SPACE」

会期:2011/07/16~2011/08/28

MA2 Gallery[東京都]

瀧本幹也の爽やかで意欲的な展示だ。2009年から5回にわたって撮影したというフロリダ・ケネディ宇宙センターのスペースシャトルのシリーズには、「宇宙少年」の夢が結晶している。5キロ以内に近づくのは禁止されているため、音に反応してリモートコントロールでシャッターを切る装置を使って、発射台から500メートルの地点から打ち上げの様子を連続的に撮影しているのだという。スペースシャトル計画が終焉を迎えた今、記念碑的なシリーズになるのではないだろうか。ぜひアメリカでの展示を実現してもらいたいものだ。
ただ、ノイズをすべてカットして、ピカピカのロケットや建築物、発射台の内部などに焦点を絞った作品の選択は微妙なところだろう。もう少し宇宙に挑む人間たちの生々しい営みも見てみたい気がした。完璧な“絵”をめざすあまり、瀧本自身の立ち位置も含めて、宇宙計画を推進する過程につきまとう、どちらかといえば子どもっぽい欲望や衝動の部分が見えにくくなっている。広告を中心として仕事をしてきた写真家にありがちな「小綺麗にまとめてしまう」弱点が出てしまったようにも感じる。
2階のスペースに展示されていた「LAND」のシリーズにも同じようなことを感じた。フレームが凝っていて、左右に内側を照らし出すLED照明が組みこまれている。面白いアイディアなのだが、白っぽい光が強過ぎてむしろ画面が見えにくくなってしまった。そもそも「SPACE」と「LAND」という組み合わせにあまり必然性がないのではないか。スペースシャトルから見た地球の“皮膚”の眺めを、標本のように提示するということなのだろうが、やや理に落ち過ぎた嫌いがある。二つのシリーズは切り離して見せた方がよいのではないかと思った。
なおLOUIS VUITTON六本木ヒルズ店でも、同時期に瀧本の新作展「LOUIS VUITTON FOREST」(7月29日~8月31日)が開催された。やはり「まとめ過ぎ」という感はあるが、こちらも時間をかけた意欲作である。

2011/08/13(土)(飯沢耕太郎)