artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
齋藤陽道「絶対」
会期:2011/07/06~2011/08/12
A/A gallery[東京都]
齋藤陽道は聾唖のハンデキャップを背負いながら活動している写真家。2009年に写真新世紀で佳作を受賞してデビューし、2010年には同優秀賞(佐内正史選)を受賞した。秋には赤々舎から写真集の刊行も決まり、いま最も注目を集めている若手の一人である。その彼の新作展が、「障害のある作家の作品を扱う日本初のコマーシャルギャラリー」である、アーツ千代田3331内のA/Agalleryで開催された。
実は2009年の写真新世紀で彼の作品を佳作に選んだのは僕で、その「タイヤ」には度肝を抜かれた。大型トラックのような車輛の巨大なタイヤを、走行中に至近距離で撮影した作品である。審査の時には、彼が聾唖者であることはまったく知らなかったのだが、後で聞いて、その衒いのないまっすぐな撮影のスタイルにあらためて共感を覚えた。今回展示された「絶対」のシリーズは、逆光気味に光を見つめて撮影したポートレート作品であり、やはり齋藤のストレートに被写体に向き合う姿勢がよく表われていた。車椅子の障害者を含む老若男女を撮影した写真の多くには、丸い光の輪(レンズのフレアー)が写っている。その波動が「いつかどこかでかならず、ひかりとともにお会いしましょう」というコメントと共振して見る者に迫ってくる。
たしかに心地よい写真ではあるが、以前の強引さ、力強さがやや薄れていることが気になる。「タイヤ」のような、わけのわからない衝動に突き動かされた作品をもう一度見てみたいと思う。被写体を受けとめるだけでなく、こちらからももう少し踏み込んでいくべきではないだろうか。
2011/07/13(水)(飯沢耕太郎)
森村泰昌 新作展「絵写真+The KIMONO」
会期:2011/07/06~2011/07/25
日本橋タカシマヤ6階 美術画廊X[東京都]
最近はマッチョ系の男子への変身が多かった森村泰昌の新作は、ひさびさに女性をモデルとするセルフポートレート作品だった。元になる原画は金沢出身で大阪を中心に活動した日本画家、北野恒富の「《キモノの大阪》春季展覧会」(高島屋大阪長堀店、1929)のポスターである。束髪の若い女性が着物を肌脱ぎにして肩と片方の乳房を見せている、なんとも大胆な図柄であり、駅などに貼り出されたものはその日のうちに全部なくなってしまったという。大阪生まれで、いまも活動の拠点を大阪に置いている森村にとって、この北野のポスターの「でろり」とした濃密なエロティシズムには、かなりの親近感があったのではないだろうか。その「日本画なのに写真みたいな描き方」も彼の「絵写真」の手法にぴったりしていると思う。
今回の出品作は6点で、「恒富風桃山調アールデコ柄」「上品會/豊公錦綾文」「百選会/ロマン・ド・ラ・ローゼ」「百選会/小磯良平風に」「アレ夕立に/栖鳳風に」「森村作/構成主義風に」と、着物の柄をたっぷりと見せる構図になっている。北野恒富の原画に加えて、「上品會」や「百選会」のような高島屋主催の着物発表会の出品作、高島屋所蔵の小磯良平や竹内栖鳳の名作、森村自身の抽象的なシルクスクリーン作品がデザインされた着物それ自体が、画面の中でそれぞれしっかりと自己主張している。「高島屋創業一八〇周年記念」の展覧会にふさわしいものであり、ここまで「衣裳を見せる」ことにこだわったシリーズは、森村のこれまでの作品にもなかったのではないだろうか。
なお、本展は高島屋新宿店十階美術画廊(8月10日~22日)、同大阪店六階ギャラリーNEXT(12月28日~2012年1月10日)に巡回する。
2011/07/13(水)(飯沢耕太郎)
吉行耕平「The Park」
会期:2011/06/29~2011/07/18
BLD GALLERY[東京都]
吉行耕平の「公園」のシリーズを最初に見たのはいつだっただろうか。1970年代前半に『週刊新潮』に掲載されてかなり話題になったのを覚えているし、1980年に刊行された写真集『ドキュメント 公園』(せぶん社)も購入しているので、探せば家のどこかにあるはずだ。初めから、これはかなり面白いシリーズだと思っていたし、その印象はいつ見ても変わらない。奇妙にしぶとい魅力を発し続ける作品といえるだろう。
赤外線フィルムを入れたカメラで闇の中を透視するという手法は、吉行の専売特許というわけではないのだが、このシリーズはそれ抜きでは考えられない。公園の夜陰にまぎれて密かな行為をおこなおうとするカップルを、ハンターのように狙ってシャッターを切っている。そこに写ってくるのが、当事者のカップルだけではないのがポイントだろう。そこには、カップルの近くに群がっている「覗き」のグループの姿もくっきりと浮かび上がってくるのだ。しかも、ただ覗いているだけではなく、時には行為に没入している女性の体に触ろうとする者までいる様子が実におかしい。人間という生きものの本性というべき、滑稽で切実なふるまいを、見事にとらえきったドキュメントといえるだろう。
「覗きたい」という欲望は、考えてみれば写真を撮影するという行為の原動力でもある。純粋な好奇心に突き動かされて撮影し続けた結果として、「公園」シリーズは単なるスキャンダルを突き抜けた表現性を獲得することができた。2000年代に入ってから、吉行の作品が欧米のコレクターたちの間で大きな話題を集め、ニューヨークをはじめとして個展や写真集の刊行が相次いでいるのも当然というべきではないだろうか。
2011/07/12(火)(飯沢耕太郎)
森山大道「オン・ザ・ロード」
会期:2011/06/28~2011/09/19
国立国際美術館[大阪府]
森山大道のような長いキャリアと高い知名度のアーティストの回顧展を開催する時には、大きく分けて二つのやり方があると思う。ひとつは順を追って、クロノジカルに代表作を並べていくオーソドックスな展示、もうひとつはむしろ積極的に作家の作品世界を解体=構築し、新たな解釈を打ち出していくやり方だ。前者は無難だが見慣れた眺めを見せられるだけになりがちだし、後者はその作家をずっとフォローしている観客にとっては新鮮味があるが、初めて見る者にとっては混乱をもたらすことになる。つまりどちらも一長一短があるわけで、両方の可能性をバランスよく追求していくキュレーションが必要になるということだ。
今回の森山大道展に関していえば、そのバランスがかなりうまくいっているように感じた。観客はまず「東京」と題する、大伸ばしのデジタル・カラープリントがぎっしりと隙間なく並ぶ部屋に導かれる。このシリーズは森山の最新作であり、いきなりこの写真家の表現の生々しい「現在形」が突きつけられるのだ。さらに「ブエノスアイレス ハワイ 記録」「新宿」と2000年代以降の作品が並ぶ部屋が続く。照明は暗く落とされ、作品の一点一点がスポットライトに照らし出されて白熱した光を発しているように見える。そしてそこから先はやや小さく区切られたスペースに、1968年のデビュー写真集『にっぽん劇場写真帖』から始まって、『狩人』『写真よさようなら』『遠野物語』『続にっぽん劇場写真帖』『光と影』『仲治への旅』『サン・ルゥへの手紙』『Daido hysteric』『COLOR』と主要な写真集の掲載作が並んでいる。つまり、現在の森山大道の写真家としての営みをクローズアップして見せるパートと、クロノジカルに表現の変化を追うパートとを組み合わせることで、この写真家に特有の「路上」における眼差しや身振りのあり方が、立体的に浮かび上がってくるように仕組まれているのだ。
強く感じたのは、森山の写真が与えてくれる「そこに何ものかが生成しつつある」という独特のドライブ感である。どの写真を見ても、画面のあらゆる細部から、震え、うごめき、うねり、伸び縮みする生命力の波動が伝わってくる。そのアニミスム的なエネルギーの放出のあり方は1960年代の初期作品でも、最新作の「東京」シリーズでもまったく変わらない。「路上」は彼にとって、あらゆる生命の母胎となる大いなる混沌なのだ。
2011/07/10(日)(飯沢耕太郎)
epiphany─世界を発見する方法─
会期:2011/07/08~2011/07/18
中之島デザインミュージアム de sign de >[大阪府]
コンピューターや音響機器の特性を利用して批評的なサウンドアートをつくり出す高橋卓久真、サミュエル・テイラー・コールリッジの詩とギュスターヴ・ドレの挿絵をモチーフにしたインスタレーションを行なった岡田真希人、画家が絵を描いている姿の自画像を無数に複写、コラージュして絵画と写真の中間のような触感を持つ作品をつくり上げた来田猛。3人の作品を個展形式で同時に展覧した。いずれもユニークで質の高い展示を行なったが、私が最も驚いたのは来田の作品。最初に見た時は写真とは思えず、絵画なのにこのツルリとした表面はどういうことかと訝ったぐらいだ。今年2月に行なわれた京都市立芸術大学の作品展でもユニークな作品を発表し、話題を集めた来田。彼の引き出しには、まだまだ驚きのネタが隠されているのかもしれない。
2011/07/10(日)(小吹隆文)